『葵、朱莉、翠李』

 赤井あかい朱莉あかりにとっての冒険者とは、憧れと自分とを同一化する為のツールの一種であると同時に、人生で唯一と呼べる時間を費やすのに値する、と思える行為そのものである。

 自習――デカデカと黒板に書かれた文字に目をやり、ため息をひとつ。

 

「朱莉さん。ため息は身体に良くありませんよ」


 良くないのはこの養成所の方だ。溜まった鬱憤を思わず翠李みどりにぶつけてしまいそうになった朱莉だが、笑顔を繕う事でそれを紛らわせた。


「そう、だね。アハハハ……」


 はぁ——今度は咎められない様に、と心の内でため息を吐く。

 未だに埋まることのない三つ並んだ机の左端に目を配り、恨めしく思ってそれを睨んだ。しかし、全ての不条理は自業自得が由縁。それ故に朱莉の苛立ちは一層に募り出す。

 憧れの冒険者である幾月文音が所長を務める養成所の存在を聞き付けた時、これこそが天命である、とさえ思えた。有無も言わさずに飛び込んだまでは良かったのだが、蓋を開けてみればその際の入所者は自分だけ。その少しした後に翠李が入って以来、人数が増えることはなかった。

 最初の内は幾月文音の教えを独占できると考えたが、彼女が教壇に立つことはなかった。最低でも三人揃うまでは本格的な訓練はなしだという。

 朱莉にとって進展のないまま時間だけが過ぎて行く現状は、秒針の針が進むごとにストレスが加速度を増して溜まっていくのみでしかない。限りのある人生の貴重な時間を無為に費やしている、という構図が成り立ってしまっているのに我慢ならないのである。


「ねえ翠李、あなたは何とも思わないの?」

「わたくしはこの落ち着いた雰囲気が好きですよ。もちろん、早く三人目の方が来て下さるのを心待ちにしているのは朱莉さんと変わりません。ですが、こうしてゆっくりと過ぎて行く時間を見送りながら日々を送れるのは、もしかしたら今のうちだけかもしれませんもの」


 どこから入って来たのか、はたまた飼っているのか。翠李の肩や頭の上で小型の鳥たちが羽休めしている。ひと目見ただけで彼女とその周りの時間だけがこの世界から隔絶された異空間であり、自分とは異なる理の中で生きているのを朱莉は悟った。


「もし次にロリって言葉を口にしたら、その口を割いてやるわよ」

「……合法」

「処すぞ」


 ふと廊下の方から文音の物と聞き覚えのない声がしてくる。その騒がしい声と足音が次第に近付いてくると、朱莉たちのいる教室の扉が開かれた。


「待たせたわね。チーム幾月、始動よ」

「思ったんですけど、そのネーミングはダサくないですか?」

「へっ?!」


 得意気だった文音の出鼻を挫いてみせた見知らぬ女性に、朱莉は言い様のない不快感を覚える。否、確かな嫌悪感だ。自身の憧れである文音に対して歯に衣着せぬ物言いをし、何よりも許せななかったのは、恐らく今日が初対面であろうその女性と文音の距離感が自分よりも親し気に見えること。


「幾月先生さん、そのちらの方は?」

「ん、ああ、紹介しよう。この失礼なバカは今日からアナタたちと共にこの養成所で立派な冒険者を目指して訓練していく事になった、蒼井葵だ」


 視界の淵から順に赤黒く染まっていく。腹の底から溢れ出そうになる激情が喉を咽び上がって来る。これ以上、理性を働かせるのは難しい。

 「お前っ」思い切り両手で机を叩いて立ち上がる。「今すぐ表出ろっ」




 冒険者を志願する連中なんてどこかイカれた社会不適合者だけ。

 突然に怒声を上げた朱莉の姿を見た翠李は、いつかの祖母の言葉を思い出していた。老舗の和菓子屋で大女将を担っていた祖母にとって、冒険者なる職業のことを理解するのは厳しいのだろう、そう思っていた。

 初対面の相手に対してここまでの明確な敵意を向けている朱莉の姿は、正しく獣や魔物の類いとして映ってしまう。彼女には彼女の事情が在れど、やはりこの行為に及ぶような思考を理解するのは不可能である。

 翠李は朱莉から視線を外し、音もなく息を吐いた。「イカれていますわ」


「落ち着きなさい、赤井。いきなりどうしたっていうの?」

「文音さん? ……いや、その、違っ……ごめんなさい」


 空気が漏れ抜けた風船のように萎みながら席に崩れ落ちるようにして座る朱莉。どうにか落ち着きを取り戻せたようで何よりだが、彼女へ下したこれまでの評価は再び精査する必要が出て来た。苦笑を繕いつつ細目で朱莉を睨む翠李。

 面喰ってか、唖然とした様子のまま固まっている葵の方へ視線を向けると、不意に目が合う。初対面であることを抜きにしても、なかなかに読めない独特な雰囲気の相手である。翠李の内の本能が警鐘を鳴らす。


「とにかく、これで頭数は揃った。さっそく明日から本格的な訓練を開始していくつもりだから、今日のところは解散ね」


 正午すらも回っていない時間だというのに、とさすがに怠惰であると言わざるを得ない判断に対し異を唱えようとした時だった。

 「それから」教室を後にしようとする文音が振り返りながら続ける。「赤井は私のところへ来るように」

 なるほど。小さく頷いてから朱莉の方を見る。言い訳の一つや二つを告げたそうに口を開くものの、それを呑み込んで閉じられる。賢明な判断だろう。


「ドンマイ、ですわ」

「……うん」


 意気消沈を絵に描いたような様子で席を立ち、教室を出て行く朱莉。

 ひと息吐いたところで気付く。教室という密室で得体の知れない相手と二人きりであることに。


「はじめまして。緑居りょくい翠李です」


 主導権は握るに限る。相手の出方が予測できないのであれば尚の事、場の掌握は必須。


「あ、どうも。蒼井葵です」


 特に焦る訳でもないが姿勢を直してお辞儀を返してくる辺り、最低限の常識は有しているのかもしれない。翠李の中での警戒心がやや収まる。


「葵さんは今日からこちらの寮で生活するのですか?」

「一応、そのつもりで来たんだけど……あの子も同じ寮だよね?」

「そうなりますね」


 あからさまに肩を落としている。無理もないことだが、ここはフォローしておこう。朱莉をダシに使うのは忍びないが、初対面で好印象を植え付けるの事の方が大事である。


「朱莉さん……彼女、いつもはとても優しいお方なんです。先程の事は何か訳があっての事でしょうから、あまりお気になさらない方が良いですよ」


 不安は拭えずとも、といった所だろうか。先に比べてやや表情の険しさが和らいだように見える。


「まあでも、入った以上は付き合っていかなきゃ、だしね」

「はい。その意気込みです」


 いざと言うときの為の駒は多いに越したことはない。

 翠李は心内でニヤリ、と笑みを浮かべた。

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