第一章 5

13 years later 1870(十三年後 一八七〇年)

"Imperial Century"(「帝國の時代」)


――British Empire(大英帝國)

  Londinium(ロンデニウム)

  Docklands(ドック地帯)



 世界を統べる大英帝國の古都、ロンデニウム。

 百年の昔、かのドクター・「文豪」・ジョンソン氏はこの街のことをこう言ったそうだ。

 ロンデニウムには人の生が与えうる全てがあると。ロンデニウムに飽きた者は人生に飽きた者だ、と。

 どうだろうか。

 俺は人生に飽きたなどということはないが、この街には少々飽き飽きしている。

 なぜなら俺にとってこの街から得られるものは、そう多くはない。

 失うこということもまた、得るべきものの一つというのなら、話は別だが。


 ここにはすべてがあるとジョンソン氏に言わしめるのは、まず何を置いてもこの街にあふれる奇械MAGだ。

 かつて、この国の産業を大きく変えた機械。奇械MAGはその機械の性能をさらに推し進めたものだ。正確には似て非なる物、むしろまるで別物と言える。機械はエネルギーによって運動し、人力には不可能な仕事を成し遂げる仕組みのものだ。その仕組みは科学的証明を得た法則に基づいており、確立された理論によって組み上げられた、人智の結晶と呼ぶべきもの、それが機械だと言っていいだろう。

 対して、奇械MAGというものは、端的に言って人智を超えている。

 奇跡のごとき技術の仕掛け、それが奇械MAGだ。

 奇械MAGによって実現できることはまさに奇跡、神の領域に踏み込んでいる。

 巨大な物体、重い物体を触れることなく動かす。

 ないものをあるように見せ、あるものを見えなくする。

 遠く離れた場所に光や音、匂いまでを伝える。ケーブルは不要だ。登場し始めたばかりの電信・電話の可能性を、奇械MAGはあっさりと超えていった。

 燃料なしに物を燃やし、どうしようもないほど汚れたテムズ河の水をろ過もせずに浄化する。

 あらゆる機械からエンジンをなくし、同時に騒音と排気という害もなくした。

 奇械MAGによって克服された病も多い。むしろ奇械MAGは人をより強い生物へと変貌させてもいる。奇械MAGの力で人が空を飛ぶのも時間の問題だろう。

 奇械MAGは多くの願望を叶えた。それを手にすることのできる人間の願望を。


 目が覚めたのはすでに夕刻を回ってのことだった。まだ体から酒が抜けきっていないのがわかる。昨夜はずいぶんと飲んだ。マットレスが潰れてもはやクッションの役目を果たしていないくたびれたベッドから体を起こす。ベッドがきしむ音を立てるのと同じに、俺の体もきしんだように固く鈍い。けだるい体をひきずって少しでも外の空気を感じ取ろうと窓に近づく。

 窓の向こうに夕焼けに煌めくテムズ河、そしてそこを埋め尽くす船が影となって見える。テムズ河を隔てた向こうには、高層建築の数々。ここは五階建てのアパートの一部屋。この場所を事務所として借りるようになってから三年が経つ。

 余談ではあるが、労働者に安部屋を提供するアパートだが、かつてはせいぜい三階建てだった。それがたやすく高層の建物がつくられるようになったのも、奇械MAGの力の成せる業だ。窓の数に応じて税金を課すというくだらない窓税も、いつごろだったか廃止された。おかげで気楽にこうして外の景色を眺めることができるわけだ。

 海軍を抜けてずいぶんになるが、今でも水や船が生活の側にあることを好んでいる。それに水辺というのは人の出入りが激しい。俺のような生業の人間には打ってつけでもある。

 俺はウィル。今は探偵をしている。

 同業の間では『鬼火ウィスプ』の通り名で通っている。一応説明しておくと、これはウィル・オ・ウィスプという一種のおとぎ話だか怪談だかに出てくる火の玉の化け物、そいつに由来するものだ。ただのシャレだし、皮肉でもある。何せ俺はおとぎ話や怪談のような作り話の世界とは縁のない人間だ。それに、そんなおとぎ話から出てきたような代物とも。

 つまり、奇械MAGとも無縁な非現実主義者アンリアル

 神の奇跡、おとぎ話のような非現実が実現する。それがロンデニウムの、大英帝國の、そして帝國が手中にしようとしている世界の現実だ。

 現実に起こりえないことが現実になる。それが現実。その現実を受け入れられないやつは非現実主義者アンリアルと呼ばれて冷やかした目を向けられる。

 そんな俺への最大級の皮肉が、『鬼火ウィスプ』には込められている。

 奇械MAGは誰もかもにその恩恵を与えたわけではない。世界に奇械MAGの奇跡がもたらされるより前、奇械MAG以前とでも呼ぼうか、世界には持つものと持たざるものがいたように、奇械MAG以後もその点は変わることはなかった。神の奇跡が昔からこの差を埋めた試しは、二千年の昔よりない。

 そして今の俺は持たざる側だ。この部屋には奇械MAGなど何一つない。仕事道具はペテンなしの機械に限る。タイプライターと電話で充分だ。あとはペンに手帳、それに酒。ジンはやらない。欠かせないのは紙巻煙草シガレット

 同じ持たざる側である非現実主義者アンリアルや、さまざまな事情を持った連中……一番多いのが貧困、次いで移民、犯罪者、それに奇械MAG漬けになっておかしくなっちまった奇械狂いDOPE……からの依頼や相談、トラブルの解決による報酬を生活の糧としている。

 今や世界で最も進歩と繁栄を極める都市・ロンデニウム。

 富と権利を独占する政治家や資本家、貴族たちに、奇械MAGの力でのし上がった多くの中産階級市民たちが夢の暮らしを享受する一方で、彼らを支える多くの労働者階級が、貧困にあえいでいる。

 それがこの街の現実だ。少なくとも俺は、奇械MAGが起こす奇跡を現実だと受け入れるよりも、そうした現実のほうがすんなりと受け入れられる。

 ここ、ドックランドはロンデニウムの玄関口の一つだ。その名の通り、いくつもの会社がここでドックを運営している。海からの訪問者たちの受け入れ口であり、逆にロンデニウムから海の向こうへ行く連中の出発地点でもある。

 船着き場に倉庫、造船所、市場、工場に、労働者や移民の住居。さまざまな施設・建物が密集しており、昼夜を問わず常に人や物資が動いている。ガス燈、電燈、奇械MAG燈、常に明かりが炊かれているここドックランドは眠りにつくことのない地帯だ。船も車も夜だろうがお構いなしに走り回っている。もっとも奇械MAG化が進んだ今では、騒音が近隣の迷惑となることだけは減ったのだが。その分、増加した交通はさまざまな問題を生んだ。交通に限った話じゃない。人であれ物であれ、何かが集まり、動けば、そこでは常に摩擦が起き、トラブルの種となる。機械にせよ奇械MAGにせよ、文明の進歩は社会の時計の針を急速に進めた。何もかもが早く進む。便利さ、豊かさを手に入れたはずの帝國だが、それと同じだけの不安定さも同時に抱え込むことになった。だからこそ、探偵などという仕事で飯が食えるというわけだが……。

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