第一章 7
――Indian Sub-continent(インド亜大陸)
Lahore (ラーホール)
「本当に行ってしまわれるのですか? バルナ坊ちゃま」
玄関を潜り、表に出ようとした矢先、そう声をかけてきたのは家政婦のピタカだ。
「もちろん。何度聞かれたって決意は変わらないよ」
バルナは答える。体を向き直したりしない。すぐにでも駅に向かいたいことを態度で示す。
ピタカとはもう散々議論をしたのだった。
インディアの民にはいまだに帝國への不満の声が多く、わざわざ帝國に出稼ぎに行くなどと、それも帝國の悪名高い
しかしバルナは反論する。帝國の支配を良いとは思わない。支配の道具として
そして、現実として、
結局はインディアの民も、
ピタカに対してだけじゃない。
バルナは持ち前の好奇心と日々の努力によって、勤めていたM&I社のインディア
「しかし、イルミナ様が戻ってこられるまでは、ここを動かないほうがいいのでは……それに、私も一人ではどうしてよいか……」
「それも大丈夫だって言ってるじゃないか。M&Iはピタカの生活を保障してくれる。僕ももっと高い給料をもらって仕送りできるようになるし。ミーナは……ミーナのことだって、ここにいるよりも帝國にいるほうがいろいろと探しやすいはずだよ」
確信とまでは言えないが、ごまかしで言っている気はない。インディアも帝國の一部となり、
今や世界の中心と帝國自ら豪語するロンデニウムは、口だけでなく世界中のありとあらゆるものが集まる街になっていると聞く。そこならば、ミーナの消息の手がかりも掴めるかもしれない。なぜ世界最高峰の
なんにしても、自分で行動しないことには、何も得られないのだ。
「だから行くよ。大丈夫、もう子供じゃないんだ」
バルナは駆け出した。
インディア・パンジャーブ地方。
バルナは物心ついたころからこの地で暮らし、育った。
親は物心つく前に、大叛乱と呼ばれる紛争で命を落としており、孤児になったところを育ての親であるミーナ――イルミナに養子に迎え入れられて、それからずっとパンジャーブの都市、ラーホールで暮らしている。
もっとも、バルナは純血のインディアの民ではない。親の片方は
そうしたことが些細なことと感じられるくらいに
スペラとは言うなればこうなればいいのに、こんなことが起きたらいいのに、という願望を
スペラはなんでも叶えられる魔法の呪文なのかと言えば、そうとも言えなくもないが、決してたやすくはない。そこがまたスペラの面白いところだ。実のところ、スペラが実現できる働きの一つ一つは、とてもささやかで地味なことばかり。それが何の役に立つかもわかりにくい。しかし、それら一つ一つの働きを幾重にも組み合わせていくことで、少しずつ大きな働きを実現できるようにしていける。
実現したい働きが大きく、複雑であればあるほど、スペラも同じように巨大で複雑になっていく。物事がどのような仕組みになっているのか、原理の理解も欠かせない。ただ決められたとおりに唱えれば不可能が可能になるような、おとぎ話の魔法の呪文とは違うのだ。スペラ技術の習得と実践は簡単じゃない。だが、その分だけの楽しさがある。
ミーナから学んだのはその取り掛かりくらいで、具体的な技術はほぼ独学が、実践で学んできた。ミーナが教えてくれるのは、スペラとはそもそも何なのか、スペラが人間に何をもたらすのか、そんなことだった。それも教えるというよりは、もっと日常の雑談のような話として語ることがほとんどで、バルナはミーナにスペラを教え込まれたという感覚はまったくない。ミーナはバルナにとって育ての親、というより同じ趣味を持った姉、というくらいの間柄だったように思う。
バルナが憧れ、目標とするのは、むしろフロンテル・マグスのほうだ。
フロンテル・マグス。彼は、
ロンデニウムに行けば、彼に会うことはかなわなくても、その業績の一端には触れることができるかもしれない。それもまた、バルナが帝國行きを求める大きな理由だ。
旧市街の外れにある家を出て、
旧市街を出てラーホール駅の周辺になると雰囲気は一変する。
帝國風の建物が立ち並ぶ。舗装された路面を
バルナもここからは
車の小窓から流れる外の景色を見ていてふと、バルナは違和感を覚えた。これから帝國に行くという興奮のせいかとも思ったが、それだけじゃない。どうも街の雰囲気があわただしい。歩哨とは別に、軍人たちがせわしなく動いているような気配がある。
