第三章 1
――Covent Garden(コヴェント・ガーデン)
Pub "Pigs fly"(パブ・ピッグス・フライ)
サドラーの
「忌々しい。軍は本気で俺たちを飼い犬のように使うつもりだ」
一人がそう吐き捨てて、掴んでいたグラスをテーブルに叩き付ける。
「しかしボスの指示でもある。『軍に従え』だ。それがボスのオーダーだ」
「それだ! なぜボスはあの飾りばかりの権威主義者どもに従うんだ? 俺はそれにも納得がいかん」
「従わないのか?」
「……従うさ。ボスの指示は絶対だ。今回も何か意味があってそうしてるんだろ。本当に忌々しい。忌々しいが、やってやるよ」
仲間たちにも知らされていないことで、サドラーが知っていることが一つだけある。
それは、これからおこなわれる下層都市の制圧が、あくまで軍の指令によって行われることに意味があるのだという、ボス――ルーファスの狙いだ。
「行くぞ。俺たちはイノバティス。どんな内容でも、それが任務ならイノバティスにふさわしい成果を上げねばならない」
腰を上げるサドラー。
彼にはもう一つ、秘密にしておかなければいけないことがある。
それは彼のミッションがもう一つ、別にあることだった。
彼が通常の作戦指令書とは別に受け取った
――City(シティ)
反ルーファス勢力の主要人物が大勢集まる中、リッチ・ギャリオットによるルーファスへの詰問は続いていた。
「長く行方不明とされてきたイルミナ嬢だが、有力な情報を手に入れたのだ。彼女は忌まわしき下層へと降りたとな」
「ほう。なぜそれをすぐに知らせてもらえなかったのかな?」
「彼女が降りたのは下層の中でも更に深部。知っているだろう。帝國の恥部だ。ただ、恥部ゆえにむやみに触れられぬ場所でもある。それに、彼女には疑惑があった」
「疑惑?」
「
「何を証拠に」
「貴様も下層都市の独立運動を支援する意向を示していたであろう」
「それが何か? M&Iとしては、
「それは隠れ蓑にすぎんよ。貴様はその影で、イルミナ嬢を通じて
「兵器などとんでもない。彼らの生活に必要な物資を提供していただけのこと。彼らは闇雲に
「その動きからして、すでに我々の意思に反する行いだ。隠し立てして行うなど言語道断。やましい理由なくしてなぜ隠した」
「確かに我々M&Iはあなたがた軍とともにやってきた。だが、それはあなた方の従者としてではない。我々はあくまで対当だ。常に軍の利益だけを考えて動いたりはしない。軍の意思に反しようとも、自身の利益追求のために動くことだってある。そこは競争です。帝國の基本理念、自由貿易ですよ」
「我々の意思は帝國の意思。世界を統べる帝國の意思だ。それに逆らうは世界への反逆」
「それが傲慢だというのだ。あなたがたは」
「貴様が言えたことではない。よりにもよって
「鼠の尾をつかまねばならなかった。長かったよ。しかしようやく動きがあった」
「ブラッドフォード卿。貴様はイルミナ嬢にとり、信ずるに値しない男であったようだな」
「イルミナ嬢は助けを求めた。我々の動きを恐れ、そして貴様には頼れぬと判断した」
「そして別の男に頼ったのだ。それが『
「彼女は『
「バルナはプロメテウスの供物。イルミナ嬢はそれと、貴様から提供された多くの
「それがあなたがたの筋書きということか。好きにするがいい」
「彼女を捕えれば、おのずと貴様の容疑も固まろう。もはや貴様になすすべはない」
「茶番だ。すべて」
軍もイルミナとバルナが欲しいのだ。そして連中が芥同然に考えている下層階級の排除も行って一石二鳥というわけだ。
「そう、うまくいくものかよ」
地を這うものには地を這うものの意地があるのだ。
高みの見物を決め込んでいるツケはすぐに払うことになる。
――East End(イーストエンド)
応接間だろう。質素で小さな空間に二人は通された。
木箱に薄いクッションを敷いただけの椅子に腰かける。
少ししてやってきた人物の姿に、バルナは腰を浮かせる。
「ミーナ!」
「二人ともありがとう。ここまで来てくれるとは思っていなかった」
「お前がジェネラル・ラッドなのか?」
ウィルがそう言うと、
イルミナは、そう、とだけ答える。
その見た目にからはかつての科学者の印象はなく、その変化は長い潜伏の日々を物語っている。
「ウィル、本当に久しぶり」
ウィルはああ、とだけ声にする。硬い声で。その表情を覗うことはバルナの位置からはできなかった。
「バルナ、寂しい思いをさせてごめんなさい」
「はじめは寂しかったけど、今はもう大丈夫」
嘘ではない。が、そんな簡単な言葉で表せるほど、バルナにとって三年間という月日は短くなかった。だけに、自分の言葉が空々しく思える。
イルミナはどうにか作ったような笑顔をバルナに向けただけで、それ以上は何も言わなかった。代わりにジェネラル・ラッドとしての顔を作り直すと、
「話したいこと、聞きたいことはたくさんあるでしょう。だけど残念ながら時間がないの。
帝國軍がイーストエンドを丸ごと占拠しようと動き出したわ。M&Iの備蓄する豊富な
「ちょっと待って」
バルナは声を上げる。
「突然すぎてわからないことばかりだよ。ミーナがジェネラル・ラッド?
