第五話
チハが目を覚ました頃には、すっかり空は青くなっていて、鷲が大きな翼を広げていた。チハは何度か瞬きをしてから急いで身体を起こした。鹿の頭が枕代わりにされていた。身体は随分とあちこちが痛んで、鉛のように感じる。頬に引っ付いていた鹿肉がぼてっと地面に落ちて、すぐ隣には老人が焚き火の前で鹿の角を炙っていた。
「チハ。起きたか?」
老人の額はこんがりと焼けて、何重にも皺が寄せ合っていた。だからふっさりとした白髪と白髭が余計に際立って見えた。
「鹿はこの通り無事だ」
鹿は見事に解体されたあとだった。
「ヤマギシ。鹿は親子だった」
「そうか。私が見つけた時にはこの子鹿しか残っていなかった」
「きっとハハンが持っていったんだ」
「命を救ってくれたんだ。それくらい許してやりなさい」
話を聞いたチハは近くの浅瀬川の方に向かった。
「チハ」とヤマギシは呼び止めた。
「今度私がそばにいないときに熊と遭遇したら、獲物を譲ってもいいからまず逃げなさい」
黙ってうなずいたチハは、ぼろぼろになったダウンを脱いで川にとぼとぼと歩いていった。老人は小さなチハの背中と薄汚れたシャツとジーンズを見ていた。その瞳はどこか寂しそうだった。
長野は道々に落ちている細い枝を踏むことに必死だった。「無」になる必要があったからだ。
湿気った枝の上を歩くと鈍く喋ったように聴こえて、私は何故「無」を求めるのかということを考えてしまう。
それは懐を広げ、何かを受け入れる前段階のように思えた。生活、思考、経験、実践を得て自分の内にある内包されて、確率されつつある殻を破る。若しくはより尖ったものにする必要があると感じた結果故の行動なのかもしれないとも思った。
さっきの音は何だったのだろうか、ふと不安になって空を仰ぐと、鷲が大きな翼を広げて飛んでいた。夕陽は空に溶けきろうとしていて、夜は訪れかけていた。山は着実に暗くなっていた。
長野はスマートグラスを暗視モードに切り替えた。右端の部分に表示された時刻は午後七時を過ぎていた。途中休憩を挟みつつも、なんだかんだで、一日歩きっぱなしだったので、そろそろどこかで野宿することを考えたが、まだ頑張れそうなので登った。
背負っているリュックサックには、学生時代に買った寝袋や三日分の水と携帯食、替えの下着などが詰め込まれていた。
「なんか学生時代の合宿を思い出すな…‥」
確実に斜面は上り坂になっていき、このまま登りつめた先に何があるのかを考える。ただの頂からの景色か。それはそれで悪くないし、予想を裏切る答えでもないように思えて、肩の力を抜くことも視野に入れた。また少しだけ考えて、これも先の見えない明日を、未来を、何のために生きているのかと似ているなとも思った。
それでもこの無謀な散策に「死」の可能性は微塵も予測しなかった。
「え」
直ぐ側に猟銃が落ちていた。辺りを見渡してみたが人影はどこにもなかった。当たり前だ。ここは登山に使われている山ではないことは長野でも理解していた。だからこの山を選んだのだ。
とりあえず猟銃を拾った。誰かこれを落として困っている人がいるのかもしれない。猟銃は予想以上に重かったが、歩きながら何故こんな山奥に猟銃が落ちているのか考えた。
色々な推測はあった。第一に自分以外の人間が存在する、若しくは随分と前に存在していた。見た感じ猟銃は何年もそこに放置された感じは見受けなかった。
それに何時間も前に割れたような音が聞こえてきたのは、この猟銃が原因な気が一番現実味を感じた。
また歩き続けると、これまた驚いた。何かの動物が死んでいた。
「えぇぇ」
動物の死体らしきそれは、骨がむき出しになっていて、臓物や肉の欠片が少量散らかっていた。そのおこぼれをもらおうと小さな虫たちがせかせかと忙しなく蠢きあっていた。
典型的な動物が動物に食い荒らされたあとだった。歯骨を見る限り、犬のようにも感じた。
じわじわと恐怖に包まれていく予感が長野を襲った。いざ現場で自然界の食物連鎖を目の前にして興味より恐怖心の方が勝った。だけどとりあえず撮っておくことにして先に進んだ。
次はもう完全にダメ押しだった。
「え」
長野は少し進んだ南西に、黒い物体がいることを確認した。暗視モードで周囲は薄緑に包まれているものの、黒い物体は黒い物体のままで、のそのそと四足歩行で進行しているのがわかった。
