第二章 6

 ミゼットの言う通り、この街の路地を歩いていると、先ほどまでの自分がいかに浮くことになるかがわかる。いちいち周りを見回さなくても、ここでいかに貧しい生活が行われているか、五感を通じて染み渡ってくる。

 小さな建物が無秩序に密集し、路地は細く薄暗い。その路地のあちこちに立ったり座り込んだりしている人々。商売をしているのだとはっきりわかる人もいれば、何をしているのかよくわからない人もいる。酒に酔いつぶれて倒れている人、新聞紙を被って寝ている人などからは生気を感じない。建物からは様々な汚物が垂れ流しになっているようで、路地の隅は汚れと臭気がひどく、近寄ることも難しい。

 猥雑な雰囲気だけなら、ラーホールの小路クーチャもそう変わらない。

 だけれど、違う。

 ここには色がない。生きているものの力が感じられない。澱んでいるのだ。

 しかし、ここの人々の目の奥だけは、ギラギラと光るものがあって、それがバルナに向けて当てられているような感じだけはする。生きる力とは別の、不気味な迫力のある力を感じる。とにかく、よけいな意識を持たないようにと、バルナは努めた。

「しっかし……三年行方をくらましていたイルミナがまさかロンデニウムに戻ってきていたとはねえ」

 バルナの感覚とはまるで別の、緩い口調でミゼットは言った。ウィルに向かって言っているのだろう。

「イルミナのことは知っていたのか?」

 ウィルがそれに応えると、

「いや、あんたたちの案内人を引き受けるまでは赤の他人だったさ。でも、M&Iの有名人としては前から知ってた。俺だって奇械MAG工の端くれだ。同じ道の大物だもの、知らないはずないだろ。だから彼女が行方不明になったってときは驚いたさ」

 そういって大げさに驚いたフリをして見せるミゼット。

「だけどな、そのイルミナがウィルの旦那と古い付き合いって聞いたときのほうがずっと驚いた。どういう伝手つてでか知らないが、彼女が俺と旦那の関係を知って、この役目を依頼してきたときだな、知ったのは。いやあ、ほんとうに驚いた」

「イルミナとは直接会って話したのか?」

「代理人だとか名乗る連中と同席で、ならね。まあ一言くらいだ。打ち合わせたのはその代理人とがほとんどさ。……ああ、安心しなよ、とりあえず、俺が目にした限りじゃ、彼女は本物のイルミナ嬢その人だったぜ。ま、よっぽど高度な奇械MAGで偽装でもしてなけりゃあな」

 ウィルはミゼットの言葉に沈黙する。

「なあに、どうせ会えないと思ってた相手なんだろ? 確かめて、本当にイルミナだったら儲けもの、くらいに考えれば? あんたなら奇械MAGの偽装だって間違いなく見破れるんだし、騙されるってことはないだろ」

 ミゼットは励ますように言うが、ウィルは黙ったままだった。バルナも不安を感じずにはいられないが、駄目でもともと、仕方がないとも思う。

「どうしてミーナはこんなところに隠れてたんだろう」

 バルナは黙っているウィルの姿に不安が膨れそうだったので、話してみることにした。

「姿を隠すのにはうってつけの場所ではあるな」

 とウィル。言葉を返してくれたことに、バルナは少しほっとする。

「何から、隠れてたんだと思う?」

「M&Iの内部の人間か、それとも軍か、ほかにも、彼女の持つ知識や技術、研究成果を狙うやつは多いだろうな」

「でも、なんでラーホールにいたのに、わざわざロンデニウムに戻ったんだろう。いくらこの街が隠れるのにいいって言っても、ミーナを狙ってる人が居そうなのは、同じロンデニウムに集まっていそうなのに」

「あえて理由をつけるなら、ここは軍さえもうかつに手を出せない場所だからだ。一応帝國政府の管轄と言いつつも、現実には野放しの状態になっている。同じ場所の上と下にあって、今じゃ別の國と言ってもいいほどだ。近くて遠い。ある意味、ラーホールや、ほかの外国に隠れるよりいい。ただ、この場所そのものの危険が大きいんだが」

 そうだ。いくら隠れるのにいいとは言え、ミーナが一人でこんな場所で過ごせるとは思えない。誰か協力している人がいるのだろうか。

「いずれにしても真意は本人に聞いてみるしかないだろうな。何か理由があるんだろうが、推測も難しい」

 二人で話していると、ミゼットが割って入る。

「そうそう。深刻にならないでも、もう少しで会えるさ。しかし旦那も隅におけないねえ。昔の女がこんな大物だったなんてさ。今じゃ彼女、M&I社長の女だってもっぱらの噂だけどさ、この騒動はどこまでそれとかかわってるのかねえ」