「何かあったの? 軍人さんがいつもより多いみたいだけど」
バルナは車の運転手に訊ねてみる。
「ああ、あれな。どうやら差し押さえらしいよ。それもM&Iの会社が丸ごとだとか」
「差し押さえって……M&Iが!? なんて突然」
あまりに突然の話にバルナは混乱する。
「噂じゃ軍の予告なしの抜き打ち捜査だって話だけど」
「捜査って……M&I社が何か犯罪をしたってこと……?」
「まあ、そういうことになるのかな。それとも証拠は出てなくても疑惑があるってことかもしれないね」
答える運転手の表情や口調はのんきなものだ。あくまで乗客との世間話な風である。バルナの混乱と焦りなど知る由もない。
「帝國陸軍にゃ警察よりか強い権限を持った情報局だか捜査局だかって組織もあるって話だぜ……見なよ、あの外套の連中さ、あれだよ、きっと間違いない」
ずいぶん詳しい素振りを見せる運転手だが、どこまで信じていいものかはわからない。しかし無視できる話じゃなかった。自分の顔から血の気が引くのがバルナにはわかった。
「お客さん、その感じだと他人事じゃないのかい」
ようやく察したのか、運転手が少しだけ首を後ろに向けてバルナの様子を覗う。
「M&Iが勤め先なんですよ。ただ、これからは帝國への出向が決まっていたんですけど……大丈夫なのかな」
「ああ、それで駅から列車で帝國まで、ってことですか。でもまあ、そりゃそのまま向かっていいのか心配ですなあ」
運転手の言う通りだ。状況は確認したい。しかしラーホール支店に直接顔を出すのは危険かもしれない。
それにバルナは軍人が嫌いだった。この点に関しては帝國もインディアもない。どの国だろうと、軍服に身を包み、武装した人間というものにバルナは嫌悪感を覚える。事実がどうあれ、軍人が集まっているかもしれない場所には近づきたくない。
「駅までそのまま行ってください」
「そうですか? ではそれで」
駅につき、先ほどまでのやりとりがなかったかのように淡々としたやりとりで料金の支払いを済ませる。
すぐに
先ほどの運転手の話しの通りだった。支社の建物の外にも中にも軍の人間が大勢いた。そしてその様子はM&Iを占拠しているとしか見えなかった。あのまま長く
ハサンの
「バルナ! 無事か?」
ハサンの緊張と安堵が混じった心象が、バルナの脳裏に伝わってくる。
「どうなってるの? 軍がどうして……」
「待った。……詳しい説明はできそうにない。端的に伝えるぞ。本社の幹部連中に軍への反逆の動きあり、というのが軍の言い分だ」
「反逆!? だって」
M&I社は
「本当なの? それに本当だとして、どうして今さら反逆なんて」
「わかるものか。本当の話はもっとややこしいのかもしれない。とにかくここには近づくな。どうやら連中、どういうわけだがお前のことを探しているみたいだ」
「僕を?」
なぜ? と思ったが、思い当たることと言えば、
「ミーナのことかな」
「イルミナか、そうだな。それにお前の妹のことも嗅ぎまわってるようだぜ」
バルナはハサンの言葉に、返す言葉を失う。
妹。僕の妹。
ミトラ。
生き別れの妹。
「だいたい、イルミナが消えたあたりからいろんなことがおかしいと思っていたんだ。本社の連中もな、怪しいのは幹部というより社長だ。今回の騒動も、社長が軍に何か喧嘩でも売ったんじゃないかってもっぱらの噂だよ」
事態は突然に、しかし実際はバルナの知らないところでずっと以前から大きく動いていたのではないか、とバルナは感じた。
「悪い、もう切るぞ。とにかくどこか身を隠せ……。そうだ。それにお前を探してるのは軍だけじゃない」
「え?」
「探偵を名乗る男が、軍がやってくるほんの少し前に来たんだ。お前のことを聞きにな。もちろんしらばっくれたよ。もちろん軍の連中にもさ。とにかくその自称探偵、ずいぶん怪しげなやつさ。今回の件とも大いにかかわってそうだ……。気を付けろ。本当にやばい。帝國の連中同士で内乱が勃発するかもしれん。ほかにも誰が関わっているかわからん。俺も自分の身を守るので精いっぱいだ。お前も帝國行きどころの話じゃなくなったな。じゃあな」
ハサンはそれで通信を断った。
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