第二章 1
――British Empire(大英帝國)
Londinium(ロンデニウム)
the City(シティ)
リーノックの眼下には、幾重にも重なった
リーノックは淹れたてのコーヒーに少々の特製オイルとアルコールを入れた独自開発の飲料をすする。彼が気を休めるにはこれが一番だった。しかし一瞬の安息は、コーディが慌ただしく戸を開け閉めして入ってくる騒々しさに霧散した。
「少し……こちらに避難しても……よろしいでしょうか」
息も絶え絶えのコーディに、
「構わんよ。ここなら避難所に最適だろう」
手持ちのカップを掲げて応える。君もどうだ? という仕草でコーディに伝えたが、彼は無言で首を振った。以前からこの飲料がコーディのお気に召さないことは知っていたが、リーノックはいつも気にせず、誰にでもこれを勧めている。
「まあ……最適というのは……失礼ながらその通りでして」
「ここならあの赤色連中だろうと資本家の連中だろうとやっては来るまいな」
リーノックはのんびりと言ってまたカップの中身を口にする。
「相変わらず、秘書長は人気者のようだ。が、こんなときは却って仇にもなるか」
そう言ってもう一つカップを用意し、コーヒーをコーディに淹れてやる。
コーディの仕事が対外的な要素が強いのに対して、リーノックの職務は顧問研究員。肩書こそ大層なものをいただいているが、中身は老いて一線を退いた
古びた文献と手書きのメモの山が、この部屋の主とばかりに陣取っている。あとは主任職に就いてから使い続けているオーク材の作業机と、部屋の隅のカウンターにあるコーヒーを淹れるための機材一式に、缶やボトルが転がっているくらい。
ロンデニウムの中心であるシティの、その中でも一等地にあたる場所にそびえ立つこのM&I本社オフィス・ビルの上層階にありながら、リーノックの研究室はこの古い紙の黴臭さが染みついた執務室と、隣のこちらは錆とオイル臭が充満する作業室いう、最下層の工房を思わせるような場所となっていた。窓から見下ろせる階層都市の煉瓦や大理石のビル群のほうがよほど威厳と格式、歴史と伝統を備えているように見える。
「それで、今はどんな塩梅なんだ、コーディ」
「ええ、ここでも僕は質問攻めですか?」
うんざり、といった声音と表情のコーディに「別に攻めやせん。ただの質問だよ」と微笑で応えるリーノック。
「軍は本気ですよ。わが社の経営権そのものをはく奪しようって気でいますね」
「忌まわしき帝國主義もここに極まれり、だな。国民の意気軒昂だが知らんが、政治家どもの戯言であるうちは華だったな」
「まったくですよ。時代錯誤もはなはだしいと最初は批判に溢れていたはずの帝國主義が、今では右も左もなく女王陛下万歳と来てます。国民はあのディズレリの舌先に踊らさせている状態です」
「だがまあ……飾りの華に過ぎんかった帝國主義に、実を与えてしまったのが我々の
海外での植民地政策を推し進めるための方便のようなものだったはずの帝國主義。それが今ではすっかり七つの海にまたがる大帝國。軍は増長し、軍とともに発展してきた
「だが向こうとこちらは二人三脚でやってきた間柄だってのに、反逆とはな。何を偉そうに言っているのか知らないが、ありゃどういうわけだね。うちの社長が向こうを裏切るような真似でもしたってことなのかい、社長の世話女房さんよ」
「なんですか、その世話女房っていうのは」
コーディは溜息をつく。リーノックの言い分に対してではなく、
「反逆もなにも、はじめから社長は軍に従っていたつもりなんてありませんよ。あくまで商取引相手、対等な立場で接していたんですから、向こうの言いなりになる必要なんてないんです」
「確かに、ルーファスは誰かの言いなりになる男じゃないな」
「その社長ですが」
「ん?」
「社長単独での軍法会議に召喚されました」
「民間人を軍の法で裁こうというのか? まさかルーファスのやつ、それに」
「ええ、応じました……」
「あの負けず嫌いは、まったく。それにしても軍の連中もギャングと変わらんな。すべてよこせと脅してくるに違いない」
「社長はどうすると思います」
「あれは根っからの勝負師だ。負けとわかって挑む戦はせん。勝つ気でいるだろうさ。どんな手を使ってでもな」
「……では、この会社は、マギテック・アンド・インダストリィ社は、どうなると思います」
