第一章 6

 奇械MAGが浮き彫りにしたもう一つの現実がある。

 俺は外套をかぶるとポケットから紙巻煙草シガレットを取り出して咥え火をつける。一度大きく吸い込み、吐き出す。そして仕事机に広げておいたままの便箋をひっつかんで部屋を出る。外と違って明かり一つ天井からぶら下がっていない暗い廊下を歩く。狭い廊下の突当りの戸を開くと屋上への階段があり、そこを登っていく。事務所の窓からの景色以上に、屋上の見晴しのよさが、このアパートのお気に入りだ。

 テムズ河を吹き抜ける風が屋上にも舞い上がってくる。かつては大悪臭などと呼ばれる事件を起こすほどにテムズの水質は悪化していたが、今ではすっかり解消されて、グレート・テムズとしてロンデニウムを貫く大水源としての威厳を取り戻している。この点も、非現実主義者アンリアルである俺にも納得できる数少ない恩恵と言えるだろうか……。

 しかし、それでも俺には、奇械MAGの作用によって得た結果が、本当に現実かどうか、その確証はないのだ。現実を捻じ曲げたもの、あるいは現実をまやかしで包んで、変わったように見せているだけのものにすぎないとは、誰にも言えない。

 奇械MAGの仕組みの根底にある技術、スペラとは、そういうものだ。

 俺にとって奇械MAGはまやかしの道具にすぎない。が、そうして物事をまやかしで包むことで、逆説的に、それまでは現実の影に隠れていたものが浮き彫りになることもある。不思議なものだ。

 それは、ロンデニウムという都そのものの姿だ。

 今、俺の眼前に広がる都の全景。それがロンデニウムという街の、いや、英國が大英帝國ブリティシュ・エンパイアなどと名乗る前から培ってきた、この国のあり方をそのまま表している。

 ドックランドから先、多くの労働者や貧民を抱え込むイーストエンドから、都の中心部であるシティまで、街は幾重にもプレートの層を上下重ねて、徐々に高く、山のように形を盛り上げている。不可能を可能としてしまう奇械MAGに依存した建築の成果だ。奇械MAGなくして、このような街の作り方はありえない。

 プレートの下の階層ほど古く、出入りが容易で、それだけに貧しい労働者階級の吹き溜まりになり、階層を上に行けばいくほど物価は高く、相応の富や権利、知識や社会的な階級を求められるようになる。

 英國に長く深く根付いている複雑で多層化された階級制度。それが今、ロンデニウムの都では多層都市としてくっきりと形作られている。

 ここドックランドは最下層と言っていい。街の外郭に位置するために、まだプレートもここまで伸びてはいないが、やがてはここの空も層に覆われ、天板に塞がれる。中産階級の拡大がおびただしいからだ。一方でその中産階級を支える労働者階級もまた増える。そして我らが労働者の貧困はなくならない。上の連中はその事実に蓋をすることしかできない。俺のお気に入りの景色はそうして奪われる。

 テムズ河とそこを行く船の役割も、少しずつ失われ始めている。内陸の輸送は鉄道や車にとってかわられ、船は外洋を渡るための大型化したものが主流になりつつある。かつてテムズ川にあふれんばかりに浮かんでいた帆船が消え去ったように、奇械MAGの船さえも姿を消すだろう。この変化は、たとえ奇械MAGがあろうとなかろうと、時間の差はあれ、同じかもしれない。技術の進歩によって古いものは淘汰される。いつの時代も変わらない。

 プレートの層の山は、黄昏の日を背にして大きく、重い影となる。だが、その影のあちこちでちらちらと煌めくものが見える。かつて幻想と霧の街と言われていたロンデニウムから霧が払われ、変わりに今はその煌めきが、街を覆うようになった。

 エーテル塵と呼ばれる、奇械MAGの排出物だ。

 エーテルとは第五の元素と呼ばれる。あらゆる物質が元素を元に構成されていることは教育を多少なりとも受けている者にはよく知られていることだ。エーテルは天、宇宙やそこに浮かぶ星々を構成する元素であり、星々が放つエーテルが地表に降り注ぐことで、地上もエーテルに満たされる。奇械MAGを動作させているスペラは、動作にエーテルを必要とする。スペラによって消費されたエーテルは光を失い、エーテル塵となる。エーテルが光の性質を保てなくなるのだ。エーテル塵はエーテルを反発させ、エーテルを弾く。その動きが、目にはエーテル塵そのものがちらちらと輝いて見える。

 奇械MAGの塊であるロンデニウムは常にこのエーテル塵のちらつきを纏っているのだ。幻想の霧は取り払われたが、今度は幻想のエーテル塵というわけだ。その光景を現実リアルというなら、この街は非現実性こそが現実といて逆転している。そのことを、この光景は端的に示していると言えないだろうか。

