第一章 3
その言葉が父の口をついて出るが、アナンは早口に「卑劣だと罵るのは不毛です。どちらが先か、という話にしかなりません」と返す。父の言葉にもアナンの言葉にも、異様な緊張感が走る。周囲からも叫喚の声が聞こえる。
「両手を頭上で組んで。膝立ちになって」
アナンの指示に、父は歯噛みしつつも従う。緊張の中に憐れむような目で父を見下ろすアナンを、父は見上げて固く重い目を向ける。視線が交錯するが、すぐに父は周囲に意識を向けなおして、事態を把握しようと努めた。
その父のもとに先ほどから船の奥にいる叛乱兵――指揮官だろうか――がやってくる。
「貴様ら帝國の人間がこの地に持ち込んだものすべてが、この地を狂わせたのだ」
やってきた男は、サーベルを腰に提げているが、柄に手をかける様子はない。銃も背負っていない。やはり兵士ではなく指揮官にあたる人物だろう、と父は見ていた。
「我はサーターラー藩王国、いや、マラーター王国最後の後継者、ナーナー・サーヒブ」
男は自らそう名乗った。それが父の推測の答えとなった。しかし、
「ナーナー・サーヒブ自らやってくるとは……馬鹿な」父の想像を超えた大物の登場に、父は思わず呟いていた。しかしナーナー・サーヒブは父のつぶやきを無視した。
「偉大なるガンジスを見よ」
ナーナーは船の舳先の向く先を指さして言う。
「深遠なるガンジスを見よ。ガンジスは太古より神の世と人の世をつなぎ、すべてを包容してきたのだ。しかし帝國はガンジスの、いや、インディアの大地そのものの寛容さにつけこみ、その御心を踏みにじった。貴様らは万色織り合わせたこの大地を、ただ一色、帝國の色のみに染め上げようとしている」
ナーナーが言っているのは大英帝國東インディア会社による植民地支配のことだ。
「いや、この地だけではないな。その傲慢さは、もはやすべての大地を飲み込もうとしていると聞く」
しかしナーナーの意識はインディアだけに留まらなかった。
「大英帝國は先進的な技術力と強大な軍事力を持って、このインディアの地だけでなく、世界中に植民地支配の手を伸ばしている。大英帝國による世界統一も、もはや地図の上だけのことではなくなりつつある。
何が貴様らを駆り立てるのか。それはいまさら問うまでもないことだな」
ナーナーは半ば自分の言葉に酔うようにして語っている。
「我々が乗るこの船。かつては帆を張り風を受けて走っていた。車はどうか。畜生が曳くものだった。風は吹くべくして吹き、火は燃えるべくして燃える。水も土も、地にあるがままにある……すべてが世の摂理のままにあった。それを貴様らは変えてしまった……なんのことかは、わかるな?」
ナーナーはそう言うと言葉を切り、自身を取り囲むようにして跪く
「
「どういうことだ……?」父がナーナーに問う。
その問いに応えてか否か、ナーナーは父のほうを向きながら、
「ウィーラー将軍をこちらへ」
そばに控える叛乱兵に指示をする。その間も父のほうを向いたまま。
連れてこられたのは帝國軍コーンポー駐屯地の最高司令官、ヒュー・ウィーラー将軍だった。ウィーラー将軍もまた、包囲中に受けた傷と疲労で憔悴しきり、叛乱兵に肩と腕をつかまれて引きずられるようにして歩いてきた。立っているのもやっと、という体である。
「信愛なるウィーラー。此度はこちらの提案に応じていただき、感謝している。あれ以上事態が膠着していたら、互いに無用な血を流すこととなったはずだ。
……それにしても、まさかここの駐屯地で行われていたとは、思いもよらなかった。貴様らをアラハバートに送る前にこのことを知ることができたのは僥倖、我らが神の思し召しにほかならぬ」
父にはその言葉だけで、すべてが理解できていた。いや、すでに、アナンの様子がおかしいあたりから、どこかでその可能性を考えてはいたのだ。そして、ナーナーの次の言葉で確信に変わった。
「プロメテウス計画……
父は勤めて平静を装ったが、にじみ出る焦りを隠しきることはできなかった。
それはそばにいた娘にも強く伝わったが、それ以上に、娘自身が、プロメテウス計画、という言葉に、なぜだか強く心を打たれていた。
ずっと感じていた、何かがおかしいという感覚。
アナンが突然父に発した、ミトラの――娘についての問い。
父の焦り。
すべてがプロメテウス計画、という言葉につながって、ストンと娘の頭に落ち着くのが、娘にはわかった。そうしている間にも、ナーナーの演説めいた話は続いている。
「帝國本土でさえ非難の声が上がって立ち消えたと聞いていた、そのはずの計画が、まさかこの地に隠されて続けられていたとは……なんという屈辱か。貴様らはそこまで我らが大地を穢そうというのか」
「どこで、その計画を……」
ウィーラー将軍の口からかすれた声が漏れる。
もはや将軍には計画の隠匿の意思すら失われている――父は失意を覚えずにはいられなかった。
「人の進歩、種として進化。貴様らはそうした題目を掲げて、自身を他のどの血よりも優れた種として思い上がり、世界の盟主たろうとしている」
「能書きはいい!」
それまで沈黙していた父が叫び、ナーナーの演説を止める。
「狙いがプロメテウス計画、その成果の奪取であることはよくわかった」
跪いていた父が、アナンの静止を無視して立ち上がる。アナンもまた「少佐!」と叫び、銃を父の胸元に向けなおすが、その銃口は震えて定まらない。
父は続ける。
「貴様がその力を欲して、やろうとしていることも察しがつく。だが、なぜ、このような手を使った。はじめから休戦の条件に計画の譲渡を求めればよかったはずだ」