「そりゃあルーファスが勝てば安泰……いや、そうとも限らんな。そればかりはダイスの目次第、ルーレットのボールの行き先次第、と言ったところじゃないか」
冗談のつもりらしくリーノックは自分の言葉に笑うが、コーディは真顔のままだ。
「我々も身の振り方を考えないと……」
コーディは爪を噛む仕草をして見せる。頭の回転が速く、気配りに長けた男だが、時折こうして甘えを見せる。だがコーディの場合だと、そのわずかな隙が逆に魅力となるのが不思議なところだ。
「あなたはどうします? リーノック」
コーディはM&Iが比較的大きくなってからのメンバーだ。忠義に厚く会社のことを自分の分身のように考えられる男だが、それでもルーファスとは軍在籍のころから一緒だった自分とはやはり感覚が違う、とリーノックは感じた。
「私? 私がどうかすると思うかね? もちろんどうもせんよ。今さらジタバタしたところで、ほかに行く当てもない。運命共同体さ。まあ、すべてがおじゃんになったら、昔のように北に戻ってもいいかもな。マンシアムが懐かしいよ」
そう言ってカップの中身を飲み乾した。コーディはまだほとんど手にしたカップに口をつけていない。中身のコーヒーからはもう湯気は立っていない。
あの頃と違って、今では煙草を吸わなくなった、と何気なく思ったその次に、リーノックは一つ忘れていたことがあったのを思い出した。
「そういえば、少し前にウィルから電信があったな」
「電信、ですか?
地方や他国でならともかく、シティで電信を使うなどまずないというのがコーディの感覚だった。
「私の部屋にはまだ電話機もあるよ。ほれ、そこに隠れてる」
リーノックが指さす先をコーディが見ると、確かに作業机に乗った紙束の山の隙間に、ダイヤル式の電話機が主張せず置かれていた。
「いや、まあそれはいいとして……ああ、そうか。ウィルといえば、あの探偵、事件屋、
コーディの言うとおり、ロンデニウムで、とりわけ下層市民の間では探偵『
「そう。その彼から突然連絡があった。あれこれ話をしたが、最後には忠告を受けたよ。この会社に何かが起こるかもしれない、ルーファスの動きに注意してほしい、とね。そしてこの老いぼれの身も案じておった」
「何か情報を渡したのですか? 接触は、電信のみですか?」
「その電話だけだよ。イルミナのことをいろいろ聞かれたな。彼女の失踪の前後で何か変わったことはなかったか。ルーファスとは何か問題を抱えていなかったか、などとな。わしは、当時の新聞の記事や警察の発表以上のことは何も知らんと答えた。すると、今だからこそ気づくことはなにかないか、とまで念を押してきおった。失踪の当時よりも熱心な様子だったが、あいつは何かをつかんでおったのかもしれんなあ」
「何を言うんですか、リーノック」
「ん?」
「社長との過去はどうあれ探偵などという胡散臭い人種、むやみに関わっていいものではありませんよ。リーノック。あなたは肩書だけだとお思いかもしれないが、それでも顧問研究員という立場を自覚してください。何が会社の損失につながるかわからないのですから」
「おいおいコーディ。今はもうそれどころではあるまいよ。大嵐の中の小波さ」
「嵐の中では小波も大波に化けますから」
コーディの妙に心配する様を、リーノックはやんわりと笑ってやる。
「あいつにこの会社をどうこうしようなんて思いはないよ。そんなことに関心のない男さ。組織とかそういうものにはな。あいつはいつも目の前にいる人間のことにしか気が回らんやつさ。私にもM&Iの人間としてじゃない、ただの昔馴染みとして接しておった。あいつが気にしているのも、あくまでイルミナとルーファスとの個人的なことさ」
「しかし……」
「もしそのことがきっかけでルーファスになにかあったとして、それもルーファス一人の問題だ。そこには私も、秘書長のお前さんだって立ち入れはしないことさ」
「そんなものでしょうか……」
コーディは納得いかないようすで渋面をつくる。
「ともかく、今は何にせよ、ルーファスの振る舞い一つにかかっていよう。この会社のことだけじゃなく、そうだな、軍も、そうなるとこの街、この國、ついには世界中の動きまで、あいつの目論見次第ということになるかもしれんな」
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