第1章 2


      * * *



 やめて。

 やめて。

 どうしてこんなことになっているの。

 少女は自分が自分でなくなっていること、いや、自分の中にもう一人、別のだれかがいることを自覚し、恐怖していた。

 もう一人のだれかは、青ざめて冷え切った気持ちの自分とは裏腹に、怒りに震え、かつ、怒りを発することに喜びを感じてもいた。怒りと喜びにそのだれかは昂ぶっていた。

 最初の怒りは、確かに自分が発したものだった。

 見てはいけない光景。見たくない光景。それを目にした少女が自ら発した感情に違いなかった。しかし、その感情を、次の瞬間、突然少女の中に入り込んできた別のだれかにすりとられた。

 このだれかは、わたしの気持ちをすりとって、食べて、自分でふくらませている。少女はそんなふうに感じた。

 わからない。この子はだれ? あなたはだれ?

 そのだれかは、問いかけに応えない。

 ただただ怒りを声にならない声に転換し、耳ではなく心に直接響く叫びにして、自分だけでなく回りにいる大勢の人にぶつけているばかりだ。

 どうして、こんなことに。

 なにが、なにがあってこんなことに。

 少女はおのずと、反芻していた。



      * * *



 ……朝の陽光を背にした寺院の影が、その一家を含めた行列に落ちている。

 誰もが言葉なくうつむき、身なりは汚れて悪臭を放っている。


 叛乱軍によって十八日間包囲されたコーンポーの防衛陣地より、休戦の決定によって撤退してきた帝國人メトロポリタンたちの行列であり、その中に、その帝國移住者アングロ・インディアンの一家も加わっていた。

 休戦は、叛乱軍側から持ち掛けられたものであった。

 コーンポーと同じく大幹線道路グランド・トランクロード上に位置するメラートでの現地雇用兵スィパーヒーの蜂起、続く首都デリーの占拠。その叛乱の始まりとなる出来事より、一か月以上になる。各地の大英帝國駐屯地でスィパーヒーたちが呼応して帝國人メトロポリタンの指揮下から離脱して反旗を翻し、さらには兵士のみならず都市の市民や地方の農村でも民衆が叛乱の動きがあって、叛乱は各地に広がっていったが、叛乱軍は総体として秩序に欠け、統率は取れていなかった。

 コーンポーの叛乱軍は帝國軍の防衛陣地を包囲はしたものの陥落には至らず、膠着状態が続いた。その間に東のアラハバートで帝國の救援部隊が集結しつつあり、狩る側と狩られる側が逆転するのも時間の問題、という事態に陥った叛乱軍側は焦りをつのらせた。その結果の、叛乱軍からの休戦調停である。

 行列をつくっているのは、駐屯地に詰めていた帝國軍人と、周辺の帝國人メトロポリタン居住区に住んでいた帝國の非軍人。純粋な帝國人メトロポリタンも入れば、帝國とインディアの混血のユーラシアンもいた。軍人の多くは負傷し、病人も多くいた。その一家は父が帝國軍士官、母がインディアの一地方であるアワド人、一人娘は当然、両者の血が混じっていた。まだ幼い娘だが、両親をはじめ、周囲の大人からは聡明な子を言われていた。三歳とは思えぬほどに流暢な英語を話し、かつ、母から教わった現地語ヴァナキュラーを、ときには父よりも理解していた。帝國移住者アングロ・インディアンとしては珍しい、現地の民とも馴染みを持っていた一家だった。

 娘は牛車の荷台に荷物とともに載って、徒歩でその前を行く両親の姿を黙って見ていた。

 飢えと疲れでぼんやりとしてはいたが、本来は病人が入る建物の部屋にぎゅうぎゅう詰めに押し込められ、朝も夜もなく銃や大砲の音が鳴り響き、誰かの悲鳴がたびたび聞こえてくるような息も詰まる日が続いていたこれまでのことを思えば、多少は気持ちが安らぐのを感じられた。

 砂埃の舞う平野を、精気をなくした死者のごとき行列の行進は続いたが、しばらくするとそれは止まった。娘は荷台の縁に手をかけ、重い体を支えて背を伸ばし、行列の先の景色を確認する。行列の先にあるのは崖だった。粛々と歩いていた人々が、少しずつ行列のかたちを解いて崖のほうへ歩いていく。行列を見張っていた叛乱兵たちは少し警戒して、空に向けていたマスケットの銃口を下ろしかけるが、行列の人々が崖下にあるものを確認するのに心奪われているだけなのを見て、すぐに構えを戻した。行列の中には帝國兵もいるのだが、極限まで疲弊し、武装を没収されている彼らに、もはや抵抗の意思は見られなかった。

 娘は父に言って牛車を崖近くに進めてもらった。父は従者を数人持っており、従者たちは父に言われるままに牛車を移動させた。従者たちの顔ぶれもまた、帝國人メトロポリタンと現地人が入り混じった、帝國移住者アングロ・インディアンの家としては非常に珍しい構成をしている。

