第4話 警備員のおじさん

 イベントスペースから琴のいい音がした。琴を演奏するのは着物を着た若い女性。わたしよりも明らかに歳が若いと分かったから若い女性と言っているだけであって、わたしもまだ若い女性と言いたい。


 その若さと品の良さと琴の音に魅了される通行人たち。顔はさほど美人ではないが着物と琴でだいぶ点数を稼いでいる。


 わたしが琴を弾いたらどうなるだろうか。それよりもますわたしは弾けない。ピアノすら弾けない。


「シノノメナギちゃん、休憩かね」

「あ、はい……そうです」

 私のことをフルネームで呼ぶのは警備員のデンさんだ。本名は知らない。顔がなんとなく俳優のでんでんさんに似ているから、でん、である。


 フルネームで呼ぶのは大抵彼しかいない。なぜ私の名前をフルネームで呼ぶのだろうか。他の人に対してなんて呼んでいるのか聞いたことがないからわからない。フルネームで呼ぶのって芸能人みたいだ。

 綾野剛だって綾野でも剛でもない。

 向井理だって向井とは言わないが理(おさむ)ともなかなか言わない。

 オダギリジョーみたいなものか? 彼もオダギリじゃないし、ジョーだけでは言わない。

 図書館司書らしく作者名でいうなら東野圭吾も東野って言わないし、圭吾だなんて言わない。

 湊かなえとか、って上げたらきりがないからやめた。


「シノノメナギちゃんはお琴はやらないのかね」

「やりません」

「お花は」

「やりません」

「お茶は」

「やりません」

「今の若い子たちはそういうものをやらなくなったなぁ。あの子みたいに着物を着てお琴を弾けたらどこに嫁いでも恥ずかしくないだろうに」


 じゃあ、でんさんの息子さんに彼女はいかがですか? あの置き場所に困るお琴を置くスペースはありますか? 維持費や習い事や着物やらそれらのお金を払う経済能力はありますか? 嫁に来させたらそれで終わり? あとは子作り、家事、育児、介護、お琴をさせる時間はあるのですかっ。


 と心の中で吐き捨てた。笑ってればいいのだ。こういうおじさまたちにはニコニコしてればいい。


「で、シノノメナギちゃん。前から言ってた息子とのお見合いはいたしてくれるんだい」

 そうだった。のらりくらりかわしていた彼の息子とのお見合い話。あれは本気だったのか。

 私はお琴をしてないけどいいのだろうか。


「今日は写真を持ってきたんだが」

 写真? これは本気だ。でも私は断りたいのだが。でんの家族になるのは無理。延々と話しされてうんざりしているから。結婚してもシノノメナギちゃんとかいうのだろうか。


 でもこのご時世、お見合い、というのも新鮮かもしれない。絶対これで結婚したら周りの人から「お見合い! まぁ、なんて古風な」だなんていうだろう。そしてお見合いの席では不慣れな着物を着て美味しくもない茶菓子を食べて言い慣れない言葉を交わして無駄な儀式にお金をかけて結納して親戚一堂で食事会をして結婚式をして……結婚してすぐ子供はまだか、孫を見せろ……全部これは周りの先に結婚した友達の愚痴を総合した結果な訳で。


 まぁこのご時世結婚式とか食事会とかしなくても良さそうだけど。


 ……写真だけでも見るか。どんな人なんだろう。

「45歳でな、郵便局勤めで……」

 45歳……たしか45歳、こないだトーク番組に伊藤英明が出てた。45歳って。

 伊藤英明……長身のすらっとした男の中の男! 私より10歳年上。そんなふうに思えない。ひとまわり近く年上でも悪くはない。


 だめだ、もう伊藤英明しか思い浮かばない。口元が緩む。

 郵便局員の伊藤英明……。


「んでこれが写真な」

 と渡された写真。見てすぐ返した。


「ありがとうございました。私の知り合いにも郵便局員がいまして毎年年賀はがきを買わなくてはいけないので困っておりまして。あ、休憩終わっちゃう。またご縁がありましたらー」

 とわたしはでんに写真を返す。でんは目を丸くしてポカーンとしてる。


 伊藤英明と頭の中で盛りすぎたわたしがいけない。でも人は見た目で判断するのは良くない。そして郵便局員の偏見もいけない。


 でも私は35歳、選択する余地はあってもいいのだ。そしてまだ琴の音が響く。どうか彼女の人生も選ぶ余地がありますように、そしてずっとその琴を続けさせてくれる素敵な方と巡り会えますように、と心の中で祈った。

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