第六話



 長野は焼けた魚の匂いを感じながら目を覚ますと、そこには知らない少女と老人がいた。そして何故か少女は焼けた魚を長野の鼻辺りに近づけて様子を伺っていた。

「ヤマギシ、起きたぞ」

 長野は上半身を起こそうとして、肩に酷い痛みを覚えた。

「無理に起きない方がいい」

 言われたとおりにじっとしていることにした。そんな長野を興味津々に窺う少女と目があった。頬に痛そうな傷跡が目立つが、綺麗な瞳をしていて、羨ましいなと思った。服装はぼろぼろの黒ダウンに、自然に出来たのか加工なのかわからないダメージジーンズを履いていた。靴は履いていなかった。

「食べるか?」

「え」

「サカナだ。食べるか?」

「み、水か、何か、飲み物をくれませんか。あ、多分私の、リュック」

「ヤマギシ、水が欲しいそうだ」

「ほれ。飲ませてやりなさい」

 木で作られたコップをヤマギシはチハに手渡し、無理やり長野の口元につけた。長野はむせた。

「大丈夫か」

「……だ、大丈夫です、自分で飲みますから」

 水が体内に浸透していくのが手に取るように伝わった。少し落ち着いて横を向くと直ぐ側で鹿の頭だけが横たわっていた。

「ひえっ!」

「どうした」

「し、鹿が。だって鹿が」

 長野は痛む身体を無理やり回転させて鹿の頭から離れた。その反動のお陰か上半身を起こすことに成功した。

「鹿だ。鹿がどうした」

 チハは長野の行動を不思議そうに見ていた。

「あ、あの、貴方たちは一体」

「ワタシはチハ。こいつはヤマギシだ」と言ってチハは老人を指差した。ヤマギシは呑気にワカサギを頬張っていた。

 それに気づいたヤマギシは「君こそどうしてこんな山奥に? それに酷くぼろぼろのようだが」と言って、またワカサギをむしゃむしゃと頬張る。

「ヤマギシ。お前さっきから食べ過ぎだ。そんなに食べるなら自分でも獲ってこい」

 チハはラスト一本のワカサギを握っていたヤマギシの手から無理やり引き離そうと揉み合った。長野は突然じゃれ合いはじめた二人をただ呆然と見つめていた。何故かまた眠くなってきて、いつの間にか眠っていた。

 長野が次に目を覚ました頃には、空は真っ赤に染まっていた。

「よく寝るな」

「チハ、さん?」

「もうワタシたちは家に帰るけど、お前はどうする」

「私は……」と長野は徐々に意識が回復してきて、とっさに立ち上がろうとした。

「いたっ、ひえっ」

 何度見ても隣に鎮座する鹿の頭は慣れなかった。肩や身体中が痛いのは変わらなかったが、右の足首が異常に痛いことに気がついた。近くにいたヤマギシが長野の右足を何度か触り観察して「骨は大丈夫だけど、強い打撲だろうな」といった。

「それもそうだが、そもそも君はどうしてこんな場所に?」

 長野はことの経緯を簡単な自己紹介を交えて話した。チハは黙って聞いていたが、ヤマギシは少し驚いた表情を見せた。

「なるほど。それは災難だった。逆によくこの程度の怪我ですんだほうだ。頑丈だね」

「昔から身体が大きい方でしたので、よく言われてました」

 長野は慣れたように愛想笑いをした。身長179センチの長野にとって、頑丈だとか逞しいとかの類を言われるのは、コンプレックスだったのだが、流石にこの歳にもなると慣れたものだった。

「でも君は少し山を軽く見過ぎだ」

「すいません」

 ヤマギシの服装もチハと大して変わらずダメージの入ったジーンズを履いていて、上半身だけがライオンのような毛皮コートえお着ていた。靴は茶色の革靴だった。

 長野はヤマギシのふさふさの白髪と白髭にばかり目がいっていたが、今更ながら顔の彫りが深く、瞳の色が薄っらと青みがかっていることに気づいた。それからはなぜ「ヤマギシ」なのだろうかと疑問に思った。反対にチハは明らかに日本人顔と分かるが、渾名なのか、若しくは本名であったとしても姓名の区別が難しかった。

