第一章 6
俺は外套をかぶるとポケットから
テムズ河を吹き抜ける風が屋上にも舞い上がってくる。かつては大悪臭などと呼ばれる事件を起こすほどにテムズの水質は悪化していたが、今ではすっかり解消されて、グレート・テムズとしてロンデニウムを貫く大水源としての威厳を取り戻している。この点も、
しかし、それでも俺には、
俺にとって
それは、ロンデニウムという都そのものの姿だ。
今、俺の眼前に広がる都の全景。それがロンデニウムという街の、いや、英國が
ドックランドから先、多くの労働者や貧民を抱え込むイーストエンドから、都の中心部であるシティまで、街は幾重にもプレートの層を上下重ねて、徐々に高く、山のように形を盛り上げている。不可能を可能としてしまう
プレートの下の階層ほど古く、出入りが容易で、それだけに貧しい労働者階級の吹き溜まりになり、階層を上に行けばいくほど物価は高く、相応の富や権利、知識や社会的な階級を求められるようになる。
英國に長く深く根付いている複雑で多層化された階級制度。それが今、ロンデニウムの都では多層都市としてくっきりと形作られている。
ここドックランドは最下層と言っていい。街の外郭に位置するために、まだプレートもここまで伸びてはいないが、やがてはここの空も層に覆われ、天板に塞がれる。中産階級の拡大がおびただしいからだ。一方でその中産階級を支える労働者階級もまた増える。そして我らが労働者の貧困はなくならない。上の連中はその事実に蓋をすることしかできない。俺のお気に入りの景色はそうして奪われる。
テムズ河とそこを行く船の役割も、少しずつ失われ始めている。内陸の輸送は鉄道や車にとってかわられ、船は外洋を渡るための大型化したものが主流になりつつある。かつてテムズ川にあふれんばかりに浮かんでいた帆船が消え去ったように、
プレートの層の山は、黄昏の日を背にして大きく、重い影となる。だが、その影のあちこちでちらちらと煌めくものが見える。かつて幻想と霧の街と言われていたロンデニウムから霧が払われ、変わりに今はその煌めきが、街を覆うようになった。
エーテル塵と呼ばれる、
エーテルとは第五の元素と呼ばれる。あらゆる物質が元素を元に構成されていることは教育を多少なりとも受けている者にはよく知られていることだ。エーテルは天、宇宙やそこに浮かぶ星々を構成する元素であり、星々が放つエーテルが地表に降り注ぐことで、地上もエーテルに満たされる。
加えた
俺はおもむろに部屋から持ってきた便箋を開いた。昨夜の酒も、今こうして屋上で黄昏を目にしながら改めてこの街や帝國の姿に思いをはせたりしているのも、すべてはこの手紙が届いたからだ。
何年ぶりかの、イルミナからの便りだ。
筆跡は昔と変わらない。イルミナらしい、飾り気のない便箋に、筆致。あいつは出会ったころからずっとそうだ。およそ婦人らしいところがない。格式や風習というものにまったく頓着しない。
周囲の偏見など知ったことかと跳ね除ける強さを持っていた。その強さのまま、あいつは俺の元を去って行った。
しかし、見た目に変わらない便箋のその内容は、かつてのイルミナの面影とは幾分違っていた。
依頼の手紙だった。探偵としての俺、それだけじゃない。
馬鹿な、と俺は思った。俺が
内容はこうだった。いちいち文面そのものを再現する気にはなれないので、要点だけ思い起こす。
訳があってこれまで姿を隠してきたが、そろそろ限界を迎えている。
自分は殺されるかもしれない。助けてほしい。
そのために、まず、連れてきてほしい子がいる。
インディアへ。ムガル帝国時代の旧都ラーホールへ。そこにその子はいる。
インディア――イルミナが姿を消した頃、三年ほど前になるか、あいつがいたところだ。今では大英帝國女王陛下の治めるインディア帝國となった国。よく覚えている。事実上帝國の支配下にあったインディアだったが、現地兵力の大規模なクーデターが発生、その鎮圧とともに、帝國はインディアを正式に治めることになったのだった。そのころ少し前のことだった。俺がイルミナと別れ、軍も辞め、
イルミナはインディアにわたり、
イルミナがそこまでやれたのは、すべてルーファスの支援あってのことだ。ルーファスは帝國最大の
帝國は変わった。
帝國が変わっていったのと同じように、俺とイルミナ、ルーファスとの関係も、大きく変わってしまった。
だが、もう俺には関係のないことのはずだった。
俺は最下層の
俺はもう一度、便箋を見る。もう日はすっかり沈み、代わりにドックランドのあちこちやプレート層の向こうで灯された多くの明かりが、ロンデニウムの空から闇を追い出そうとばかりに照らし出す。星々から降るエーテルの輝きをかき消す勢いで。
今、この手から便箋を放せば、風に乗ってどこかへ飛び去ってしまうはずだ。それでいいのではないか。今さら再会してどうしようというのか。
それにこの依頼、危険な匂いしかしない。姿を消したままのイルミナ。そのイルミナが命の危険を感じ取っている。彼女は
乞われたからと、やすやすと首を突っ込むべきことではない。いや、もしかしたらこの手紙が俺の手に届いた時点で、事態に巻き込まれている可能性だってある、が……。
この手にある数枚の便箋、これを手放してしまえば、すべてなかったことにできないか、昔の女の懇願も、昔の思い出も、なにもかも……そんなことを思った直後、柄にもなくひどい感傷に浸っている自分に気づいた俺は、苦笑して風にはだけたコートの襟を整えると、手にしていた便箋をくしゃりと丸めた。ロンデニウムの光に満ちた景色を背にして、屋上を立ち去る。このままここにいても、くだらなさに押しつぶされてしまいそうだった。
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