第一章 7

――Indian Sub-continent(インド亜大陸)

  Lahore (ラーホール)



「本当に行ってしまわれるのですか? バルナ坊ちゃま」

 玄関を潜り、表に出ようとした矢先、そう声をかけてきたのは家政婦のピタカだ。

「もちろん。何度聞かれたって決意は変わらないよ」

 バルナは答える。体を向き直したりしない。すぐにでも駅に向かいたいことを態度で示す。

 ピタカとはもう散々議論をしたのだった。

 インディアの民にはいまだに帝國への不満の声が多く、わざわざ帝國に出稼ぎに行くなどと、それも帝國の悪名高い奇械MAGづくりの総本山であるM&I社に行こうなどというのだから、保護者を任された者としてそのまま行かせるわけにはいかない、というのがピタカの主張だ。

 しかしバルナは反論する。帝國の支配を良いとは思わない。支配の道具として奇械MAGを使うのも、許せることじゃない。だけど、奇械MAGそのものには善悪はない。ただの道具だ。

 そして、現実として、奇械MAGはこの世に存在している。それを最初にここにもたらしたのは確かに帝國だが、たとえ帝國の侵略がなくても、やがてはどこからか奇械MAGはインディアの地に登場したに違いない。

 結局はインディアの民も、奇械MAGについて学び、よりよく使う道を探さなくてはいけないのだ。それが、やがては帝國の支配を脱するすべにもつながる。バルナはそう信じている。そのためには、たとえ憎き帝國であっても先人より学べることは学ばなければ。

 ピタカに対してだけじゃない。奇械MAGをよく思わないすべてのインディアの民に対してでも、そう訴えるつもりだ。

 バルナは持ち前の好奇心と日々の努力によって、勤めていたM&I社のインディア奇械MAG工場での勤務態度と技術力を評価され、いよいよ帝國の本社にて異例のインディア出身の研究者のポストをつかんだのだった。

「しかし、イルミナ様が戻ってこられるまでは、ここを動かないほうがいいのでは……それに、私も一人ではどうしてよいか……」

「それも大丈夫だって言ってるじゃないか。M&Iはピタカの生活を保障してくれる。僕ももっと高い給料をもらって仕送りできるようになるし。ミーナは……ミーナのことだって、ここにいるよりも帝國にいるほうがいろいろと探しやすいはずだよ」

 確信とまでは言えないが、ごまかしで言っている気はない。インディアも帝國の一部となり、奇械MAGの普及は進んだものの、それでも帝國本土からは遠く離れた地方に過ぎない。本土の首都、ロンデニウムに比べたら田舎もいいところだ。

 今や世界の中心と帝國自ら豪語するロンデニウムは、口だけでなく世界中のありとあらゆるものが集まる街になっていると聞く。そこならば、ミーナの消息の手がかりも掴めるかもしれない。なぜ世界最高峰の奇械MAG会社であるM&I社でさえ、ミーナを見つけられないのか、その疑問に対する答えも含めて……。

 なんにしても、自分で行動しないことには、何も得られないのだ。

「だから行くよ。大丈夫、もう子供じゃないんだ」

 バルナは駆け出した。


 インディア・パンジャーブ地方。

 五つの川パンジ・アブが流れる地。

 バルナは物心ついたころからこの地で暮らし、育った。

 親は物心つく前に、大叛乱と呼ばれる紛争で命を落としており、孤児になったところを育ての親であるミーナ――イルミナに養子に迎え入れられて、それからずっとパンジャーブの都市、ラーホールで暮らしている。

 奇械MAGの技術は初め、ミーナから学んだ。ミーナ――イルミナは大英帝國の奇械MAG研究者で、M&I社の幹部だった。女性で奇械MAGの仕事をしているのも他に例がなければ、会社で幹部をしているなんて女性も例がない。帝國人メトロポリタンでもそう言うのだから、きっとロンデニウムでもめったにいないんだろう。そんな人に育てられたこともあって、バルナもインディアの民としてはめったにいない奇械MAG好きに育った。

 もっとも、バルナは純血のインディアの民ではない。親の片方は帝國移住者アングロ・インディアンだったようで、バルナは帝國とインディアの混血児ユーラシアンだ。だから、純粋なインディアの民である皆のようには、帝國に対して怒りを持てないのだろうか――そんな風に思ったこともある、実際、年の近い子からはそんな風に言われたこともある。悩んだ時期もあったが、やがて気にしなくなった。開き直ったと言ってもいい。

 そうしたことが些細なことと感じられるくらいに奇械MAGは楽しいものだった。なによりバルナが楽しいと感じたのは、奇械MAGの働きを記述する仕組み、スペラの技術だ。

 スペラとは言うなればこうなればいいのに、こんなことが起きたらいいのに、という願望を奇械MAGに伝えるための言葉だ。奇械MAGがさまざまは働きを実現しているのはこのスペラの記述に従っているもので、奇械MAGそのものはスペラの翻訳と、そのためのエネルギー変換、エーテル反応を行う機械にすぎない。奇械MAGの核となる技術はスペラだ。