 崖下にはガンジス川が平野に長い線を引いていた。

 娘は浅黒い肌をした現地人のような風貌を母から受け継いでいるが、思想や信仰という面ではヒンドゥーやムスリムのような特定の意識をもった生活をしていない。父は父で、母と娘に聖書を押し付けることはしないできた。

 それでも娘は、崖下に伸びるガンジスの姿に、神――海の向こうの唯一神か、この大地におわす神々かはさておき――の威容のようなものを、理屈ではなく感じていた。

 行列が歩みを止めた真下には、川幅が狭くなって小川になっているところに木の橋が架けられ、周囲には草ぶき屋根の小屋が並んでいる。川の向こうは街になっていて、橋や小屋のあたりには、その街の住人らしき野次馬が大勢いた。小屋のあたりでは犬や鵞鳥が歩き回り、猿は跳ねて、野次馬たちに興奮している。川岸には階段ガートがあり、野次馬とは別に大勢の人が沐浴に来ている。

 崖の上で軍服に身を包み、銃を手にした叛乱兵たちに囲まれる行列を見下ろすように、寺院が側にそびえている。寺院の尖塔の先は登りかけている朝日に照らされて輝き、その影が行列に落ちる。

 階段ガートより少し向こうの川幅の広くなったあたりには、数十隻もの川船が待機していた。その船にも、銃を手にしたスィパーヒーたちが控えているのが崖の上からでも見ることができた。叛乱軍はその船で、彼らをアラハバートに送り届けることになっていた。

 崖を降りられる緩やかな傾斜の道があり、道の脇にはまばらに細い木々が根を伸ばして崩れ落ちそうな道の土砂や石を支えているように見える。叛乱兵たちは引き留めていた行列の一同を一度に移動させず、数人ずつを兵士一人が監視するかたちで崖下の川岸へと移動させ、乗船させていった。

 やがてその一家の順番がやってきた。牛車はかろうじて崖の坂道を降りることができたが、船には乗り込むことはできない。それどころか川には桟橋もないため、一同は階段ガートから泳いで船に渡り、乗り込むことになった。娘は父の背に捕まって、まだ夜明けが始まったばかりの、暗く冷たい川の流水に震えながら、それでも父の背中を手放さないようにと、ぎゅっと力を籠めていた。父のそばを母が泳ぎ、娘を見守る。その周りを従者たちが囲んでいた。

 日中の、とりわけ包囲のさなかにあった日々の、昼間が灼熱の地獄であったのが嘘のように、深夜のうちに空気も水も砂も冷え切り、ガンジスの水は身を切るほどに娘の体温を奪っていくように感じられた。

 ……夜明けだからって、こんなにも水が冷たいものだったっけ。

 娘は異常を感じ、水から感じる冷たさとは別の予感のようなものに、心が冷えていくのを感じ取っていた。しかし、今は流れる水にその身をさらされて、父の背を掴んでいなければいけない状況を耐えしのぐので精いっぱいで、湧き上がる疑問を突き詰める余裕などなかった。

「ヴィバート少佐!」

 指示された船に一同が近づくと、船の上から一人の叛乱兵が、父の名を呼んだ。

「アナン! アナンか!」

 父がその叛乱兵に呼び返すと、アナンと呼ばれた兵は手に提げていた銃をベルトで肩にかけると、空いた手を船上から川の水中でもがいている父に向けて伸ばした。父は躊躇なくその手を取る。アナンが両手で父の手をつかみ直し、渾身の力で父を船上へと引き上げる。娘もまた、父の体がぐんと浮き上り、自分の体が水流から解放されるのを感じつつ、その勢いに振り落とされないようにしていた。

 アナンが手を引く力に、父はもう片方の手を船の縁にかけて力を載せ、自分の体を押し上げる。火事場の底力というべきものが発揮されて、アナンは勢いあまって転倒し、父とその背にいた娘は転がるようにして船の甲板に上がる。娘はそこで握力の限界に至って、父の背から離れて甲板に転げ落ちる。

「少佐、ご無事で!」

 息も絶え絶えに、冷え切った体を震わせる父に、アナンは着ていた灰色の野戦服を脱いで被せつつ、親しみと安堵を露わにしつつ声をかける。

 アナンは叛乱以前に父が隊長を勤めていた連隊に所属するスィパーヒーだ。現地民との交流が深かった父だが、その中でも親しくしていたのがアナンであった。上官と部下という関係を超えた情が、アナンに対しては存在していた。