 さすがにこの言動には、ウィルも言わせっぱなしにはしなかった。ミゼットの腕を掴んでひねりあげる。だが、

「残念。そっちは痛くないんだ」

 袖がめくれて出てきたのは、金属の腕だった。

「口が滑ったのは謝るよ。すまない。俺がそういうやつだってのは旦那も承知だろ?」

「お前、その口がなければ今頃すご腕の奇械MAG工として立派にやれてるはずだぜ」

 ウィルは腕を放して、声に凄みをかけてミゼットに言う。

「更生する気はないのか」

「何を今さら。上に言ったってどうせこのなり、奇械漬けDOPE扱いだよ」

 そうミゼットは吐き捨てる。

「その腕、奇械MAGなの?」

 バルナはそれが気になって仕方がなかった。

「ああ、そうだ。自作だよ」

「あとで見せてほしいな」

 奇械MAGの義手・義足は特別な品ではないが、ラーホールでは珍しいものだった。

「こんなものでよかったら、あとでいくらでもな。そしたら、お坊ちゃんの奇械MAGもあとでよーく見せてくれよ」

 そう言って片目をつむるミゼット。顔がひきつっているだけ見えてしまうが、それでも愛嬌を感じる表情だとバルナには思えた。

「いいけど、お坊ちゃんっていうの、やめてよ」

「やめてほしけりゃ、もうちょっと大人にならなきゃな」

 そういう言い方がすでに子ども扱いだ。

「なんだよ、僕はもう大人だ」

 それに思わず頬が膨れて言い返してしまうバルナも、確かに子供かもしれないが。

「おい、二人とも」

 ウィルが冷や水を指す。だが、二人の掛け合いを止めるだけにしては、声音が固すぎるようにバルナには聞こえた。

「どうしたの?」

 バルナは聞き返す。ウィルは立ち止まった。

 ウィルの向く先に、一人の大柄な男が立っていた。明らかにこちらの三人を注視している。男の息が荒い。バルナがそれを意識した瞬間、思わず視線が男と合ってしまう。

 ふっ、と男がひときわ激しく息をつく。

「お嬢ちゃんがこんなとこ歩いてちゃあいけないなあ……」

 興奮しているのがわかる。息も声も荒げ、獣のような雰囲気を纏っている。

 バルナはこの男が危険を及ぼそうとしているのだと直感する。

 それにしても、男の雰囲気もそうだが、男が言っているお嬢ちゃんというのがよくわからないのも不気味で仕方がない。

「それに……イグナイトだ。お嬢ちゃん、イグナイトの熱ぅ、ばんばんみなぎらせてよぉ……」

「ちっ、イグナイト計器を直接、自分の感覚につなげてる変態野郎だ」

 ミゼットが吐き捨てる。

「イグナイトが高まると気持ちがよくなって意識がぶっ飛んじまう。阿片なんか目じゃねえ快感らしい。こいつ、完全な奇械漬けDOPEだ。しかも……」

 ミゼットがバルナのほうを見る。バルナは嫌な予感がした。

「お嬢ちゃんってなあ、きっとバルナ、あんたのことさ。この野郎、あんたのイグナイトに反応してるぜ」

 お坊ちゃん扱いのミゼットが可愛い冗談で済ませられるほどの悪趣味な男だ。

「お前らぁ、邪魔だあ。お嬢ちゃんを俺に寄越せぇ」

 そう言い放った途端、男はこちらに向かって突進してきた。

 早い。

 人間の身のこなしではない。

 奇械MAGの作用を自分の体に施しているか、あるいは体そのものを奇械MAGにしているのか。

 ウィルは男の突進を、身をかわして避けると同時に、男の体を横に押した。このまま直進していればバルナとミゼットに激突していた男の体は、バルナの脇をかすめて通り過ぎていく。

