23 なにゆえ、語られないか

 語られない物語。

 語られる時、清らかなる魂は。

 永久より帰還する。


 そのフレーズが流れた先に、気持ちが悪くなるほど世界は回転する。

 世界が別のものへと変貌していく。

 それは、僕のものじゃない、男のものでもない。

 神様の、清らかなるアンゴラ猫の、……〝物語〟。


 その真っ白なアンゴラ猫、汚れなき白はかつて。

 日本のとある作家の所で普通に暮らしていた。その作家は、売れっ子ではない。

 どころか、作品を持ってきても突き返される、悲しき運命にあった。

 運命は残酷だ。病か呪いか、作家を蝕んでいた。

 アンゴラ猫は知らない、その作家がどのような苦悩にあるか。

 けれどアンゴラ猫は知っている、その作家が倒れそうなことを。

 けれどアンゴラ猫は何もできない。所詮猫でしかない。

 ただ、そこにいて、主と共に幸せに暮らせることができればいいと思っていた。

 病魔か呪いが主を蝕み、倒れた時、自らの無力を呪う。

 主は笑う、お前さえ大丈夫ならそれでいい。

 お前は立派な四肢がある。

 お前は速く動ける力がある。

 お前は狩をして、子供を作って生きていける。だから、行きなさいと。


 アンゴラ猫は離れない。離れれば主は孤独、やがて死ぬ。

 誰にも看取られることもなく。離れることは、恩返しできないことに等しく。

 猫は嫌だった。猫ならば、弱る誰かを見捨てても、生きることができるだろう。

 けれどアンゴラ猫はそれを選択しない。

 ただ、じっと側にいる。

 自らを呪いながら。


 どうか、神様がいるのなら、ご主人様を助けてください。


 呪う先に、いつしか願うようになる。どこかにいる神様に。願いは叶うと信じて。

 しかし叶うことはない。待っていても、〝奇跡〟は起こらない。

 代わりに、主は犯され、もう自分の名前を呼ぶことさえしなくなっていった。

 異変を察知できないほど、アンゴラ猫は鈍くはない。

 助けなければ、もう持たないだろう。


 どうか、助ける力を。


 助かることへの望みから、助ける力へと望みが変わる。

 光が溢れ、アンゴラ猫を包み始めた。

 その時猫は、……人に近い姿に変貌する。

 銀色の髪に、琥珀色の瞳、巫女装束に、きれいな猫の耳と尻尾。

 僕がよく知る、あの神様の姿に近いものになった。

 違いは、あの神様と比べると、かなり幼い。

 自分自身の体つきが変わり、人と同じ姿になったと感じたなら。

 幼い神様はひたすらに助けを求めて邁進した。


 その姿で外を歩くことは、不慣れのために転び、怪我を多発する。

 元より、外の世界は瓦解しており、『ワールドエンド』の後のようで。

 瓦礫が多く、普通の人でも歩くのが難しい状態である。

 まして不慣れな人の姿であれば、なおのことだ。

 震えながらも立つ幼子。ただ、救いを求めて。

 病院を見つけて駆け込むも、誰も相手にしない。

 なぜなら全員、沢山の患者を相手にせねばならず、子供に構う暇はない。

 何より、そのふざけたとも取れる様相が、幼子の救いの声を遠ざける。

 猫耳姿、コスプレのようで、この場に来るとはふざけているのかと。

 それでも幼子は叫ぶ。

 「助けてください!!お願いです!!!ご主人様が……!!!げほっげほっ!」

 腹から力いっぱい叫んだために、最後むせてしまう。

 この口調と様子なら、必死さ故に誰か耳を傾けてもくれるだろうに。

 けれど誰も耳を傾けない。

 ふざけた子供の話など聞かない。

 こっちはこっちで死にそうな患者を相手にせねばならない。

 溢れる患者は、何の病か。

 何の災厄か。

 とにかく彼らを助けなければならないと。

 互いの使命の平行。交わらないがための、不幸。

 ……そのやり取りは、どこへ行っても同じであった。

 

 日は暮れ、黄昏の、琥珀色に染まる時に。

 泣き腫らした瞳を擦りながら帰路につく。

 古びた一軒家、玄関をくぐったなら。

 どっと疲れが溢れ、その足取りが鈍くなる。 

 倒れこまないように、壁に手を付きながら、病床の主の下へと。

 気配を察知していたか、主はそっと、入ってくる幼子へ笑顔を向けていた。

 全快した?いいや。

 全快なんて、していない。

 それは、……末期、今わの際に。

 苦痛を感じさせまいと脳髄が和らげた、最後の幻覚、あるいは、最後の麻痺か。

 もう、苦痛を感じてはいない。

 その状態にあることを、幼子は知らない。

 奇跡は起きたのだと、信じてやまない。


 「姿をよく見せておくれ、私の可愛い〝女神〟さん。」

 病を感じさせないその柔らかい一言に。 

 幼子は顔を明るくし、抱きつくように主へ向かった。

 ゴロゴロと喉を鳴らし、頬擦りする。

 「……驚いたな。本当にお前かい?あの、アンゴラ猫かい?だとしたら、私は幸せ者だ。こんな素晴しい猫に出会えたのだから。……今まで生きてきた中で、最高に幸せだよ。今まで、幸せなことは何もなかったけれども、今、この最後に〝奇跡〟を見られたことを、少しばかり神様に感謝するよ。」

 「?」

 主が何を言っているのか分からない。そんな感じで首を傾げる。


 「だから、行きなさい。」

 「!!」

 その幸せな様子からは、想像付かない一言。

 最後に満足した主は、突き放す一言を。

 幼子は目を白黒させる。

 「お前には私と違って元気に動ける体がある。だからお行き。私はもう、死ぬ。行くのだ、私のような病床の者は放って。幸せになりなさい。行って、幸せになりなさい。私よりも素晴しい主に仕え、誰よりも幸せになりなさい。私といれば、呪いのように不幸になる。私という存在に、縛られてはいけない。私を放って、さあ……。」