 父は自分の呼吸を整える時間も惜しいとばかりに「私はいい……娘を……ミトラが凍えている……」とつぶやいた。娘は今も仰向けになって放置されたままだ。

「妻が……従者たちも……」とアナンに告げる。

 だがそれにアナンは応えず、ただ沈黙を返した。眉間に皺をよせ、直前の安堵とは裏腹の苦悩をにじませて。

「アナン……?」

 父はすでに何かを悟ったように、そしてそれゆえの絶望が乗ったうめき声で、彼の名を呼ぶ。アナンは父の絶望を受け止めきれず、父の視線から逃れるように、周囲に立つ別の叛乱兵を見つめる。船の奥に立っている叛乱兵が、アナンを見返し、うなずいたように見えた。

 娘は、その光景をすべて目にしていたわけではない。なのに、それがあたかも自分で目にした光景と感じている。おかしい。なにかがおかしい。

 周囲の野戦服の面々が、ゆらりと動いて、さきほどアナンが父にそうしたように、船の縁から下の水面に向かって手を伸ばす。彼らのその手がむしろ、娘には彼岸からの誘いの手、引かれてはいけない水の向こうからの誘いの手に見える。

 まだ水上に残されていた母と従者たちはもちろんその手につかまる。また一人、また一人と船の上に引き上げられ、誰もがこれで助かったと胸をなでおろす。そう、あとはこの船がアラハバートの救援部隊の元へと、自分たちを送り届けてくれるのだ。駐屯地での過酷な包囲の十八日間は、これで本当に終わったのだ、と。

 娘は冷え切った体をどうにか起こす。寒い。寒い。父を、母を、従者たちを見る。誰もが水を染み込ませて重く張り付いた帝國式のスーツやドレスに身をまとっている。歩くたびに靴がべしゃりと音を立てる。それでも、誰も寒そうにはしていない。当然だ。コーンポーの6月は昼も夜も熱気の中にあるのだから。娘は自分だけが周囲から取り残されている気がして、父の足にしがみつく。

「ミトラ……」

 父は茫然とした様子で娘を見下ろす。父もまた、娘とは別の意味でこの状況の不自然さを感じ取っているようだった。その根拠はもっぱらアナンの態度にあった。

「ミトラ……名付け親は、奥様でしたね」アナンはなぜかそんなことを父に問う。

「あ、ああ。この地……インディアを起源として我々帝國人メトロポリタンにもローマの時代にミトラスとして名を残す旧い神の名だ。神々の名を子につけるのは、インディアではよくあることのようだが」父はアナンの突然お問いを訝しく思いながらもそう答える。

「そう、インディアではよくあること……。ヴィバート少佐。この子はインディアの子ですか? それとも帝國の子でしょうか?」

「アナン、何を言っている……」

「大事なことなのです。まだおわかりになりませんか。あなたたち帝國の人間はどれほどこの地を滅茶苦茶にしてしまったのかを。ミトラをごらんなさい。インディアの名を持ち、インディアの肌を持ったその子を」

 アナンが自分のことを話しているのだとわかり、娘は身を固くする。そのさなか、周囲に浮かぶ別の船でも、自分たちと同じように、避難民たちが船に上げられている。多くの避難民が、すでに船上にいるようだった。

「その子は何語を話すのですか? 日常的には英語をお使いで? ヒンドゥスターニ語はどれほど? 彼女はどこの学校に入れて、どのような教育を施すのですか?」

「待て、待て、落ち着け。今はそんなことを話せる気分じゃないんだ」

「今日までの過酷な戦闘と包囲の日々をもってしても、我々の怒りを理解できないと?」

「違う、違う、そうじゃない。……疲れているんだ。混乱もしている。ただ……」

「ただ?」

「アナン、君とは、いや、君だけじゃない。少なくとも私は君たち現地の人間ともうまくやっていけていたつもりだった。それは間違いだったのか」

「いえ、そんなことはありません」

 そういうアナンは両の拳を握りしめ、全身を震わせて身を固めている。

「私は、あなたの元で仕事をさせていただけたことに感謝しています。しかし、恩義だけでは解消されないほどのことをあなたたちはし続けてきた。自覚的にも、無自覚的にも。少佐、あなたがしでかした無自覚なこと、その結果がミトラなのだと、そう言いたかったのです」

 アナンのあまりに固い口調に父もまた口を閉ざすしかない。

「ただもう、今となってはすべて手遅れですが……」

 アナンは歯噛みして呻くようにつぶやく。そのつぶやきをかき消すように「無駄口は終わりだ!」と船の奥に控えた叛乱兵が叫んで何かの身振りを示した。と同時に、身を固めていたはずのアナンが瞬発的にその緊張を解き、肩掛けのマスケット銃を振りほどくようにして構える。左手は銃身バレル、右手は引鉄トリガ。銃口は父に向いている。

 周囲の叛乱兵たちも次々に同じように動作し、船上、船外問わず、帝國側の人間が総じて銃の射線に晒された形になる。

「これは……」

 父は瞬間、驚きの表情を浮かべたが、すぐにそれは確信の苦悩につながった。

「罠か」

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