父の問いにナーナーは鼻で笑った。
「正面から要求を立てて、貴様らがそれを飲んだか? 狡猾な貴様らは何としても計画の隠匿を図ったであろう。電撃的な奇襲作戦が必要だったのだ。貴様ら帝國がその計画でこの大地を汚染しきるその前に、我らがそれを止めねばならんのだ」
「何を言うか!」
父が再び叫んだ。勢いで足を一歩前に踏み出す。
「少佐ぁっ!」
アナンもまた呼応して叫ぶが、父の気迫に圧され、ひるんでいる。それでも銃は前に出し、父の頭蓋に突きつける。父は銃口が頭蓋に触れるのも構わずナーナーに向かって言葉を投げつける。
「何を言うか……そうして我々を蔑むようなことを言っておきながら、お前自身が、なによりお前の言う汚れた力を欲しているのだろうがっ! 我々を蔑みながら、自らも浅ましい行為に手を染めようというのかっ!」
「余を愚弄するか、下郎」
ナーナーは父の放つ気迫に動じることなく、冷たく言い放つ。
「ヴィバート少佐、だったか。貴様が計画の総指揮を勤めていたことも聞いているぞ」
そのとき、ナーナーの目が蔑みの笑みに歪むのを、父は確かに見た。
「軍役で我らが民の兵と親しい素振りをして懐柔し、果てには婚姻までして穢れた血を我らが民に混じらせ、しまいにはその子を
「……違う、違うのだ」
「違う? そうは言わせまいぞ。その子は貴様が自らの手で生み出した忌み子ではないか」
「生きられなかったのだ……そうしなければ……」
父は涙を流していた。しかし娘には、父の背しか見えず、その涙を見ることはできなかった。
ナーナーは父のそうした様など意に介さない。
「これ以上の侮辱、これ以上の蹂躙、これ以上の穢れがこの大地にあろうか。これ以上、我らは貴様ら帝國にさせるがままにはしない。これはその第一歩なのだ」
父は再び跪いた。
「貴様の娘はいただく。抵抗はするなよ。そうすれば、この場にいる者たちはアラハバートに送る」
ナーナーが片手を上げる。それを合図に叛乱兵たちは再度帝國の投降者たち……いや、もう今やただの人質となった者たちに、銃の構えを整えさせる。ヴィバートへの脅迫であることは明白だった。
「とりわけ……家の者の命は惜しかろう。妻など、特にな」
ナーナーは、母を、父の目の前に連れてくる。もちろん、部下に銃を向けさせたまま。
「お前にこそ、人としての誇りはないのか」
「今は帝國式の紳士だかを気取れる立場などないぞ、少佐。素直に、従順な犬であればよいのだ。そしてここでのことは口を紡ぎ続けるのだ。そうすれば、ここで去勢を張らずとも、貴様は帝國に戻って紳士の素振りを続けていられる。この地での邪悪な行いなどすべて水に流してな」
ナーナーは嗤った。
父は震えていた。はじめは恐れ、悲しみ、そうした思いに震わせていた体を、今は違うものが震わせている。
そのとき、沈黙していたウィーラー将軍が絞り出すようにして声を上げた。
「哀れなるナーナー・サーヒブよ」
ナーナーは嗤いを止める。怪訝そうに将軍のほうを見やる。
「何をしようがお主が亡くした國の主権と過去の栄華を取り戻すことはかなわんよ……そもそもそのような器ではないさ、お主は」
「何を言っている」
「少佐……従ってはならん……。この者こそ、過ぎた力を制御できず、周囲を巻き込んでその身を滅ぼすだけだ。渡してはならん……」
「懸命な言動とは言えないな、将軍。この場にいる帝國の人間、残らず命を落とすことにもなりかねぬぞ?」
ナーナーは戯れのようにそう言った。
「果たしてそうなるかな?」
一方、ウィーラー将軍からは見かけの精気のなさからは想像もつかないほどの威を籠めた言葉が返される。
「どこを見ればそのような言葉が出るのだ、将軍? 極限が来て判断が狂っているな!」
ナーナーはあくまで余裕を崩さない。
だが、そのときナーナーの傍らにいた叛乱兵が、ナーナーに近寄り、口添えをした。
「
「なんだ、ターンティア。連中の苦し紛れな去勢に飲まれたのか?」
「手負いの犬は何をしでかすかわからんのです、
ターンティアと呼ばれた叛乱兵……いや、ナーナーの側近であろうその男は、ナーナーの過剰な挑発を止めるが、ときすでに遅しと言えた。
父はすでにその怒りをいつ爆発させようかとばかりに身を構え、ウィーラー将軍はナーナーの言葉など聞こえないように言葉を続けている。
「どちらに正義があるかなど、この際問わぬさ、サーヒブ。お主の言う通り、大英帝國の大義など今や忘れられ、帝國は自らの体を肥えさせることばかりに執心しておる。我らみな、どうせとうの昔にこの手は血に染まり、神からは遠い。だがな、これはそんな大きな物の見方をした話じゃないんだよ。お主も私もな、ちっぽけな人間ひとりにすぎん。これは、単なる一人の人間の誇りの問題だ。この叛乱の意義の問題じゃあない。そんなものは後世の歴史家にでも任せるさ。ただ今は、お主の成すがままにさせておけん、それだけさ」
やつれきったその身からは想像もつかない覇気を将軍はみなぎらせている。
一方でナーナーは側近ターンティアがたしなめるのもむなしく、自分が侮辱されていると感じての怒りに顔を紅潮させている。
なにもかもがおかしい。
娘は、この場の違和感が、いま絶頂を迎えようとしていることを感じていた。
ナーナーやウィーラー、それに父だけでない。この場に立ち会っているすべてのものが、気の高ぶりに我を失いはじめているようであった。
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