 「!!」

 上手く言えない。片言でしか、話せない。言葉がまだよく分からない。紡げない。

 驚いたまま、何も口を動かせず。けれども……。

 「いやぁ……!」

 涙ぐみながら、そう言った。

 離れたくはない。さっきもそうだったように。

 「行きなさい。私は死ぬ。死してお前が私に縛られるなら、それこそ不幸だ。お前は私から離れ、幸せになるのだ。……私は消える。けれども、お前の中で生き続けよう。思い出という名の、形で。それでも悲しいなら、これを握って私を思い出しなさい。私の記憶、目標、意思そのものだ。」

 離れない幼子に、繰り返し言って主が胸元より取り出した物は。

 古ぼけた懐中時計。

 蓋は傷だらけ。お守りのように常に身に着けていたのか。

 人の想いを表すような温もりさえ感じられる。

 時計が針を刻む音はしない、鼓動を失った時計。

 ……どこか見覚えのある、懐中時計。

 「……私の曽祖父か、あるいは遠い誰かが、くれたものだよ。随分と年季が入っているだろう?それだけ長い時間を過ごしたのさ。戦火の中でさえ、正確に時を刻み、ひたすらに私たちを守り続けたもの。けれどもう私にはいらない、もう持ち続けることもできない。許されない、もう私は、人の、呪いとも言える〝闇〟に捕らわれ、神聖に至ることもできないのだから。もう、私の大切な人たち、私に連なる人々の元に逝く事は叶わないのだから。」 

  言ってそれを手に握らせ、……微笑んだ。

 その微笑が、最後を迎える微笑であると悟った幼子は、涙を一筋流す。

 全快なんて、していなかった。あのそっといるだけで幸せだった時に。

 戻れるわけじゃなかった。結局、死ぬしかなかったのだ。

 「……いやぁ!」

 「行きなさい……生きなさい。私の可愛い子猫。私の可愛い〝女神〟。いかなる存在、事象を呪わず、ただ神聖のままにあり続けなさい。」

そっと、静かに言って、主は瞳を閉じた。

 ……鼓動が、消えた。

 「!!!いやぁぁああ!ご主人様!!!」

 代わりに聞こえたのは、アンゴラ猫の嘆きの声。

 人一人いない家に、嫌に木霊した。


 独りぼっちになった幼子、悲しみを抱いて生きる。

 主の骸は、沢山の人たちに抱かれ、厳粛に葬られ。

 幼子にその沢山の人々は奇怪に映り、会話さえなく。

 逆に相手もまた、奇怪な少女を警戒し、交わすことはなかった。

 

 故に孤独だった。


 せめて、時を戻せたなら。


 科学技術が発達したこの世の中において、その願いを叶える術はない。

 神様のみがもたらす、〝奇跡〟とやらがあるならば、あるいはと。

 その思いを抱いて、縋るように、小さな町の小さな社へ赴くのだ。

 幼い足は汚れており、誰にも愛されなかった孤独を謳う。

 故に幼子が縋るのは、いずこにいる神様。

 幼子は人の作り上げた神社のルールを知らない。

 鳥居をくぐって、両の手を清めることはなく。 

 また、ボロボロの巫女装束のまま、祈りへ向かう。

 拍手のやり方を知らない。祈りの仕方を知らない。

 ただ、縋りつくように這い蹲りながら、社の階段を上る。

 縋るように手をかざしては、神様に救いを求めるように。

 しかれどもその無垢な幼子の願いに社は応えることはない。

 あるいは、……神様なんて存在は、いないのかもしれない、故に応えない。

 「どうして……?」

 願いは聞き届けられなかったと、嘆きを押し殺した声で。

 涙を溢れさせながらも、呟いた。

 「どうして、叶えてくれないの?!どうして、助けてくれないの!!神様、助けてよ!あたしを、ご主人様を!!」

 思いは口から溢れ、激しく言葉を紡がす。

 亡き主への救いを。自分自身の心への救済を。

 「助けてよぉおおおおおおおおおお!!!」

 それらを交えた咆哮にも似た叫びは、寂れた小さな社に大きく響き渡った。

 にも関わらず、社の神は応えない。無垢なる幼子の言葉に、応えない。

 応えられない。

 「うぅ……!ひっぐ!うぅううううう!!」

 ひたすらに、涙を溢れさせ、泣きじゃくるのみに。

 顔を社の階段に押し当てては、その泣き顔を見せないように泣きじゃくる。

 ふと、こぼれた一滴の涙が、形見の懐中時計に触れた。


 時計がその時、鼓動を取り戻したかのように秒針を打つ。

 「?!」

 驚いて目を見開いた幼子は、懐中時計を見た。

 蓋を開けたその時、世界は染まる。

 琥珀の色に、染まる。

 染まった世界は、琥珀の美しい色。夕凪のただ一瞬に見る、美しい情景。

 その世界において、あらゆる物は、写真に撮られたように静止していた。

 風の流れも、小鳥の舞いも。木々の揺らめきも。

 それら全て、停止した。幼子と、懐中時計を除いて。

 「うにゃ?!」

 けれどもその懐中時計は、普通の時計とは逆の方向に動く。

 その速度は、秒針が打たれるごとに速くなっていった。

 世界は動く、その秒針の動きに合わせて。

 目まぐるしく変わる世界、つまりは過去への逆行。

 そう、この幼子はこの時初めて、時を遡ったのだ。

 世界は戻る、……その幼子が望む〝時〟へと。

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