 加えた紙巻煙草シガレットが短くなってきた。黄昏はプレート層の山の向こうに隠れようとしている。

 俺はおもむろに部屋から持ってきた便箋を開いた。昨夜の酒も、今こうして屋上で黄昏を目にしながら改めてこの街や帝國の姿に思いをはせたりしているのも、すべてはこの手紙が届いたからだ。

 何年ぶりかの、イルミナからの便りだ。

 筆跡は昔と変わらない。イルミナらしい、飾り気のない便箋に、筆致。あいつは出会ったころからずっとそうだ。およそ婦人らしいところがない。格式や風習というものにまったく頓着しない。

 周囲の偏見など知ったことかと跳ね除ける強さを持っていた。その強さのまま、あいつは俺の元を去って行った。

 しかし、見た目に変わらない便箋のその内容は、かつてのイルミナの面影とは幾分違っていた。

 依頼の手紙だった。探偵としての俺、それだけじゃない。非現実主義者アンリアルとしての俺を頼っての手紙だった。

 馬鹿な、と俺は思った。俺が非現実主義者アンリアルの道を選んだこと、それがイルミナと俺とのもっとも大きな溝であったはずだ。そのあいつが、手紙などよこして、文面にまで縋るような気持ちを表してよこすなんて。

 内容はこうだった。いちいち文面そのものを再現する気にはなれないので、要点だけ思い起こす。


 訳があってこれまで姿を隠してきたが、そろそろ限界を迎えている。

 自分は殺されるかもしれない。助けてほしい。

 そのために、まず、連れてきてほしい子がいる。

 インディアへ。ムガル帝国時代の旧都ラーホールへ。そこにその子はいる。


 インディア――イルミナが姿を消した頃、三年ほど前になるか、あいつがいたところだ。今では大英帝國女王陛下の治めるインディア帝國となった国。よく覚えている。事実上帝國の支配下にあったインディアだったが、現地兵力の大規模なクーデターが発生、その鎮圧とともに、帝國はインディアを正式に治めることになったのだった。そのころ少し前のことだった。俺がイルミナと別れ、軍も辞め、非現実主義者アンリアルの探偵として日々を送るようになったのは。

 イルミナはインディアにわたり、奇械MAGの研究を続けていた。そこで奇械MAGの普及を決定的にしたエーテルの備蓄燃料、イグナイトの開発に成功したのだった。

 イルミナがそこまでやれたのは、すべてルーファスの支援あってのことだ。ルーファスは帝國最大の奇械MAG製造会社、M&I社のオーナーの一人。そして、かつてはイルミナと俺の共通の友人だった。帝國の発展は、今の帝國の姿は、イルミナとルーファスの功績によるものと言っても言い過ぎてはいないだろう。

 帝國は変わった。奇械MAGの力が導くままに発展と拡大を繰り返し、今や世界の舵取りが帝國に課せられた天からの指名ヘブンズ・コマンドだなどと、議会と政府は女王陛下の口を借りてそう世界に宣言するなどということまでしてのけた。

 帝國が変わっていったのと同じように、俺とイルミナ、ルーファスとの関係も、大きく変わってしまった。

 だが、もう俺には関係のないことのはずだった。

 俺は最下層の非現実主義者アンリアル奇械MAGとともに天辺へと駆け上がっていくことを選んだ二人とは、違う――はずだった。

 俺はもう一度、便箋を見る。もう日はすっかり沈み、代わりにドックランドのあちこちやプレート層の向こうで灯された多くの明かりが、ロンデニウムの空から闇を追い出そうとばかりに照らし出す。星々から降るエーテルの輝きをかき消す勢いで。

 今、この手から便箋を放せば、風に乗ってどこかへ飛び去ってしまうはずだ。それでいいのではないか。今さら再会してどうしようというのか。

 それにこの依頼、危険な匂いしかしない。姿を消したままのイルミナ。そのイルミナが命の危険を感じ取っている。彼女は奇械MAG研究の第一人者と言っていい存在だ。その彼女が命を狙われているとあっては事は尋常ではない。まさかルーファスが痴情の果てにイルミナに殺意を抱き……だなとは考えられない。大衆紙ダブロイドでも書きはしないだろう。もっと巨大な何か、たとえば奇械MAGに関わる大きな利権、新たな特許、公表できない秘密……イルミナだけが掴んでいる何かだ。それが彼女の命を脅かしていると見ていい。

 乞われたからと、やすやすと首を突っ込むべきことではない。いや、もしかしたらこの手紙が俺の手に届いた時点で、事態に巻き込まれている可能性だってある、が……。

 この手にある数枚の便箋、これを手放してしまえば、すべてなかったことにできないか、昔の女の懇願も、昔の思い出も、なにもかも……そんなことを思った直後、柄にもなくひどい感傷に浸っている自分に気づいた俺は、苦笑して風にはだけたコートの襟を整えると、手にしていた便箋をくしゃりと丸めた。ロンデニウムの光に満ちた景色を背にして、屋上を立ち去る。このままここにいても、くだらなさに押しつぶされてしまいそうだった。

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