第一章 8
身を隠す? どこに? 僕の行き場なんて家に戻るくらいしかない。
それでバルナは家のピタカのことが気にかかった。ピタカは無事だろうか。軍や、ハサンの言う探偵とかが自分のことを探しているなら、もう家の場所が突き止められているかもしれない。僕の居場所を聞き出そうと、ピタカに乱暴なことをしていたら――。
とにかく戻ろう、そう決意した瞬間だった。
「君がバルナか?」
背後からかけられた声にとっさに反応して振り向いてしまう。すぐに失敗した、と気づいた。これでは相手の問いにそうだと答えてしまったのと同じだ。
「バルナ・ヴィバート・フェルム……なんだったか……あっ、おい!」
バルナはすぐに駆け出した。こちらのフルネームをいちいち確認するあたり、意外に律儀な人物のようにも思えたが、その隙を見逃すわけにはいかない。
人混みと
しかし一度だけ振り返ってみてその気が削がれそうになった。
ついてきている。背丈があって人混みから一つ頭抜けているので、こちらからは相手の様子がすぐにわかった。身のこなしがいいうえに、多少人と接触してもびくともせずに進んでくる。しかしこちらの姿が雑踏に紛れて見失いかけているようで、すぐには追いつかないでいる。ほっとしつつも、自分の背丈のなさを少し嫌悪したが、今はそんなことを愚痴ってはいられない。利点を使わない手はなかった。旧市街まで戻ればこちらのものだ。いくらでも逃げ道はある。
相手は純粋な白人だった。きっと
「お尋ね者だ! 捕まえてくれ!」
相手がそう叫ぶのが聞こえた。瞬間的に周囲がざわめき出す。雑踏の動きが変わって身動きが取りづらくなった。回りのだれもが何事か、お尋ね者は誰だと、立ち止まり、あたりを確認し始めた。自然、全力で駆けていたバルナは周囲の注目を集めてしまう。バルナは躊躇し、駆ける速度を緩めてしまう。
お尋ね者? どういうことだ? 軍が自分を探していることか、それとも自分を逃がさないようにと周囲を巻き込むための口から出まかせか。そんな推測が頭をよぎる。いや、今はどう逃げ切るかを考えなければ。しかし周囲の混乱とともにバルナ自身にも動揺がうつってしまいそうになる。
遠くで警笛を鳴らす音がした。歩哨か、軍人かが騒ぎを聞きつけたに違いない。このままでは八方塞がり、逃げ道はなくなってしまう。しかしバルナは次の一歩が踏み出せないでいる。元からこのような事態には慣れていない。
そうだ。こんなときこそ
バルナはふと閃いた。というより冷静さを取り戻したというべきか。
今使えそうなのは、
やってきたのは赤い軍服の男が数人。そしてバルナの顔を見た瞬間の表情から、軍がバルナを探しているというのが本当だと確信した。こちらの顔も調べがついていたなんて。M&Iが
しかし軍に抵抗する必要はあるのか……そもそも詳しい事情を知っているわけじゃない。軍がこちらに危害を加えるつもりがあるかもわからないのだ。だが、M&Iを反逆者と疑う中でのバルナ個人の捜索。ミトラやイルミナのこと……穏やかな聴取になりそうもないとは直観できる。だいたいバルナは軍人が嫌いだ。関わってロクなことになるとは思えない。しかし余計な抵抗は却って事態を悪化させるかもしれない。
いっそ軍に、後ろからの追ってのことを伝えるか?
「助けて! 追われているんです!」
バルナは思い切って叫んだ。嘘ではない。
しかし軍服たちはバルナの声など聞こえていないようで、こちらの姿だけを凝視している。ダメだ、と瞬間的に思った。もう迷っている場合じゃない。
バルナは
強い閃光がバルナを包んだ。バルナの体から強い光が放たれたように、周囲にいる人々からは見えただろう。あちこちから叫び声やうめき声が聞こえる。周囲の無関係な人々を巻き込んでしまったのが気まずいが、今はまずこの場を離れることを優先する。
しかし、動きかけたバルナの腕を、軍服の一人が掴んだ。強い握力できつく握られ、バルナの力では振りほどけない。見ると、その軍服の顔の大部分を遮光眼鏡が覆っている。とっさに装着したのか、あらかじめ予想していたのか。向こうは荒事の専門家で、こちらは所詮素人などだと思い知らされる。畜生!
