ベニス、床に座り込む

 目を覚ました僕が最初に見たのは、涎を垂らし、満足そうに寝息を立てる赤ずきんちゃんの顔だった。

 お陰で、僕は起きてすぐに昨夜のことを思い出すハメになった。

 戸惑う僕に馬乗りになり、恍惚の表情で息を荒げる赤ずきんちゃんと、終わることのない快楽を共有しあった時間が鮮明に脳裏に浮かんで来る。

 僕は途中から、本能に負けて、赤ずきんちゃんを襲い返してしまってもいた。そのせいで自責の念に襲われている。


 ――ほうら、がんばれがんばれ♡

 ――はぁ……はぁ……。

 ――わたしの体に一生懸命なジャンバ可愛いねぇ。

 ――赤ずきんちゃん、赤ずきんちゃん……僕……。

 ――我慢しなくていーんだよ……?


 金と女には気をつけろ、という言葉がある。

 僕は小さい頃、その言葉に対して『お金は分かるけど、女はどうして?』なんていう、ある種の疑問を抱いていた。

 でも、その言葉の意味が今なら分かる。

 身をもって知った。

 快楽の深みにはまると、どれほど抜け出しにくいのかを、体で理解してしまったのだ。

『ぬへへ』

 そんな寝言を呟く赤ずきんちゃんの頬を、僕はなんとなく突いた。

 柔らかくてすべすべしている質感だ。

 なんだか、もっと触れたくなる感触で、昨夜みたいにまたえっちがしたくなる――って、僕は何を考えているんだ。

「頭を冷やそう……」

 僕はパンパンと頬を叩いて、煩悩を消して頭を冷やす為に、外に出ることに決めた。

 今は早朝である。外の空気は冷えきっており、頭を冷やすには丁度良い時間だ。


※※※※


 僕が割り当てられた部屋は、最上階の8階だった。窓の外を眺めれば、都市を一望出来るような景色がある良い部屋である。ただ、外に出るのが少し大変だ。

 まぁそれはさておき、ひとまず僕は部屋を出て廊下を進み、階段を降りていった。

 1階に到着すると、ちらほらと寮生の姿が見えて来る。

 僕と同じような新入生らしき人が多く、緊張して早く起きてしまったとか、そういう感じのようだ。

 僕はふと、そうした面々の中に、どこかで見た顔がいることに気づいた。

 ベニスだ。

「そういえば、子爵家って言っていたっけ」

 東館は男爵家と子爵家で一纏めだ。だから、ベニスもこの寮に住む事になっているわけだ。

「……ふんっ。アルドードじゃないか」

 ベニスは僕の視線に気づくと、鼻を鳴らして近づいてきた。

「俺に恥をかかせたことを後悔させてやる。ひとまず、格が違うということを教えてやる。新入生対抗戦って知っているか? それの代表に選ばれるのは非常に名誉なことであり、恐らくは俺が選ばれるハズだ。俺は才能を秘めているからな! ふふふふふっ……まっ、同じ館なんだ。応援ぐらいしてくれたまえよ?」

