第四話
「これより先は進めません。進行ルートを再選択、又は料金支払い」と表示されたので、長野は支払いを済ませ、タクシーを降りた。
「さむっ」
雪はやんだが凍える風が肌を刺すようだ。しばらく歩いていると舗装されていた道路がなくなっていく。足元にはコンクリートが剥がれ落ちた小塊や石ころがあちこちに目立ち、所々にひび割れが確認できて、その中から飛び出るように雑草が無造作に生い茂っていた。
先程とは明らかに踏みしめる足音が変わったのを長野は感じた。
住宅街の辺りに人気はなかった。空には無人航空機が飛んでいるだけだった。長野が東京にいたときは建物に遮られ、夥しい人が行き交うので、こうして無人航空機をじっくりと観察する機会はなかった。なので撮っておくことにした。
どんな一軒家や近くのアパート、マンションにも、人々が生活をしている生気すら感じられず、全体的に灰色に霞んで見えた。電柱はあちこちで倒れ、時々野良猫や犬を見かけた。犬は長野を見るとすぐに影に逃げた。だけど野良猫はじっと長野を見つめて極端に近づいても逃げなかった。通り過ぎて、さっと振り返ってもまだ野良猫は長野を見つめていた。
また前に進んでもう流石にこっちを見ていないだろうと思ってとっさに振り返って見てもまだ野良猫はこっちを見ていた。
何故か長野は無性に腹が立ってきて、その野良猫を撮っておくことにした。
そのまましばらく歩き続けると、明らかにここら周辺地域で、野良猫のコミュニティが幾つにも渡って形成されていることを悟った。
要所要所に野良猫が、物影や一軒家のポストなどに登っており、中には集団で議論討論でもしているのか、うるさい場所もあった。
「ここがゴーストタウンか…‥」と長野は鼻をつまみながらその実態を改めて体感した。
かつてこの場所は、労働の時代にニュータウンとして再建された地方特有のものだったらしいが、人口減少と高齢化によるコンパクトシティ化の波風を受けて、自治体もなくなり廃村された。人口が本腰を入れて減少を見せはじめた三十年ほど前から我が日本でも、このような場所は年々数を増やしている。
長い道のりを歩きながら長野は一人納得していた。確かにこのゴーストタウンは、車社会の時はまだ何とかやり過ごせただろうけれど、高齢化社会の現代では、まず都市部までの移動距離が遠すぎる。自家用車を持たないのが常識(一部を除いて)になった現在、幾ら移動通信システムが発展した時代とはいえ、妊婦や高齢者にとってこのゴーストウンはあまりにも金銭的体力的にも不便不公平不効率に思えた。
これも何かの材料になるかもしれないと、長野はとりあえずあたり周辺を適当に撮っておくことにした。
長野は泥濘む山道を歩いていた。わざわざスマートグラスの道案内を拒否してまでゴーストタウンに隣接する山に来たことにこれといった明確な理由はなかった。ただ「無」になる必要があると感じていた。
もしかしたら自分は出世を焦っていたのかもしれない、と長野は思った。と同時に今の世の中には似つかわしくない言葉ではあるな、とも思った。
長野はまた「無」になれていないと思って、少し立ち止まって竹藪から覗く陽の光を見た。濡れた雫が竹に垂れていて、時々光を吸って落ちたりしていた。
いつの間にか雨の降る日に盗み聞きした会話を無意識のうちに脳内で再生していた。
「どこからお越しに?」
「あ、あの札幌の方から……」
「これはまた随分と遠方から。まだお若いのに、ハハハ……」
「ハハ……」
「珍しいですね、今時、個人に興味を持つ若者なんて。近年は、若者はおろか、年寄りすら読まなくなった。だから君のような若い世代の人に興味を持ってもらえて実に嬉しいよ」
「はぁ、いえ、そんな……」
「君も、ほら、自分で、やるの?」
「い、いえ、そんな! 読みはしますけど、自分一人でなんて、まさか」
「なんと、もったいない。君は学生さん?」
「はい。来年から東京の大学に」
「そう、じゃあ文学部?」
「はい、一応」
「ならまず、一人で一本くらい書いておくといい」
「いえ、そんな、書けないです」
「なぜ?」
「個人で書くなんて、無理に決まってます」
「それもそう、か。いずれ集団に?」
「はい、それは一応、やれればいいかなと思って」
「そうか。どんな形であれ書くことはいいことだ。楽しんでね」
「はい」
「いやはやすっかりお邪魔してしまったね。このあともゆっくりと見てまわるといい」
「はい。失礼します」
竹藪から覗く陽の光が、一本の竹に綺麗に溶け込んでいくよう思えて、長野はまた「無」になれなかったことを思い出した。
このままでは、きっと今度の企画会議に間に合わないかもしれない。
もう締め切りまで残り三十日しかなかった。だから普段は大学に引きこもってばかりの長野も旅に出ることにした。自然に潜り込み、何かを感じて、少しでも創作の糧になれば良いという下心からの行動だった。
長野はどうしても今度の企画会議で選ばれてメインを務めたかった。でないと「お見合いコミュニティ」が待っていた。
両親は喜ぶが、それだけはなんとしても避けたかった。母親は娘が大学に属していることを快くは思っていなかった。
「ずっと家にいればいいのに、大学なんて、ねぇ。このご時世に女が働くなんてどうかしてるわよ由紀。結婚して、子供を産んで、子育てして、それが由紀の一番の幸せなのに」というのが母親の口癖だった。
だから長野は大学進学を機に上京を選んだのかもしれないし、本当はもっと別の夢を見ていたのかもしれないが、今となってはどうでもよくなっていた。
大学進学を機に上京する者が多いのは今も大昔も変わらない。いつの時代も若者は都に出て新しい刺激を受けながら学問に励み、仲間と出合い、そして都で培った技術や経験を故郷に持ち帰っていくのが現代でも重要視されている。
だが長野は故郷に帰ることを選ばなかった。長野は何か特別秀でた能力を有していることもなかった。学生時代に集団で創る面白さを経験したことによる影響も大きかったが、このまま故郷に帰ったところで老後までの生活が見えきっている怖さみたいなものが彼女の中で芽生えていた。
でも本当はもっと違う何かの為かもしれない、だってこんな山を歩いたって今更なんの意味があるのか、そういう疑問を感じないわけではなかった。
「もう十年か……」と呟いたのと同時に、遠くでパアンと割れたような音が鳴った。
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