 スペラはなんでも叶えられる魔法の呪文なのかと言えば、そうとも言えなくもないが、決してたやすくはない。そこがまたスペラの面白いところだ。実のところ、スペラが実現できる働きの一つ一つは、とてもささやかで地味なことばかり。それが何の役に立つかもわかりにくい。しかし、それら一つ一つの働きを幾重にも組み合わせていくことで、少しずつ大きな働きを実現できるようにしていける。

 実現したい働きが大きく、複雑であればあるほど、スペラも同じように巨大で複雑になっていく。物事がどのような仕組みになっているのか、原理の理解も欠かせない。ただ決められたとおりに唱えれば不可能が可能になるような、おとぎ話の魔法の呪文とは違うのだ。スペラ技術の習得と実践は簡単じゃない。だが、その分だけの楽しさがある。

 ミーナから学んだのはその取り掛かりくらいで、具体的な技術はほぼ独学が、実践で学んできた。ミーナが教えてくれるのは、スペラとはそもそも何なのか、スペラが人間に何をもたらすのか、そんなことだった。それも教えるというよりは、もっと日常の雑談のような話として語ることがほとんどで、バルナはミーナにスペラを教え込まれたという感覚はまったくない。ミーナはバルナにとって育ての親、というより同じ趣味を持った姉、というくらいの間柄だったように思う。

 バルナが憧れ、目標とするのは、むしろフロンテル・マグスのほうだ。

 フロンテル・マグス。彼は、奇械MAGが実用化されて量産が始まるよりも以前、スペラの体系化もまだまだというころから、自力でスペラを駆使し、現代まで通用するスペラのさまざまなテクニックを編み出した「魔術師」だ。かつてはその名をとどろかせ、大英帝國にその人ありとまで言われていたフロンテル・マグスだが、あるとき突然消息を絶ち、以後、誰もその姿を見たものはいない。何から何まで伝説と化しているのがフロンテル・マグスという人物だった。

 ロンデニウムに行けば、彼に会うことはかなわなくても、その業績の一端には触れることができるかもしれない。それもまた、バルナが帝國行きを求める大きな理由だ。


 旧市街の外れにある家を出て、小路クーチャを抜けていくとそこそこ広い通りに出て、そこではバザールが開かれており雑踏でごった返している。旧市街にはそんなバザールが縦横に伸びていて、そこらじゅうが熱気であふれている。バルナはバザールの人混みを慣れた調子でかき分けて進む。色とりどりの生地でこしらえた露店の屋根の下、食糧、衣料、日用品から奇械MAGの製品・部品・廃品まで、ありとあらゆるものを扱っているのが見ているだけで楽しいのだが、今日のバルナはそれらを視界の隅に捉えるくらいで、どんどん道を進んでいく。左右の建物の向こうに寺院モスクの尖塔がいくつも突き出ているのも旧市街ならではの景色で面白い。旧ムガル帝國時代の名残が強く残っているのが旧市街の特徴で、景色の上では今でも大英帝國の支配の色にあまり染まっていない。

 旧市街を出てラーホール駅の周辺になると雰囲気は一変する。

 帝國風の建物が立ち並ぶ。舗装された路面を自動車オートリクシャが何台も走る。道の両脇に伸びた等間隔の奇械MAG燈。見上げれば建物や燈にイグニスを供給するイグニス線の網の目。道行く人々の帝國式のスーツやドレスに身を包み、歩哨は帝國人メトロポリタンであれインディアの現地軍人マーシャルであれ皆、真紅の帝國陸軍服に身を包む。

 バルナもここからは自動車オートリクシャに乗り込み、駅に向かう。車は旧市街のバザールの雑踏や小路クーチャの狭さの中には入り込めない。

 車の小窓から流れる外の景色を見ていてふと、バルナは違和感を覚えた。これから帝國に行くという興奮のせいかとも思ったが、それだけじゃない。どうも街の雰囲気があわただしい。歩哨とは別に、軍人たちがせわしなく動いているような気配がある。