 ベニスはそんな台詞を吐くと踵を返した。どうやら、新入生対抗戦の代表が僕に決まったということを知らないようである。

 と、その時だ。

 一人の寮生が壁に張り紙を始め、それを見たベニスの目ん玉が飛び出した。

「なっ、ななっ……どうしてもう決まって……」

 張り紙は新入生対抗戦の代表についての連絡であり、そこには『ジャンバ』と僕の名前が記されていた。

 家名が書かれていないけれど、手配した人が忘れたか、もしくは知らなかったかのどちらかだろう。

 ともあれ、代表が既に決まっており、それが自分では無い事にベニスはかなりショックを受けていた。

 その自信がどこから湧いて来るのかはさておき、手を口元へと持って行き、あわあわと震え始めている。

 丁度良いので、僕は先ほどの啖呵のお返しをすることにした。

「そういえば、あの時は家名しか言ってなかったね。僕の名前は”ジャンバ”って言うんだ。……応援ぐらいしてくれたまえよ? 同じ館なんだから、さ」

 ベニスの肩をぽんぽんと叩きながら、僕は耳元で囁くように言う。

 すると、ベニスは「う、うそだ。うそをちゅくな」と言いながら、へなへなと力なく床に座り込んだ。


※※※※


 外に出てみると、予想していた通りの涼しさが頬を撫でる。半分ほど顔を覗かせた朝日と共に、新鮮な空気が肺の中に入って来た。

 周囲は静寂に満ちている。

 もう少しすれば、沢山人が出て来るのだろうけれど、今はまだ少なかった。

 今見えるのは、マラソンをしている人がちらほらと言った程度であり、その中にはゴルドゴの姿もあった。

「おっ、ジャンバか。おーい!」

 ゴルドゴは僕を目ざとく見つけると、手を振りながらこちらに来る。とりあえず僕は挨拶を返した。

「おはようございます」

「おう。……それにしても朝早いなジャンバ。俺は体力作りでマラソンが日課だからだが、お前もか?」

「いえ、違います」

「違うというと……さては、新入生対抗戦の代表に選ばれたことで緊張しているのか?」

 ゴルドゴの読みは少し外れている。

 僕に不思議と緊張は無い。

 昨夜まではあるにはあった……のだけれど、赤ずきんちゃんとごにょごにょした結果、どこかに消えてしまっていたのだ。

 今ここにいるのは、緊張と言うよりも、赤ずきんちゃんと一線を越えた事について頭を冷やしたいからである。

 ただ、そんな事は寮の規則的に言えないので、僕は適当に誤魔化す方向に舵を切った。

「緊張と言うわけではありません。たまたまです」

「……なら良いんだが」

「緊張云々は本当に大丈夫です。それにしても、体力作りって何か理由があるんですか?」

「理由? あるぞ。俺は卒業したら軍人になりたいんだ。だから体力作りだ」

「軍人……ですか?」

「俺は次男だから親父の跡を継げないんだ。家が男爵家だと言ったろう? お前も同じ男爵家の産まれなら言わなくても分かるだろうが、基本的に男爵家は貧乏でさして偉いわけでもない。次男の俺が飯食えるような席なんか用意出来ない」

 あくまで貴族としては、という注釈がつくけれど、男爵家が裕福ではないというのは分かる。

 僕の父上も男爵だからだ。

 普通の人から見たら裕福な方だけれども、貴族と言う視点から見たら、相対的に貧乏なのは間違い無かった。

 雑収入として貴族年金はあるものの、これは爵位によって貰える金額が変わり、男爵位は一番階級が低いから雀の涙である。

 そして、そんな貴族年金を貰えるようになるのも、爵位を継いだ者だけだ。

 多くの場合それは長子であり、それ以外の子息子女は、いずれ平民として外で生きていくことになる。

 ゴルドゴは自分なりに、そうした状況を踏まえ、現実的に物事を見ている。

「……色々考えたんだ。魔専を卒業して家から出た後どうするかを考えて、その時に”狼男爵”って呼ばれてる人のことを知った。男爵といえど貴族なら書記官とかって手もあるのに、そんなんじゃなくて前線に赴いて戦う――そんな感じで肩書なんて関係ないのさって姿勢にシビれた。それに憧れて、俺も軍人になろうと決めたんだ」

「狼男爵……あっ、それは僕の父上です」

「はぁっ⁉ マ、マジで⁉ じゃあもしかして、ジャンバの家名ってアルドードか⁉」

「えぇまぁ」

 ティティとの会話で、父上がそれなりに有名なのは知ったので、ゴルドゴが知っていること事態には驚かないものの……憧れている、というのはどう捉えればいいのかわからず困惑する。

「対抗戦代表のお知らせの張り紙作って貼るように後輩に頼んでたんだが、知らなかったから家名を伝えてねぇ……」

 ゴルドゴは「しまった」と頭を抱えた。あの張り紙には家名が書かれていなかったけれど、それはゴルドゴのやらかしのようだ。

 まぁその、別に自分の家名が書かれていなくても、僕は別に構わない。

 父上の名が広く知られていたとしても、男爵であることに変わりは無く、自慢したり、威張ったり出来るような立場でも地位でも無いからだ。

 それに、そういう方向でマウントを取るのは、単純に僕の柄では無い。

「悪かった。後で直せそうなら直しておく。……ところで、出来ればで良いんだが、親父さんにそれとなーく俺のこと伝えておいてくれないか? 『ゴルドゴって人が憧れてるって言ってた』とかなんとかってさ」

「えぇ……」

「な? な?」

「ま、まぁ名前ぐらいなら……」

「よし! 頼んだぜ! じゃあ、俺はマラソン戻っから! ――そうそう、何か困った事があったらなんでも俺に言えよ!」

 ゴルドゴは気持ち悪いくらいに良い笑顔になると、そのままマラソンに戻っていった。

 勢いに負けて、父上への言伝を押し切られてしまった。

 いや、それは言い訳だ。

 断ろうと思えば断れたのに、そうしなかったのは僕自身だ。

 大人しく約束は守ることにしよう。

 顔を上げると、すっかり昇った太陽が見えた。気がつけば、僕の頭もきちんと冷えて正常に戻っていた。

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