第20話 祝福

 国王からの正式な依頼として、シェルウは国内西部の亜神狩りに取り掛かった。結局手駒として用いられるかたちではあるが、政治に関わるものたちが先を見据えた上で、利害が一致するように運んだのだ。これからも彼らの協力を得る以上は甘んじて受けなければならない。幸いにもタッタ領主に通した討伐条件は生きているようだ。

 国の大々的かつ秘密裏の支援のため、以前なら手を出せなかったような相手とも戦うことができた。酸の湖に居座る亜神には、上空から大量の石灰を投下して中和し、ガスを吹き飛ばした後にシェルウが単騎で赴く。入り組んだ坑道の奥を住処にする亜神は、空気よりも重い煙で燻し出した。すでにシェルウには、主の御心に沿わない邪な亜神であれば、対峙するだけで無力化するほどの祝福に満ちていた。

 それでも、とシェルウは考える。原始の神には未だ通用しないだろう。この先いずれ、再びあの次元の神格を相手取らなければならない。異形の巫師が原始の神を降ろした手法と同じく、冥府の主タルクスの"とげ"のかけらを使えば、忘却の神リエムメネム御身を降ろすことができる。本来ならば取るべき手ではないが、罰を下される覚悟の上で使わざるを得ない場面があるかも知れない。国からの支援の元、シェルウは策を練りつつ順調にことを進めて行った。

 しかしその最中で、再びシェルウは倒れた。


 記憶の迷宮には、シェルウが奪ってきた亜神の記憶も含まれている。かつて人々から崇められた記憶。それを忘れた人々を八つ裂きにする喜びの記憶に、やがて眠りは蝕まれ、シェルウは休息を取ることを止めた。すると今度は現実世界に記憶が滲み出て侵食されて、幻を見るようになった。

 亜神狩りは中断された。

「あなたは出会って間もない頃、ご自身を田舎の小僧と自嘲なさった。わたしは良いと思います。このまま田舎の小僧になりましょう」錯乱するシェルウをなだめて、キリは言った。

「いいや、キリ。主のために回復しなければならないし、わたしは"ここ"から出て行かなければならない」


 "迷路"は複雑に交差し入り組んでいるが、"迷宮"は中心を囲むように進む、たった一本の道で構成されている。中心には魔物、あるいは聖なるものがある。儀式、神話、魔術におけるひとつの象徴として、古くから用いられてきた構造である。

 記憶の迷宮では、壁と床と天井の記憶をつぶさに反芻していけば歩を進めることができる。シェルウはこう考えた。「記憶の迷宮の外側は記憶の荒野であり、それもやはり迷宮なのだろう」、「迷宮の中心にはおそらく主リエムメネムの祝福が在わすのだろう」、そして「抱え込んだ記憶の量から推測して、千回生きてもそこへは辿り着けないだろう」と。

 また、シェルウはまとまらない思考で中心にあるべきもの─祝福について考えた。祝福とは神々が善しとされた力である。この迷宮を象ったのも、いわば混乱の神の祝福によるものだ。建材である記憶群は忘却の神リエムメネムの祝福により預かったものである。光の神の気配も感じる。。この迷宮そのものがひとつの祝福であれば、中心にあるものは何か。忘却の空白か。あるいは迷宮を鋳造するための鋳型でもあるのだろうか?忘却と混乱と光の、神々による共同作業?そもそも聖なるものとは複製可能なのか。

 鋳型といえば、むしろシェルウ自身が主リエムメネムの御意志を広める鋳型であろうと努めてきた。しかしその御意志を正しく再現できていたかと言えば、何だか歪なものであったように思える。シェルウを主と崇めるキリは、いつも彼の予想をはるかに超えた恵みをもたらして来た。彼女はけしてシェルウの鋳型などではない。


 かつてリエムメネムの守り人のひとりはシェルウに言った。

「神様について書かれた分厚い本があるとします。どのような美学をお持ちであるとか、事細かな戒律とか、その指の長さであるとかが記された本です。それを読めば、神様の全てを知ることができる。それを覚えて記されてある戒律をただ守れば、それが信徒と言えるのでしょうか」

 書かれた文字を読むことと、書かれた文字が指し示しているものは違う。想像し、歩み寄らなければ知ることにはならない。

「あなたがこれだと考えたのなら、戒律を破ってしまってもいいの。主は記憶をお預かりになる。罰を下されるかも知れないけれど、あなたが精一杯考えた記憶は、きっとお喜びになる。わたしはそう思います」


 守り人たちの喧騒が聞こえる。信仰について、何度も繰り返されたやり取りだ。

「奇跡を賜ったから信じてるってのも違うんじゃないか?だって、神様はみんな奇跡を使えるんだろ。人間にだってできる奴がいるかもしれん。たとえば命の神とかが生き返らせたら改宗するか?おまえは」

「うーんどうだろうな。余計なお世話だ!ってキレちまうかもしれん」「俺結構悩むかな、それ」

「難しく考え過ぎるなよ。あんま理屈っぽいと、じゃあ理屈を信じてんのかってなるしな」

「またそれ言う?俺はハートを"ことば"に訳してるんだ」「心臓も無いくせに良く言うぜ」


 迷宮を形造るこの"記憶"とはなんだろう。記憶を生きた人々と、人ではない者たちは一体誰なのか。彼らはどこから来てどこへ行くのか、シェルウは改めて考える。神々が祝福を与え、記憶の迷宮を象ったのか。あるいは、


「眠り薬を使わせていただきました。御身体に負担がかかるので、出来れば使いたくありませんでした。どうかお許しください」

「いや、ありがとう、キリ。…生まれて初めて夢を見た気がする。まだ冥府にいた頃の。…きみはどんな夢を見るのかな」

「昨晩はクリーヤという角獣になって、森の中を歩く夢を見ました。クリーヤの嗜好で食べる葉を探すのです。茂みの奥に狼の気配を感じていたのは覚えています。グージィ、あなたは?」

「そ、空を飛ぶ夢を見ました。おふたりはうまく飛んでいるのに、わたしは落っこちて…こわかったです」


 キリたちの看病の甲斐ありシェルウは小康状態となった。休息か祈りか、瞑想か幻か曖昧な時間はあれども、三日に一度に眠り薬の飲み、丸一日眠った。

 亜神狩りが再開された。そしてついに八体目の亜神を狩り終えると、これ以上の手出しは主の御心に沿うものではなくなる、と国王に申し出て、シェルウは北方限界国での活動を終えた。後は人間たちの仕事である。残った亜神が人間を食らっても、それは自然淘汰の範疇だ。

 シェルウが地上に来てから、季節はすでに三回度巡っていた。

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