第二章 5
――Underground(地下鉄)
To
East End(イーストエンド)
"Strut No.54" Sta.(第五四番支柱駅)
駅のプラットフォームを出た列車はしばらく地中トンネルを走っていたが、やがて列車を上下左右に囲むのは壁面から複雑に組み合わされたむき出しの金属柱の橋になる。天井から吊るされた橋の上を列車がその車体を揺らし、轟音を立てて進んでいく。その様は列車の車窓から丸見えで、結構な高さを走っていることから、自分の体が宙に浮いているような頼りなさを感じて仕方がない。
だがそれ以上に、バルナは自分の足の下に広がる光景に驚愕した。
貧民街だ。
いや、貧民窟というほうが正しい。
ラーホールの
個々の建物にまるで統一感がない。歪なモザイク画を見ているようだ。廃材を組み合わせただけのボロ小屋のような建物のさらにその上に別の建物が建てられているところもザラにある。あちこちで倒壊した跡があるが、それも撤去しきらないうちからそのまま誰かがテントを張ったり小屋を建てたりしている。
上空から見ただけでもわかるような粗悪な
ここに太陽の光はいっさい射し込んでいない。あちこちから放たれる人工の光、
「貧しい人たちをみんな、こんな風に押し込めて、閉じ込めてるの?」
バルナは轟音に負けない声で叫ぶ。
「そうだ。これが大英帝國の栄華を支えているものの姿だ」
答えたのはウィルだ。
「ああ、かつての蒸気革命からこのかた、ずっと棚上げ、置き去りにしてきた問題そのものさ。上の連中はクサいものに蓋をするやり方しか考え付かない。いや、そもそも考える必要すら感じていないのさ」
「どうして?」
「連中は階級が上で、俺たちは下だからだ」
「貧しさを知らない人間は、貧しい人間のことがわからない。関心がない。彼らにとって、ここにいるような人間は、いないも同然の存在なんだ」
そう言われても理解も納得もできない話だった。階級? インディアにもカーストがある。しかしそれとこれとは根本的に違う。
「あの下に降りて、実際にあの街を歩いてみな。そんなくらいのショックじゃすまないぜ」
ミゼットがなぜか笑うようにしてつぶやいているのが耳に入る。
「ねえウィル」
「なんだ」
「帝國は世界の頂点に立つほどの國になったっていうのに、どうして自分の國はこんなことになっているの?」
バルナの問いに、ウィルは少し沈黙するが、
「さっき言った通りだ。この國を動かしている連中が、この現状を当然だと思っているから。問題だと思っちゃいないからだ」
ミゼットも同調して、
「昔からさ。何者にも覆しようがない階級制度がこの國をがんじがらめに支配してる。そりゃあもう絶対的な制度さ。それは下の人間だけじゃない。上の連中だって同じなんだ。王族貴族の連中も、下々を支配するための仕組みに支配されてる。変えようがないんだ。階級制度を崩せば、この國も崩れる。階級が、この國を支えてるんだよ。ちょうとこの街を支えているあの支柱のようなものさ」
指を指す先に確かに巨大な柱がある。貧民街の真ん中から伸び上がり、天井に突き刺さるようにして支えている。
列車の進路を見ると、その支柱に巻き付くように鉄橋が続いている。支柱の周囲をぐるぐると回りながら、少しずつ下も街に降りていくようだった。
「それでもな」ミゼットは言う。
「この國を変えようとしている人間はいる。そりゃ大勢いるのさ、バルナの坊ちゃん。それがこれからあんたが会う
――East End(イーストエンド)
"Strut No.54" town(第五四番支柱区画市街地)
ミゼットの言う通りだった。
実際に街に降りてみると、天井から釣り下がった橋の上の列車から見下ろしていたときの衝撃など、まだ実感の伴わない軽いものでしかなかったことが実感される。
支柱のふもとにある煉瓦とむき出しの鉄骨でできた粗末な駅舎に降りた。無人の駅だ。到着して扉を開けるなりすぐに警笛を鳴らして降車するようけしかられる。ウィルやミゼットも素早く降りるので、それにバルナも習う。少ない乗客が皆降りると、すぐに列車は戸を閉めて、最低限の昇降台があるだけのプラットフォームを出て、走り去っていった。
「長居してると危ないのさ。まあ最近の機関車は
そういうミゼットの身なりも、そのボロ着た連中と大差ないようにバルナには思うのだが、そこは黙っておいた。
「危険な場所には違いない。注意するんだ」
ウィルが言葉少なに警告をする。バルナは頷く。
「とにかく目立つなよ。ここが初めてだと思われないようにするんだ。あちこち見回したりするんじゃないぜ。絶対に誰とも目を合わさないようにするんだ。誰もかれもが隙のある奴をカモにしようと狙ってる。それがイーストエンドってところさ」
いや、それは上のシティもある意味同じか、とつぶやいてミゼットは一人笑う。冗談らしいが、バルナにはよくわからない。
ウィルは黙ったままだった。おしゃべりなミゼットがいるから自分が話すことはあまりないのか、それとも何かに集中しているのか。とにかく用心が必要なのだと思うと、自然、自分も口数が減るな、とバルナは感じた。
「見た目は……よし、あんたも立派なここの住人だ。少なくともぱっと見だけはな」
そう言ってミゼットは満足げにうなずく。
列車の車中で、バルナはミゼットから身だしなみのチェックを受けたのだった。
『下層市民のエチケットってな』
それもミゼット流の冗談だったのだろうが、バルナにはいまいち通じない。
『バルナ坊ちゃん、今のあんたは完全に田舎から出てきたおのぼりさんだ。服装からはロンデニウムの外からやってきたのがまるわかり。おまけにご自慢の
『カモネギ?』
さすがに意味がわからず、思わず聞いてしまう。
『あー、つまり鴨が葱背負って……まあいいや。つまり自分で襲ってくれって看板被ったサンドウィッチマンってこったよ、今の坊ちゃんは』
サンドウィッチマンが何かもわからない。いちいち気になるが、話が進まなさそうなので黙っておいた。あとでウィルに聞くことにしよう。
ミゼットが言う通り、バルナの頭には
ともかく、そんなものを見せびらかしていては、さあ奪えと言いながら歩いているのと同じ、とそういうことか。
『とにかくこいつを被っちまうのが早いさ』
そう言ってミゼットは背負っていたリュックから、自分が着ているのと同じような、畑の作物を入れるのと同じ、粗末な麻布に手や首を通す穴を空けただけのものを取り出した。広げると、一応、外套になってはいた。続けてミゼットはよれよれの帽子をバルナの頭に乗せる。
『……臭いね。それに埃もひどい』
『その臭いも埃も、イーストエンドじゃ
染みだらけのズボンも履いて、バルナは上から下までイーストエンドの
『ウィルはいいの?』
と聞くと、
『旦那は昔からずっとそのなりで通してるしなあ』とミゼット。
『旦那が歩けば
『じゃあ、ウィルの近くを歩いてれば、こんな恰好しなくてもいいんじゃないの?』
『んじゃ四六時中、坊ちゃんは旦那にくっついているわけかい?』
そう言われると返す言葉がない。それにしても、それほど長く滞在することになるのだろうか。
『イルミナに落ち合ったらこの街とはお別れ、とはいかないだろうな。イルミナ自身、この下層街の奥深くに身を潜めていたってことなんだからな』
ウィルに言われて、それはそうだ、と落胆した。
『なんにしても、郷にいては郷に従え。最初が肝心。そういうものだと慣れておいたほうがいいぜ』
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