「チハ、鹿を頼む」

「わかった」

「え、え」

 ヤマギシは長野を立たせた。

「さっきは二人でこっちまで運ばせてもらったが、流石に家までとなると多少は自力で頑張ってもらうしかない」

「あ、はい。すいませんなんか。肩まで、ありがとう……ございます」

 流されるままに長野はヤマギシに肩を担がれながら、暗くなった山道を月明かりのみを頼りに歩いた。チハは小さい身体を器用に使いながら子鹿のモモ肉を二本担いでいる。

「あの、すいません。ご迷惑をおかけして」

「気にするな。山でお前みたいなか弱い女は、一人では生きていけないからな」とチハは元気よく言った。長野は「ありがとうございます」と感謝を表した。

 内心で「か弱い女」なんて言われたのは人生で初めてかもしれないと感じ、それにこんな小さい子にと少々複雑な気持ちにもなった。

 それにしても月の明かりがあるだけで、夜の山道は全然違うものだなと長野は思った。 

 これなら暗視モードがなくても……とふと長野はリュックサックや猟銃、スマートグラスがないことを思い出した。何故今まで思い出せなかったのか不思議なほど自分の頭が冷静に機能していなかったことを痛感した。

 二時間半ほど歩いただろうか、気づけば三人は、苔が張りついた大岩壁の前に立っていた。大岩壁はサイズの疎らな大岩が高くまで積み上がっていて、先が丸みを帯びているのか、よく見えない。丸みがかる付近からは木や草が伸びているのだけは分かった。

「もうすぐだ。まだ足は大丈夫か」

「はい、なんとか」

「そうか。長野さんと言ったね?」

「あ、はい」

「長野さんには、この先のことは全て、誰にも言わないで欲しい」

「え……あ、はい。分かりました。約束します」

「よし。チハ、開けてくれ」

「わかった」

 長野はヤマギシが言った意味がよく掴めなかったが、とりあえず見守ることにした。

 チハは鹿肉を地面において、大岩の三段目辺りに全体重をかけるように両手で強く押しはじめた。岩と土が擦れる鈍い音がして驚いたことに大岩が押した力によって抜け落ちた。鹿肉を背負いなおしたチハは、スマートな大人一人分が入れそうな穴に這いつくばるように中へと入っていった。

「え……なんですか、ここ」

「君も今からこの中に入る。ほら、チハのあとに続きなさい」

 言われるがままに長野も足が痛いのを我慢して、ぽっかりと抜け落ちた空間にほふく前進の姿勢で潜り込んだ。穴を抜けるとそこは暗闇だった。後ろから入ってきたヤマギシが大岩をはめなおす反響音でここが洞窟かトンネルのように推測できた。が、あまりにも暗くて静かなので不気味に思えてきて、長野は一生帰れないのではと怖くなった。

 長野は近づいてきたヤマギシの肩を借りて歩いた。チハは難なくこの暗闇を歩けていた。

 しばらく進むと、出口があるのか、奥からほんのりと光が見えた。光に近づくにつれて、ここが大小疎らな形をした岩が噛み合わさって出来たトンネルになっていることを長野は知った。

「もうすぐだぞ」

 チハの声は暗闇でもよく通った。だから長野はその声にいつの間にか安心感を覚えはじめていた。

 出口を抜け、その先には普通車タクシー一台分が通れそうな幅の道が続いていた。左右には苔が張りついた岩壁が長野の胸元辺りの高さまであって、その上にはチガヤやササが揺れていた。道は左方向に進んでいくようになっていて先は見渡せなかった。

 チハを先頭に歩きやがて道は左方向に抜けて、緩やかな下り坂になっていく。左右の岩壁は徐々に足元まで低くなり、木々が増えてその隙間から星の明かりが差しこむ。

 虫が静かに鳴いていた。突然、長野は柄にもなく両手で口元を覆い掠れた声を洩らした。

「えぇ、なに、ここ」

 坂道を抜けた先にあるのは、月に照らされて浮かび上がる一つの池。辺りを囲うように美しい緑が円形に沿って、水面に映る宇宙は月や星が無限に伸びていくようで、時々、各箇所で波紋を繰り返していた。

 長野は自分が立っている場所が恥ずかしながらも楽園のほとりに思えた。自分は今、幻想的な夢を見ているのであって、本当は熊に襲われたときに死んでしまったのではないのかと自分を疑わずにはいられなかった。

 長野はここにきて現在手元にスマートグラスがないことを悔やんだ。この幻想的な世界を撮れない自分の運の悪さを恨んだ。仕方ないのでこの光景をしかと眼に焼きつけようと池に浮かぶ白鳥や蓮の花を見て歩いていると、梟の地鳴きが耳に届いてきた。

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