「何かあったの? 軍人さんがいつもより多いみたいだけど」

 バルナは車の運転手に訊ねてみる。

「ああ、あれな。どうやら差し押さえらしいよ。それもM&Iの会社が丸ごとだとか」

「差し押さえって……M&Iが!? なんて突然」

 あまりに突然の話にバルナは混乱する。

「噂じゃ軍の予告なしの抜き打ち捜査だって話だけど」

「捜査って……M&I社が何か犯罪をしたってこと……?」

「まあ、そういうことになるのかな。それとも証拠は出てなくても疑惑があるってことかもしれないね」

 答える運転手の表情や口調はのんきなものだ。あくまで乗客との世間話な風である。バルナの混乱と焦りなど知る由もない。

「帝國陸軍にゃ警察よりか強い権限を持った情報局だか捜査局だかって組織もあるって話だぜ……見なよ、あの外套の連中さ、あれだよ、きっと間違いない」

 ずいぶん詳しい素振りを見せる運転手だが、どこまで信じていいものかはわからない。しかし無視できる話じゃなかった。自分の顔から血の気が引くのがバルナにはわかった。

「お客さん、その感じだと他人事じゃないのかい」

 ようやく察したのか、運転手が少しだけ首を後ろに向けてバルナの様子を覗う。

「M&Iが勤め先なんですよ。ただ、これからは帝國への出向が決まっていたんですけど……大丈夫なのかな」

「ああ、それで駅から列車で帝國まで、ってことですか。でもまあ、そりゃそのまま向かっていいのか心配ですなあ」

 運転手の言う通りだ。状況は確認したい。しかしラーホール支店に直接顔を出すのは危険かもしれない。

 それにバルナは軍人が嫌いだった。この点に関しては帝國もインディアもない。どの国だろうと、軍服に身を包み、武装した人間というものにバルナは嫌悪感を覚える。事実がどうあれ、軍人が集まっているかもしれない場所には近づきたくない。

「駅までそのまま行ってください」

「そうですか? ではそれで」

 駅につき、先ほどまでのやりとりがなかったかのように淡々としたやりとりで料金の支払いを済ませる。

 すぐに通信奇械ナビガントを起動させてM&Iラーホール支社に接続リンクする。双方向デュプレックスだと本当に軍の人間がいたときにこちらの動きが伝わってしまうから、単方向シンプレックスでこちらが一方的に向こうの様子を覗えるよう、即興で通信奇械ナビガントのスペラを調整した。現在の量産型の奇械MAGはほぼすべてがスペラの内容を変更できない。奇械MAGの働きは製造時に固定化されているものばかりだ。スペラを動的に変更できるよう、バルナが一から設計した特性の通信奇械ナビガントだ。

 奇械MAGがスペラに従って発生させたエーテル反応により、遠く離れたラーホール支社周囲の場景がバルナの脳裏に再現される。それを知覚し、理解した瞬間、すぐにバルナは通信奇械ナビガント接続リンクを断った。

 先ほどの運転手の話しの通りだった。支社の建物の外にも中にも軍の人間が大勢いた。そしてその様子はM&Iを占拠しているとしか見えなかった。あのまま長く接続リンクを維持していたらきっとこちらのことを探知させてしまったに違いない。

 ハサンの通信奇械ナビガントと直に繋げないか試みた。ハサンは人事の担当で、バルナの帝國本社行きについても直接の窓口になっていた男だ。これはこれで危険を伴うが、お互いに顔を知れた間柄同士であれば第三者からの干渉を受けにくいダイレクト接続リンクが可能となる。彼自身が身柄を拘束されていればやりとりはできないだろうし、通信奇械ナビガントを押収されていたら接続記録ログを見られる危険がある。それでも、このままでは身動きができない。バルナは意を決して接続を試みた。

「バルナ! 無事か?」

 ハサンの緊張と安堵が混じった心象が、バルナの脳裏に伝わってくる。

「どうなってるの? 軍がどうして……」

「待った。……詳しい説明はできそうにない。端的に伝えるぞ。本社の幹部連中に軍への反逆の動きあり、というのが軍の言い分だ」

「反逆!? だって」

 M&I社は奇械MAGの黎明期から続く老舗の会社だ。奇械MAGは帝國の拡大とともに発展し、それは同時に帝國軍の拡大を意味した。帝國が最新鋭の奇械MAGを兵器として採用し、M&I社は兵器開発研究を常に牽引してきた。つまり、軍とM&Iは今日まで切っても切れない関係であったのだ。

「本当なの? それに本当だとして、どうして今さら反逆なんて」

「わかるものか。本当の話はもっとややこしいのかもしれない。とにかくここには近づくな。どうやら連中、どういうわけだがお前のことを探しているみたいだ」

「僕を?」

 なぜ? と思ったが、思い当たることと言えば、

「ミーナのことかな」

「イルミナか、そうだな。それにお前の妹のことも嗅ぎまわってるようだぜ」

 バルナはハサンの言葉に、返す言葉を失う。

 妹。僕の妹。

 ミトラ。

 生き別れの妹。

「だいたい、イルミナが消えたあたりからいろんなことがおかしいと思っていたんだ。本社の連中もな、怪しいのは幹部というより社長だ。今回の騒動も、社長が軍に何か喧嘩でも売ったんじゃないかってもっぱらの噂だよ」

 事態は突然に、しかし実際はバルナの知らないところでずっと以前から大きく動いていたのではないか、とバルナは感じた。

「悪い、もう切るぞ。とにかくどこか身を隠せ……。そうだ。それにお前を探してるのは軍だけじゃない」

「え?」

「探偵を名乗る男が、軍がやってくるほんの少し前に来たんだ。お前のことを聞きにな。もちろんしらばっくれたよ。もちろん軍の連中にもさ。とにかくその自称探偵、ずいぶん怪しげなやつさ。今回の件とも大いにかかわってそうだ……。気を付けろ。本当にやばい。帝國の連中同士で内乱が勃発するかもしれん。ほかにも誰が関わっているかわからん。俺も自分の身を守るので精いっぱいだ。お前も帝國行きどころの話じゃなくなったな。じゃあな」

 ハサンはそれで通信を断った。

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