第二章 4
――British Empire(大英帝國)
Londinium(ロンデニウム)
Liverpool St. Terminal Sta.(リヴァプール・ストリート終着駅)
駅の大きさは外から見ればわかるものだが、内部の規模はまた、それはそれでバルナの想像をはるかに超えていた。
30以上もあるプラットフォームは帝國の内外の各種鉄道のターミナルとなっており、それらを行き来するための駅構内のフロアの広さ、通路の複雑さ、それらの数のあまりの多さ。それが何階層もある建物がまたさらに複数組み合わさって、一つの駅になっているという。
バルナは事前に列車内で入手しておいた地図を
しかし、今回は勝手が違った。逆に表示される情報の多さに頭がついていかないのだ。
そもそも
バルナはまだまだ
「インディアではこれで充分だったんだけどな……」と思わず独り言をこぼす。
「どうした?」ウィルに聞こえたらしい。
「なんでもない!」
ウィルに言ったら〝だから
「あちこち目移りする気持ちはわかるが、急いでくれ」
ウィルの背中を追う形で歩く。
ウィルに言われる通り、何もかもが目新しくてついついあちこち見てしまう。興味深いのは
軍人に顔を見られにくいよう深めの帽子をかぶって外套の襟を立てた服装としているバルナだが、その事情を抜きにしても、バルナは自分の顔や肌の色を見られるのが嫌で、なんとなく襟を立て直し、帽子の唾を持って自分の顔を隠しながら歩くようにしてしまう。これだけ大勢の人間の中だ。誰も自分のことなど気にせず通り過ぎていくはず。そう思っていても、気分としてはどうしても見られているのでは、と思わずにいられない。実際に人目を忍ぶようにして行動しているのだから、それも仕方がないのだろう。
しかし一方でウィルは慣れた様子でどんどん進んでいく。建物にも人混みにも慣れているのだろう。ラーホールではこちらのほうが人混みの中だろうがすいすいと進んでいける自信があったが、やはり土地勘の違いは出るものだ、と感じる。
「合流場所まで行けば、もう少し人は減る」
心配してくれるのか、ウィルはそう声をかけてくる。
「大丈夫、すぐに慣れるから。そしたらもう少し早く歩ける」
バルナは少し強がりを言うが、ウィルは
「無理をしている姿は本人が思う以上に周りには伝わる。慌てず、今以上に目立たないようにして来てくれ」
などとフォローなのか、それとも単なる注意と取ればいいのかわからないことを言う。
この二週間ほどで思ったのだが、ウィルの物言いは端的・簡潔で、伝達だけが目的ならそれでもいいのだが、人には感情というものがある。無味乾燥な会話が続くとどこか胸の内にわだかまりができてくるもので、今にしてもウィルに言い返したいことがぼんやりと浮かぶ合間に、ウィルはさっさと会話を切ってしまう。それだけ本来の目的行動に集中していると言えなくもないのだが、あまりにぶっきらぼうでこちらの言い分を聞き入れる気がないようにも思えてくる。まあ、身の回りの同業者である
「向かってるのは地下鉄だ。それも下層の貧民街行きだから、自然と人通りも減る。いろんな種類の人間がこの駅を使うが、それでも下層の労働者階級は少ないほうだからな」
そうウィルが説明するころには、いくつも階段を上り下りし、通路も少しずつ細く、薄暗くなってきていた。雰囲気だけでウィルの言葉の通りであることは伝わる。通路の隅や壁面には汚れも目立ち、駅の中心部から離れて、人の手が行き届いていない場所であるのが歴然だ。ある意味で、ラーホールの旧市街で育ったバルナには見慣れた景色ではある。狭く、細く、暗く、汚れている。
広くて大きくて豪華な中央部と、この離れ。
バルナはこの差を不思議に思った。
だが、今は口にしないでおく。
少し広い空間に出た。ロビーだろうか。通路ではほとんど人気がなかったが、ここにはそこそこに人が集まり、行き来している。奥には改札口や路線・時刻表などの情報板がある。
「ここが地下鉄?」
と聞くと、ウィルは頷く。
少しあたりを見回す。ここはラーホールとそれほど雰囲気が変わらない。バルナたちが来た通路とは別の通路からもここに来られるようで、あちこちから人が出入りしている。そのだいたいの人が質素な身なりで、
その間にウィルはもうバルナの分の乗車券を購入していた。
「待ち合わせは三番乗り場だ」
乗車券を受け取る。すぐに動き出すウィルについて、一緒に改札口を抜ける。
さらに階段を降りたところに地下鉄があった。地下鉄というが、階段を登ったり降りたりし過ぎて、自分が今いる位置がすでにわからなくなっていた。
