愛と呼べない夜を越えたい
尾八原ジュージ
愛と呼べない夜を越えたい
改札を出るとすでに夜は始まっていて、行きかう人々の頭越しに大きな満月が浮かんでいる。私は黒いパンプスを鳴らして駅から街に出て行く。
壁と天井に囲まれた場所を出ると、途端に木枯らしが私の顔や首元に吹きつけてくる。私は黒いコートの襟を立てて首をすくめ、なんとなく物悲しい気持ちになって、足早に南の方へと歩き始める。
途中で派手な格子柄のコートを着た、髪の長い女とすれ違う。横顔が
気を取り直して、私は歩く。その先に五十階建てのホテルがあり、自動ドアを抜けてエスカレーターを上ると、フロントのある美しいロビーに到着する。ロビーの中央には大きな七宝焼きの壺があって、私は「あれ、地震が来たら倒れないかしら」と呟いた菫さんの、倒れてほしいのかほしくないのかよくわからない表情を思い出す。
何人かいる従業員は、澄ました顔で整然と自分の業務をこなし、客も皆、一流ホテルにふさわしく上品な様子で、間接照明の下で談笑している。透明人間のような私は誰にも呼び止められることなく、ロビーからエレベーターに乗って最上階のボタンを押す。
菫さんとここに来たのは一度きりだ。特に目的があったわけではない。ただ、ホテルって都会のオアシスだよねとかなんとか言いながら、ちょっといい部屋に泊って、ルームサービスでおいしいものを食べて、豪華なバスルームを堪能して、ごろごろしながら映画を観て、ふかふかの広いベッドで眠っただけだ。
菫さんが私のことをどう思っていたのか、よくわからない。それどころか私自身、自分が彼女のことをどう思っていたのかすらもわからないのだ。思えば、わからないことだらけの関係だった。
私は菫さんの凛とした横顔や、低い話し声や、なんでも「いいよ」と言ってくれる鷹揚なところが大好きだった。十二も年上の菫さんは、私のことを年の離れた妹みたいな、世話の焼けるただの友人だと思っていたのかもしれない。だけど、こんな風に月の大きな夜には、私は彼女の顔を眺めているとなんだかどきどきして、形のいい唇にくちづけしてみたくてたまらないような気がして、彼女の歴代の恋人たちにこっそり嫉妬していた。
考え事をしているうちにエレベーターは最上階に到着し、私は廊下に足を踏み出す。毛足の長い絨毯に低めのヒールが包み込まれる。まっすぐに伸びた廊下の突き当りには大きな窓があり、その向こうに満月が浮かんでいる。
私は月に誘われるようにどんどん足早になり、やがて誰もいない廊下を走り出す。窓ガラスにどんと両手で触れると、ガラスは水飴のようにぐにゃりと歪む。
私は柔らかいガラスを突き破って、五十階の窓から夜の空を落ちていく。
高層ビルの窓の灯りが、落下する私の横を流星のように次々と通り過ぎていく。
落ちている間、考えるのはいつも菫さんのことばかりだ。
他所よりもちょっと問題の多い家庭に育った私にとって、最初、菫さんは理想の母であり姉だった。彼女に甘えるのが好きで、あのホテルのベッドに座って並んで映画を観ているときも、途中で「眠くなってきちゃった」と言いながら彼女の膝に頭を載せた。柔らかくて、何ともいえないいい匂いがした。
頭を下にして落ちていく私の耳元で、風がびゅうびゅうと鳴る。私は(菫さんに好きって言ってしまえばよかったかな)と考える。
菫さんには同性の恋人がいた時期もあったというから、もしも私が好きだと言えば、いつもみたいに彼女は「いいよ」と言って、私たちは恋人同士になれたかもしれない。それが正解なのかどうかはわからないが、少なくとも特別な関係にはなれただろう。
だけど彼女の恋人になりたかったのか、妹になりたかったのか、それとも娘になりたかったのか、いまだに私の心は決めかねている。
何にせよ私は、菫さんに愛されたくてたまらなかったのだと思う。
菫さんのお葬式は夜で、今みたいに大きな月が出ていた。
私はとぼとぼと斎場を出て、人目も気にせず子供のように泣きながら帰った。歩きながら、どうして彼女は死んじゃったんだろうと自問を繰り返した。
菫さんとどういう関係になりたかったのか。彼女がいなくなった後も、私にはそれがよくわからないままだった。ただそれはともかくとして、単に「愛しています」と言えばよかった、と思った。恋人にせよ親子にせよ姉妹にせよ、私が菫さんのことを愛していて、彼女にも愛されたかったことだけは確かなのだから、どんな関係か、なんて気にせずそう言ってしまえばよかった。あのホテルの部屋で、彼女の膝枕で映画を観ながら、一度だけその顔を見上げて「愛しています」と言えばよかったのだ。あの夜観た映画の内容を、結局私は少しも覚えていない。
その夜、自宅のベッドで泣きながら眠った私は、気づくといつの間にか駅の雑踏の中に立っていた。空には大きな月が浮かんでいた。そこが見覚えのある場所だと気づいたとき、私の足は何かに導かれるように、菫さんと一晩を過ごしたホテルに向かっていた。
これはきっと夢なんだろう。
この長い夢がいつ覚めるものなのか知らないけれど、私はこうして何度も何度も同じ夜を繰り返している。
頭を下にして落ちる私に、どんどん地面が迫る。いよいよ重く冷たい死の予感が私の中に湧き上がってくる。
そのとき、私は横目で、私のすぐ横を誰かが落ちていくのに気付く。まるで今初めて彼女を知ったみたいに、私の視覚がその整った横顔の輪郭を捉える。
「あ」
いしています、と続ける前に、私の脳天がコンクリートに衝突して、世界が暗転する。
気がつくと私は、駅の改札を出たところに立っている。
空には大きな満月が上っている。外に出て派手な格子柄のコートの女とすれ違い、スーツの男に追い越されて歩く。
いつかこの夜を越えることを夢見て、私はホテルの自動ドアをくぐる。
愛と呼べない夜を越えたい 尾八原ジュージ @zi-yon
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