「つっ!」

 バルナは思わず驚いて、よろけて尻餅をついてしまう。

 男が突進の勢いがついたまま道の脇に積まれていたゴミ溜まりに突っ込んだらしく、けたたましく何かが崩れる音がした。

「立ちな坊ちゃん! また次が来るぞ!」

 ミゼットが奇械MAGの腕をこちらに伸ばす。それをつかんで立ち上がる。

 体制を整えて身構えると同時に、ウィルが回り込んで二人を背にする。

「先に行け。ここは食い止める」

 ウィルの言葉は勇ましいが

「駄目だね。旦那がいないとこの先だって危ないんだ」

 とのミゼットの反論にバツの悪そうな顔をする。

 男のほうも起き上がり、こちらに対峙する姿勢に戻っていた。

 まだバルナを狙う気はそがれていないらしい。

 息を荒げて「お嬢ちゃん……」とつぶやく男に、バルナは身の毛がよだつ思いがする。

「俺は男だ!」と叫んだところで、男は聞く耳などないようだ。

 今いる場所は煉瓦づくりのトンネルの中。左右に逃げ道はなく、周囲にほかの人気はない。

「道を間違えたんじゃないの?」とのバルナの質問に

「いいや、この先の下水道で合ってる」とミゼット。

「下水道?」

「人目を忍んでの道行だ。日の当たるところなんて歩けないぜ」

「なんてこった……」

 そんなやりとりをしているところに再びウィルの声が飛ぶ。

「おい! 無駄口をたたいてる場合じゃない! 行け!」

 ウィルがちらりとこちらを見たとき

「イグナイトぅぅぅ!」男が吠えた。

「貴様はあんりあるだなあ。イグナイトがない! からっぽだぁ! お前はいらねえぇ!」

 そう言って再び突進してくる。しかし先ほどよりはむしろ遅い。

駆動奇械モービラス?」

 バルナは男の突進力の元が奇械MAGだと想像する。駆動奇械モービラスは滑車やトロッコ、乗合車から個人の自動車オートリクシャに機関列車と、あらゆる車両に始まり、生産工場での自動化に欠かせない、自動運動の奇械MAGだ。歯車もピストンも必要とせず、物体を望むままに運動させる。

「だろうな。鈍くなったのはさっきの突進でこけたせいで、どっかがイカれたかもしれねえ」

 ウィルは腰を低く構えた。

 受け止めるのか。

 男の巨体が迫る。

 ウィルの体格も、男には負けていない。

 衝突、その寸前。

 男の突進の勢いが、ウィルの目の前で急速に落ちたようにバルナには見えた。

「え……?」

 バルナは驚いたが、もっとも驚いていたのは、速度を落とされた本人の男のようだった。

 驚く男の体を両脇からウィルが受け止める。

 組み合う姿勢になりかけるが、それより先にウィルが右腕を引くと、肘をすばやく突き出して男の顎を突き上げた。

「うぐぅっ」

 男は首をふらつかせてよろめくが、倒れるには至らない。

 ウィルはそのまま左手で横殴りに男の頬を捉える。

 これも命中。だが、最初の一撃ほどに手ごたえはないようだった。

「邪魔、じゃまあああ」

 鼻血を流してわめく男。

 バルナはおもわず目をそらす。

 だがウィルは容赦なく男の顔面にもう一撃、拳を放った。

 だが、

「イグナイトぉぉ。熱いぞぉぉぉ」

 男がそう叫んで手をウィルにかざすと、その手のひらから突如、炎が噴き出した。

 さすがにウィルも身を引く。

 火の粉が散る。

 ウィルの髪の毛先や拳を出したほうの袖にも火がつきかけていて、ウィルはそれを振り払って消す。

 イグナイトをその名の通り燃料にして発火しているようにバルナには見えた。イグナイトの使い方としては大間違いだ。スペラを通してエーテル反応による発火減少を起こすほうがはるかに無駄がなく効率がいい。

 だが、それでは今のように派手な炎を吹きあげて奇襲をかけるような使い方はできないだろう。この男のような無法者らしいやり方だとバルナは思った。

「焼け死ねぇぇ」

 男は両手を広げてウィルに向けた。

 先ほどよりもひときわ巨大な炎がウィルに向かって伸びた。

 しかし。

「……え?」

 炎がウィルの目の前で急速に萎んでいく。

 見ると、ウィルが何か呟いている。

「まやかしだ」

 そう言っているようにバルナには聞こえた。

「あ……は……?」

 男は目の前で起きていることが理解できず、目を白黒させていたが、次の瞬間、ウィルが放った全力の拳によってその身を吹き飛ばされていた。

「今のは何? どうやったの?」

 バルナが茫然とつぶやくが、ウィルはそれに答えず、男が倒れているところに近づいて行った。二、三度、体を揺らし、目や鼻の前で手のひらを動かしたりしている。気絶しているのを確認したようだ。

「坊ちゃん、知らなかったのか。あれが鬼火ウィスプの旦那の真骨頂。ほかの非現実主義者アンリアルとは一線を画す隠し玉さ。旦那の前じゃ、すべての奇械MAGの力が。ありもしない灯、『鬼火ウィスプ』に同じなのさ」

 ミゼットはまるで自分のことのように自慢げにバルナに話して見せる。

「やめろ、見世物じゃない」

 とウィルは言うが、バルナにはウィルから目が離せない。

「そんな……そんなの、ありえないことだよ」

「だから、そう呼ばれてる」

 ウィルは事もなげにそう言う。

「だけどな、俺からしたら、奇械MAGのほうがよほどだ」

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