「ここって地下なの?」
「どうだろうな。ロンデニウムの地下は、一概に地面の下とは限らない。いや、土の下とは限らない、か。ここには宙に浮いた地面があちこちにあるからな」
そうなのだ。この街のほかとはまったく違うところが、そこだ。
建物だけではなく、街全体が何階もの階層に別れていて、一つの巨大な建築物のようになってそびえているのだ。建物と建物をつなぐ空中回廊の数があまりに多くなり、もはや回廊というよりは地面そのもので、それが建物どうしの隙間を埋めてしまっているのだという。ウィルのいう宙に浮いた地面とはそのことだ。ロンデニウムの地下鉄は、その地面――中空地盤、あるいは単にプレートと言うそうだ――の中のトンネルを走る路線がたくさんあるらしい。
三番乗り場にはちょうど列車が到着したところだった。車両からそこそこな数の乗客が降りてきて、ウィルやバルナとすれ違う。乗客の波が過ぎ去ると、プラットフォームにただ一人、立ったままこちらを見ている人物が残っていた。
ウィルが近づいていくと、その人物は片手を上げつつ、頭をひょこっと下げる。目線はこちらを合わせたままで、お辞儀としては奇妙な仕草だった。
「やっ、『
そう言って目じりを細めて口の端をゆがめる。笑顔というには歪な表情。白髪交じりの乱れた髪に、先が尖った耳や鼻。フードをかぶって背が大きく曲げている。一見して老婆のような風貌だが、その声音はそれに不釣り合いなくらいに陽気な若い男性のものだった。
バルナは相手を観察するあまり、自分が名前を呼ばれたことに遅れて気が付いた。
「ようこそロンデニウムへ。ここはまさに
大げさな身振りでそんなことを言う。大英帝國では舞台劇が名物の一つらしいが、その役者がこんな風に演技しているのを、バルナは観賞用の
「久しぶりだが、相変わらずのようだな」
「相変わらずも相変わらず。少しは良いほうに変わってほしいもんだよ」
二人は気さくに言葉を交わす。
「ウィル、知り合いなの?」
バルナが聞く。
「昔、仕事のさなかに知り合った。紹介しよう。ミゼットだ」
ウィルが名を呼ぶと、ミゼットはハハッ、と笑い声を上げる。
「ご紹介にあずかったミゼットだ。旦那にはちょっと昔に世話になってね。今回はたまたま偶然、あんたたちをイルミナのところに連れていく役を預かってる。あんた、イルミナが見込んだ才児なんだろ? 歓迎するぜ」
バルナのところに近づいてきて細い腕をバルナのほうに伸ばし、握手を求める。
側に並んでいると、腰を曲げているせいもあってバルナの半分くらいの背丈しかない。あまりに異形な姿と、それに不釣り合いな陽気さに、バルナは躊躇してしまう。
「もしかして、怯えてるのか? 大丈夫だよ。誰もあんたを
よくわからないことを言ってまたハハッと笑うミゼット。
「
黙っていると向こうのペースが続きそうで、とりあえずわからないことを口にする。
「知らないか?
「帝國の、とりわけロンデニウムの流行り病のようなものだ。
ミゼットの答えをウィルが補足する。
「なに、ちょっとした冗談だ。気にするなよ。それよりも……俺が言うのもなんだけど、厄介なことに巻き込まれちまってるな、お二人とも」
「厄介ごとはいつものことだが、今回は特別そうだ」
「まったく。今回の一件じゃイーストエンドも大騒ぎだ。いよいよ上と戦争かって、みんな火がついちまってる。こっちにくれば安全に匿ってもらえる、なんて思わないほうがいいぜ、バルナの坊ちゃん」
「イーストエンド? 戦争? 匿ってもらえる? ちょっと待って、さっぱりわからないよ」
ラーホールでもすべてが突然だったが、ロンデニウムに来てもまた、置いてけぼりだ。
「だろうな」
ウィルの答えはやっぱり素っ気ない。
「だが、ここで説明している時間はない」
「ああ。そうだな。軍もあちこち探し回ってる。連中、ほんとにM&Iからイノバティスのくそったれどもを奪い取って傘下に入れちまったらしい。あの血も涙もない奴らまであんたらを捜索してるんだったら、こりゃほんとにヤバいからな」
またしてもミゼットの口から聞いたことのない言葉が飛び出す。
「イノバティス? M&Iがなんだって?」
苛立ちを隠せず、叫ぶようにミゼットに疑問をぶつける。このところ、わからないことを聞いてばかりだ。
ミゼットは肩をすくめ、
「ま、おいおいわかってくさ。ロンデニウムはてんこ盛りの大皿フルコース。絶品あれば下手物あり。一度に飲み込もうとすると胸やけ起こすぜ」
「もう次の列車が来る。それに乗るぞ」
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