ごめんなさい、とイルミナは言って、
「詳しく説明をしている余裕はない。あなたにはゆっくりと考える時間を上げたかった。ここならそれも叶えられると思ったけれど……イーストエンド全体が戦場になったら、ここも安全とは言えない。それに、なにより、あなたと、それにウィルには、ジェネラル・ラッドとして、頼まなければならないことがあるわ」
イルミナはバルナの動揺を受け止めることなく続ける。
バルナはイルミナに駆け寄ろうとするが、ウィルがその肩をつかんで止めた。
「ウィル!」
「落ち着くんだ」
「でも!」
「俺もわからないことばかりだ」
ウィルはかぶりをふった。
「だから、まず一通り聞いてみる」
イルミナが困ったような笑顔を浮かべる。
「ウィル、あなたは相変わらず落ち着いているわね」
「イルミナ、お前もそう変わっちゃいない」
そうかな、と言って溜息を洩らしかけるが、すぐにその息を飲むと、ジェネラル・ラッドとしての顔を取り戻す。
「バルナ、あなたには真実に向き合ってもらう。上に来て頂戴。話せることは、道すがら話すわ」
イルミナはそういうとすぐに部屋を出ていく。
バルナはウィルを見る。
ウィルは頷く。
二人はイルミナの後を追う。
「ここを登るわ。ついてきて」
そこは螺旋階段になっていた。
見上げると、途方のない高さがある。
地下を突き抜けて、下層都市の天井にまで届くか、というところまで伸びているように見える。
イルミナは速足で上っていく。バルナとウィルはついていく。
「私はジェネラル・ラッドとして死ぬ覚悟はできている。でも、バルナ、あなたにはインディアでふつうの暮らしをしてほしかった……でもルーは、ルーファスはあなたを放っておく気はなかった」
「ルーファス……社長が?」
「あなたはずっとルーファスの指示でM&Iから監視されていたのよ。プロメテウス計画によってあなたは高いイグナイトのポテンシャルと、それを自在に操る才能を持って誕生した」
「プロメテウス、計画?」
「結局、まだ続けていたのか、あれを」
ウィルが反応した。
「知っているの?」
ウィルは頷く。
「俺がまだ軍にいたころだ。いろいろといやな目にあったと言っただろう。その最たるものがプロメテウス計画だ。
ウィルの顔がゆがむ。
「バルナも俺と同じ実験台にされたってのか」
「……ええ。そうよ。あなたが放棄したものを完成させるために。それにバルナ、いいえ、ミトラにはこの計画が必要だった」
「ミトラが? 妹もその計画に?」
イルミナはうなずく。
「ルーファスはプロメテウス計画をさらに推し進めていた。あなたが私たちから離れてからもね。そして、第二の成果がミトラであり、バルナよ。さらにあの大叛乱はイグナイトの研究を飛躍的に進めた。プロメテウス計画は完成と言ってよかった。イグナイトを自在にコントロールできる人間……そう、まさに魔術師と呼ぶにふさわしい才能を持つ人間の因子を発見できた。それが今のM&Iのイノバティスにも応用されている」
「でも僕はそんなこと、まったく知らなかった。どうして? なぜイルミナは黙っていたの?」
イルミナはこちらを見ないで、階段を上り続けている。すこしの沈黙。
螺旋階段を覆っていた外壁がなくなる。地下から大聖堂の尖塔の一つまで続いていたらしい。その尖塔の外壁が崩れてなくなり、螺旋階段とそれを支える柱だけがむき出しになって、そのままさらに高く上にまで伸びている。ここはここでロンデニウムの巨大な壁と天井の覆われた下層、巨大な屋内空間なのだが、それでも強い風が吹き、地上からはるか高所の不安定な足場を歩いていることに、バルナは不安を感じる。
「見て」
沈黙していたイルミナが立ち止まり、足下に広がる巨大な廃墟を指し示す。
「ここからだとセント・ポール大聖堂の全貌が見えるでしょう」
いうとおり、下から見たのとは違う視点で、大聖堂の大きさがうかがえる。
「かつてはロンデニウムの中心地、シティのシンボルであり、國教会のシンボルだった。それが今では廃墟同然。國教会もその実態はすでにない。かたちのない権威だけが政治の道具として利用されている。このセント・ポール大聖堂の姿がそれを示しているわ。今はロンデニウムの最初の支柱のふもとで朽ちるのを待つだけ」
再び歩き出す。
「
再び立ち止まると、振り返った。螺旋階段は頂上に達しかけているところまで進んでいた。
「ごめんなさい。バルナ。あなたにはなんの責務もない。ただ、協力してほしい。いえ、私は強制しなくてはいけない」
そのとき、下界から轟音がとどろき、あちこちで火の手が上がるのが見えた。
「来たわね。戦闘が始まったわ。もう、本当に猶予は残されていない……バルナ。いいえ、その呼びかたがふさわしいのかどうか……ともかく、多くの命の運命が、あなたにかかっているわ。あなた自身の運命も大きく変わる」
イルミナはじっとバルナの目を見る。
バルナは目をそらせない。何かを言いたいのに、喉がつかえて言葉が出てこない。
「いえ、ここに、ロンデニウムに来た時点で、運命はもう決まっていたのよ」
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