第25話 竜殺し

 風の国の最大の亜神は、竜の姿を象っていた。騎竜の数倍の体長、体積で言えば十倍以上の巨竜。それが物理に反する軌道で空を飛び、その質量でもって建造物を薙ぎ払う。その鱗は弓矢も銃も火も酸も弾き、破魔の祝福を持った武器さえも硬さによって通さない。配下のしもべたちは中型の竜で、その一匹でさえ騎士団総がかりで追い払うのがやっとであった。

 風の国の広大な国土、中央から西は、この邪竜によって壊滅した。東にある王都は、生き残った風の民により再建されたものである。かつて竜による交易で栄えていたが、その縄張りを避けるため今でも移動は制限されている。

 深夜に長い眠りから起き出したシェルウに、見張り当番のイオが尋ねた。この邪竜をどうするのか。

「そうだね…問題は移動と…あとは解体と骸の運搬だ。とても我々だけで手に負える規模ではない。風の国の騎士団に出向いてもらおうか」

「ちょっと待ってくれ。もう勝った後の話をしてるけど、そんな化け物どうやって戦うんだい」

「膂力が強いだけの亜神であれば、特に問題はないよ。いつも通りやるだけだ…」シェルウは虚ろな顔で言った。

 かつてシェルウが洪水を鎮めたことは知っているが、イオには目の前の寝ぼけた青年が竜殺しを成す英雄にはとても見えなかった。

「そうかい…まあ、もちろん解体とかなら手伝うけど、他にも手が要るなら言ってくれよ」

「うん。ありがとう、イオ。もうちょっと寝てくるよ…」

 今にも消え入りそうなこの青年が、冥神の使命を背負って亜神を討つ。まるで雨漏りの修繕でもするかように、日常の仕事として、今までもこれからも、たった一人でそれを続けるのだ。イオはキリのこころの内を思い、哀れんだ。


 竜は知能が高い。彼らは独自の戒律に従って生きており、歌や祈りのような所作さえ見せる。長く関われば、断片的にその世界の深さをうかがい知ることができる。竜には竜の法があるのだ。

 風の国の土地神として崇められていたものの多くは竜である。それらの古参エルダーたちが堰き止めていなければ、邪竜の被害は風の国だけでは済まなかっただろう。しかし、彼らは劣勢であった。信奉者も失い、徐々に力を落として来ている。すでにいくつかが邪竜にやられるか、取り込まれたという。

 シェルウはクラパリーチェを使って古参たちと連絡を取り合い、邪竜を国の中央までおびき寄せた。東の王都から西の邪竜の巣まで、国土を横断するかたちになれば片道でも数日がかりだ。邪竜の縄張りで寝泊まりするにも危険を伴う。

 その日、国中から集った竜の声に空は震え、王都の民は恐れた。風の国の騎士団は民の家を一軒ずつ巡り、民の不安を和らげた。

「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

 そう言って竜に乗り飛び立ったシェルウは、その日の夕暮れ時に戻って来ると、眠り薬を飲んで眠ってしまった。

 邪竜はすでに討たれ、月が照らす夜の空は静まり返っていた。


 それから数日後、風の国の国内での往来が増えた。公式の発表では、土地神の竜たちが協力して邪竜を討ったという筋書きになった。それでも竜殺しの噂を聞きつけ、白灰への参拝を希望する住民が増えて来たため、白灰騎士団は人気のない山岳地帯の遺跡に拠点を移した。新しい拠点は見晴らしの良い静かな山間で、ゆったりとした時間が流れている。眠りから覚めたシェルウは久しぶりにはっきりとしており、キリたちを大いに安心させた。

 アズランたち白灰騎士団の面々は王都での祭りに参加している。人の良いアズランは白灰が受けるはずの賛辞を代わりに受けて、大層気後れした。賞賛であれ罵倒であれ、その身に故のないことばを受けることも顔役の仕事の内である。邪竜の鱗や骨は高値で卸され、いくつかの加工品は白灰騎士団に贈与されるそうだ。しもべの竜の骸も含め、やがて交易の品として市場を賑わせるだろう。

 土地神による膳立てもあり、力を増したシェルウにとって邪竜は実際楽な相手であった。シェルウの主である忘却の神とシェルウの意志が一致する相手は、もはや近づくまでもなく力を奪い討つことができる。

 しかし未だに苦手な相手はいる。神々のように、戦うこと自体が悪手となるような相手を除いたなら、シェルウが最も苦手とする相手は人間だ。その中でも善人、その次に苦戦するのが悪人となるだろう。

「あたしも雑魚相手じゃ戦神の加護が枷になるからね、善人が苦手ってのはなんとなくわかる。しかしあんたの神さまは、悪人についてどう思っているんだい」キリたちと共に拠点に残ったイオは、シェルウに尋ねた。