「抵抗はよせ!」
そう言われて抵抗をやめる者がいるのか、と思っていると、
「身内の家政婦は確保済みだ。M&I社は軍に従う意思を示している。抵抗は君の立場を不利にするだけだぞ!」
と続けざまの言葉に、バルナは抵抗の意思がしぼみかけるのを感じてしまう。次の手は、と
そのときだった。
軍服の横顔に大きな拳が鋭く叩き付けられ、肉と骨どうしがぶつかり合う鈍い音が鳴るのがバルナの耳に届いた。
「遅い。
軍服は打ち付けられた拳の勢いで頭から横跳びに吹き飛び、そのまま全身を地面に打ち付けて倒れた。小首を傾げたようにしたまま全身を痙攣させている。小さく開いた口から血混じりの澱が流れる。遮光眼鏡で見えないが、その内側で白目を剥いていることだろう。
バルナはその血を見て、瞬間的に自分の血の気がひくのがわかった。全身の力が抜けて膝から崩れそうになる。昔からそうだった。だから軍人と関わるのは嫌なんだ、争い事に巻き込まれて血を見ることになる……。
だが、崩れる体が、誰かによって支えられた。
「おい、どうした。
そう声をかけてきたのは、バルナを追ってきた大男だった。
「素人の子供にしちゃ悪くない手だったが、ツメが甘かったな」
放せ……と思うが、声にならない。かすれたうめき声を出すのが精々だった。
「おい、ほんとにどうした。自力で歩けないのか? じっとしてる暇はないぞ」
ほら、しゃきっとしろ、と男はバルナを脇に抱えつつ、言葉どおりに動き出した。バルナは気を取り戻し、自分で自分の体を支えるために両脚に力を込めた。
「よし。とにかく行くぞ」男は言った。
「あんた、いったい……」バルナはつぶやく。
「ウィルだ。イルミナの依頼で君をロンデニウムに連れてきてほしいと言われてる」
男は淡々とした口調で答える。周囲の混乱も、さきほど人を一人殴り飛ばしたことも、まるで事もなげといった調子で。
「君、バルナ・ヴィバート・フェルム……」
「そうだよ。僕はバルナ。……バルナでいいから」
ウィルと名乗った男とともに、ひとまずラーホール駅に戻った。構内の人目につきにくい場所にやってきたが、バルナは男に対する警戒を解いたわけではなく、疑問もたくさん渦巻いていた。
「ええと……ウィル、さん?」
「ウィルでいい。なんだ?」
「イルミナの依頼ってどういうこと?」
「そのままの意味だ。イルミナから手紙で、君をロンデニウムに連れてきてほしいと言われた」
「ウィルは、その、探偵なの?」
「そうだ。これは仕事だ」
「イルミナは、ミーナはロンデニウムにいるの?」
「そうらしい、としか言えない。俺も長いことあいつの居場所はわからなかったからな。あいつが突然M&Iを辞めて、それから行方をくらませてから手紙が来るまで、ずっとだ」
「ミーナのことは昔から知ってたってこと?」
「そう。子供のころからの付き合いだ」
「それじゃ、僕よりも昔からだ」
ウィルは頷いた。
「そう。だからバルナ、君のことは昔から話だけは聞いていた。インディアで君を預かることになったと聞いたときは驚いた。あいつに子育てなんて勤まるとは思えなかったからな」
ウィルはそう言うと少しだけ表情を崩した。バルナもそれを見て少し笑みが漏れる。少しだけウィルに対して親しみを感じられるようになる。イルミナという共通項のおかげだ。
「ミーナは親というより姉という感じだったよ」
「ずいぶん大きな姉だな。君が彼女の世話をすることも多かっただろう」
「そうだね……放っておくと何するかわからないし、突然どこかにいっちゃうし……」
「そうだ。厄介な奴だよ、あいつは。今度も何をしでかしたかわからない。軍とM&Iのこと、それに君のことだって、全部あいつが引き金かもしれないんだ」
そういうとウィルはどこか遠いところを見るような目をした。
「ウィル、僕は元からロンデニウムに行くつもりだった。だから行くよ。イルミナを探すつもりだったんだ。だけど……」
バルナは少しうつむく。
「ピタカが気がかりなんだ。ピタカは僕の家の家政婦さんだったんだけど、今は軍に捕まっているかもしれない……」
「しかしその人を救出に行くのは無謀だ」
「そうだけど……」
「むしろ、君がロンデニウムに向かったことをはっきりとしておいたほうがいいかもしれないな」
「どうして?」
「インディアの軍は本國の指示で動いているだけだ。君を捕えて本國に送還するのが目的だから、君が自らロンデニウムに向かったとわかれば、インディア軍が動く理由はもうない」
「……本当に?」
「俺の現地調査結果が
まだまだ聞きたいこともあるし、本当にウィルを信じてよいのか、バルナは半信半疑ではある。
だがひとまずウィルにこちらをどうこうしようという意思は感じられないし、現状では自分ひとりにできることは限られている。このままラーホールに留まるよりはロンデニウムに向かうべきだと判断した。ウィルが信じるに値する人物かどうかは、これから判断していくしかないだろう。
「……わかった。どうせあれこれ考えている時間はあまりないし。詳しい話はロンデニウムに着くまでできるしね」
「理解が早くて助かる。いきなり逃げられたときは正直、面倒になりそうだと思ったが」
「何もかもが突然で、混乱してたんだ。今だってしてるよ。M&Iのこととか、探偵が……ウィルのことだけど、僕を探しているだとか。僕はただ
バルナはそう言いつつ、気分がまいっていくのを感じる。
「それなんだが」
ウィルはそんなバルナを気にすることなく、
「本当に君は、自分がただの
むしろ思わぬ疑問をバルナにぶつけてきた。
「どういうこと?」バルナはウィルの質問の意味がわからなかった。
「……いや、今はいい。それも、列車の中で話そうか」
バルナは今は頷いておいたが、本心は気になって仕方がなかった。ウィルという男は危険は今のところないが、謎だらけの人物には違いない。
探偵という特殊な職業の男。
ロンデニウムからやってきた男。
突然現れたイルミナとの接点。
……すべてはイルミナが引き金かもしれない? ウィルはそう言った。
ウィルは何をどこまで知っているのか。イルミナのこと。今回の件のこと。
「ロンデニウムまでは遠い。列車を使っても、
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