長野は瞬時に「やばい」と思った。自然と足も止まった。あれは恐らく山に存在しうる熊と呼ばれる動物だと知識として知っていたけれど、まさか自分が山に入って実際に遭遇するとは微塵にも思わなかった。
長野にとって熊とは、ニュースなどで時折流れてくる、又は創作でよく目にする空想世界の産物の印象が強かった。
熊は幸いまだ長野の存在を認識してはいなかった。けれど長野の恐怖は、無意識のうちに限界に達して、熊がいる方とは逆方向に全速力で走り出した。あの暗視モードみたいに光った目が特に怖かった。
山を乱暴に走ると色々な音を立てて、自身の存在を周囲に与えることを長野は知らなかった。逆に山を歩くときは時々音を周囲に向けて鳴らすことによって動物たちが警戒するので、偶然の遭遇といったことをさけられる。そんなことも当然知らない長野の存在に熊は気づいて、驚いて叫んだ。
「そこで大人しく待っているように、すぐに食べますから」とえらく律儀に熊が呼んでいるように感じ取った長野。弱肉強食の生物DNAが騒ぎ出し、警鐘を鳴らした。
重いリュックサックの背負い紐を力一杯握って走った。肩に掛けた猟銃の存在などとっくに忘れていた。こんなにも手汗が滲み出ることを人生で初めて知った。
「ふっ! ふっ! ふぇっ!」
長野は脇目も振らずに走った。もし東京で三十路手前の女が顔も走り方も気にせず全力で街なかを走っていたらきっと子どもたちに指をさして笑われるだろう。でも今は誰も笑ってくれる人もいなかった。代わりにいるのは、逃げる背中を格好の獲物だと認識し、今晩の食事にありつけると喜んでいる熊だけだった。
「ひっ! ひっ! ひぃっ!」
だから叢の下が急な坂道になっていることに気がつかなかった。
「あっ」
長野は落ちた。落ち葉や木の枝を巻き込んで思い存分転がっていった。
「死んだ」と長野は思った。本当はどうせ山に行くのなら一度くらいは狸に会いたいな、と長野は密かに思っていたことを今更ながらに思い出していた。
限界まで澄まされた川水の流れは穏やかで、せせらぎは耳に浸透してくる。チハは両膝をついてそっと手を水に触れた。水を両手で掬って口元に運んだ。つんと冷たい水を何度か口内に含み、泥と血を地面に吐き出した。ついでに顔を洗った。戦闘で傷ついた頬傷が今頃になって痛んできた。
チハは顔をあげて山の谷間を見上げた。山はいつだって緑に溢れていた。濃い緑もあれば淡い緑もあった。山の後ろには水色の空が伸びて白く薄れた雲が霞んでいた。
「ダイチ。カンシャ。アイ」
チハは突然、川に顔ごと突っ込んでしばらく暴れ始めた。老人は水飛沫をあげて暴れるチハを見て元気を確認した。
「ウゥウウ」と全身ずぶ濡れになったチハはヤマギシを呼んだ。
「どうだ」
チハは口に数匹加えた魚を手に持ち替えて笑った。
「ヤマギシ、サカナだ」
「ワカサギかあ?」
「サカナ」
「焼いて食べよう」
チハはヤマギシの元に戻って来て、砂利の上にワカサギを十二匹ほど置いた。太陽の光にあてられたワカサギの表面はきらきらと輝いていて、まだ何匹かは跳ねていた。
「ヤマギシ」
「なんだ」
チハは浅瀬を渡った先にある木の陰を指した。ヤマギシもそっちを見て少し、驚いた。
チハは近づいて、様子を伺った。右手に持ったナイフの矛先を向けながら。渡ってきた浅瀬の反対では、ヤマギシが呑気にワカサギを焼いている。
どうやら人間の女だった。女は土や葉にまみれていて、おそらくこの急な斜面から落ちてきたのだとチハは考えた。
死んでいるのかと思ったが、どうやら眠っているようだった。チハは足元にあった団子サイズの石ころを静かに拾って、女にぶつけた。石ころは女の肩に命中した。女はピクリとも動かなかった。チハはもう一度似たような石を拾って投げた。石ころは女の頬に当たって、女は初めて唸るような仕草を見せた。
チハはナイフを構えた。が、女はまた動かなくなった。と思ったら女は寝返りをうって、チハとは逆の方を向いた。チハは一度、ヤマギシの方を向いた。ヤマギシは呑気にゆっくりと動いていく雲を仰ぎながら、ワカサギを食べていた。
「ヤマギシも来い!」
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