「我が主はどんな悪人でも…生者には基本的に不干渉でおいでだ。生者同士の争いそのものを自然の範疇とお考えなのだろう。"そちらの問題はそちらでやれ"ということだね」

 冥神の使徒であるシェルウが明確に敵として許されるのは、地上の理の外にあるもの、中でも命を粗末に扱う人外だけだ。冥神の正義は人の世の正義と一致するわけではない。

「ウクバルの馬鹿王とか、あの程度なら可愛いもんだよ。亜神なんかよりよっぽど邪悪な人間っているぜ。人身売買や奴隷だって、今でもある所は普通にある。子供の血肉をわざわざ食う奴だっているんだ。そういう部族の風習じゃなくてね」

「英雄だなんだと持ち上げられることもあるけど、わたしの力というのはあくまで主に"お借りしている"だけだ。わたしが一人の人間として思う所はあっても、頂いた役割から逸脱することはできない。もしこの先人間と敵対することがあれば、それは難しい戦いになる」

「邪竜殺しの白灰様でも、無敵じゃないのかい」

「その人間が駆け引きに長け、徒党を組んだ邪な心の持ち主であれば…真正面から戦えば負ける。主から罰を下される覚悟で力を使わなければならないし、それでは相手の元にたどり着く前にこちらが倒れる。きみから見て大した悪人でもないウクバル国王でさえ、絡め手が通じなければどうなっていたか」

 神の法に則り行動する都合、使徒は多くの偽りを使えないというのも弱みである。力の強い亜神よりも、人間的な要素を持つ亜神の方がよほど難敵だ。

「つまり、白灰様の力はそれがどんな悪人であっても、人に向けては使えないってことか。よくわかったよ」

「止むを得ない場合はあるだろうけど、それはあくまで最終手段だね」

「あんたも知ってるだろうけど、地図で見て北の方は、どっちかと言えば歴史の浅い開拓地だ。チンピラや悪党は多くても、それは生きるためにやっている。南に行けば行くほど、歴史の長い国が多くなる。歴史ってのはいいもんばかりの積み重ねじゃない。言ってしまえば、ただれた部分も増えてくるってこった」

 イオは各地を渡り歩いてきた経歴がある。邪悪な人間というものについて、色々と思う所があるのだろう。

「もしものときは頼りにさせてもらうよ、イオ」

「ああ、もちろんさ。任せてくれ、と言いたい所だけどね。…本当の悪人相手に一番良い手は、会わないこと。会っちまったらさっさとトンズラすることだけさね」


 クラパリーチェは竜血のソーセージをたらふく食べて寝ている。痩せぎすだった体にも、少し肉が付いて来たようだ。キリは昼食の準備をし、グージィは狩りに出ている。食事の時間が近くなっても狩りから戻らないグージィをシェルウは心配した。

「放って置いてやってください。グージィは拗ねているのです」キリは言った。

「あなた様がクラパリーチェやイオとばかり仲良くされるものですから。あの子にとって自分は"二番目"という認識なのです」「二番目?」接する機会の多さで付く序列だろうか。シェルウは言った。

「いや、グージィは…言わば家族だろう。きみの次に長く一緒に過ごしてきた。他の者たちと比較するようなものではないよ」

「ええ、もちろんあの子も頭では分かっているのです。しかしあの子にはクラパリーチェのような超自然の力も、イオのような経験の蓄積もない。あなた様のお世話はわたしの仕事。騎士団の者たちは可愛がってはくれますが…要するにあなた様とうまく関われず、寂しくて不貞腐れているというわけです」「うーん」

 シェルウにも若すぎる娘との関係の取りがわからなかった。花の色だとか雲のかたちのようにふわふわしていて捉えどころがない。子供とはそういった柔らかさの塊のようなものだろうか、とシェルウは考えた。

「…ところで、キリはどうなんだろう。わたしが他の女と気安くすると、やはり妬くのだろうか」

「まさか。わたしが妬くなどと、それはおこがましいというものです。わたしの場合は、あなた様から十分過ぎるほどの褒美をいただいておりますから」

「褒美、褒美か、なるほど…なんというか、わたしは年頃の少女というものの扱いがわからないよ。何をあげたら喜ぶのだろうか」

「お望みでしたら、手取り足取り教えて差し上げましょう。あの子もきっと泣いて喜びますよ」

 微笑んだキリの真意が、シェルウには恐ろしく思えた。

「まずあの子をこうして膝に乗せてですね」「ちょっと待ってくれ…」

「なんでしたら、わたしが同伴いたしましょうか?」

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