第8話 亜神

 戦災の跡地を経由するため、北東の岬へは迂回して向かうことにした。旅程を決める際に、今後の指針として少し議論があった。

「シェルウ様。亡者を鎮めるにあたって、神殿や街の依頼を受けて行うのはいかがでしょう。援助が受けられれば、資金の心配が減ります。あの司祭を通せば、そういった活動ができるのではないでしょうか?」

「キリ、きみは賢い。その賢さになんども助けられているし、感謝している。でも、それは駄目だ」

 事業として慰霊を行うなら、必然的に多くの人と関わることになる。過剰な財貨が諌められるのと同様に、多くのしがらみを持つことはリエムメネムの戒律に反する。なにより力を持つものは、人に関わるほどに妬まれ嫉まれる。その結果シェルウの禁忌に触れる可能性が高くなる。

「積極的な人助けは命や光の神の領分だ。キリ、きみは変わってるね」

「いいえ、シェルウ様。人助けなどには興味がありません。あなた様の助けとして、今後のための資金を用意したいのです」どうやらキリは納得していないようだ。

「我が主のご意志に従います。しかし人の世で生きる上で、いずれ資金が必要になることはどうか心に留めておいてください」「わかった。きみがそう言うのなら、考えておこう」


 街を発ってから4日目、経由地点に定めた戦火の廃墟に着いた。

 シェルウは匂いが強すぎると感じた。それは亡者のものではなく、かつて冥府の荒野で嗅ぎなれた、腐った獣たちの匂いだった。

「キリ、ここにきみたちが留まっていると危険だ。竜と共に離れて、翌日迎えに来てくれ」

 キリは拒んだが、シェルウは自分一人なら慣れた仕事であること、キリや竜を足手まといになること、もし失えばがかえって四肢を失うよりも痛手であることを説明した。

「まだ日が高い。ここは放棄して、共に岬へ向かいましょう」

「いや、すでに目を付けられてしまった。このまま他の場所へ行けば、悪いものまで付いてくる」


 夜を待って、シェルウは香木を焚いた。そこは亜神の縄張りであった。

 人外でありながら、神の頂には辿りつけぬ者たち。

 蔦にまみれた猿のような獣が忍び寄ってきた。亜神のしもべである。やがて猿たちは香木を焚くシェルウを取り囲み、嘲るようにぐるぐる回った。その円が窄まると、近づきすぎた猿がばたばたと倒れた。再び円は大きくなった。

「うまそうな匂いをさせているのは罠か。小賢しい」

大きな猿の身体に老人の顔が乗っている。亜神だ。

「へえ、この猿は一端の口が聞けるのか」その格を認めた上でシェルウは煽りを入れた。心を乱せば付け入る隙が生まれ、それだけ勝機が濃くなる。誰しもが使える"ことば"の力だ。

「抜かせ。借りものの力で増長するカスのような人間め」

「その借りものが欲しくてきたんだろう。哀れな猿。ほら、冥府の神の骨肉だ。おまえなんぞ猿の口が語ることすらおこがましいぞ」シェルウは服をまくりあげ、歯車の内臓を見せた。

「おお…」亜神は恍惚した。神の中でもとりわけ強力な死の神の身体である。

「よし、いいだろう。儂と取り引きしよう。その骨肉の半分をよこせ。そうすればおまえに儂の力を分けてやる」

「はは、おまえなんぞに何ができる。おまえが見下す人間を、傷つけることすらできんのだろ」

「人間ならいくらでも食ってきたぞ。儂は」亜神は牙をむき出してシェルウに飛びかかった。が、その牙は鼻先でぴたりと止まった。「身じろぎもせんか。そりゃあそうだろうな。冥神の骨肉があるんだ。…何が欲しいか言ってみろ」

「見てわかったが所詮は獣だ。何の役にも立たん。ほら、もう行っていいぞ」

「…人間を思いのままにする魔術をくれてやろうか?どんな女でも好きにできる。王にだってなれるぞ」

「阿保。そんなものが冥府で何の役に立つ。取引きがしたければもっと猿知恵を回せ。でなければその場で回ってみせろ」

亜神の顔が歪む。「要領を得んな。一体何が望みだ」

「猿に望むものなど何もない。しかしそうだな、お前のことを話してみろ。どこから来て、どこへ行くのか。面白ければ、骨のひとかけらくらいはくれてやってもいいぞ」

 人の理の外側にあるものが相手ならば、シェルウに授けられた神性は遺憾無くその力を発揮できる。ましてや人々の霊を無分別に傷つける邪悪な者であれば、それは冥府の神々の明らかな敵であり、忘却の神__の後押しが得られる。亜神が語れば語るほど、それは忘れられ、力が奪われていった。最後には、その身体も満足に動かせない”哀れな猿”になり下がっていた。

 ことばによって相手を縛り、欲を誘い、逃げ道を作る。シェルウは亜神を罠にかけて殺し、リエムメネムに祈りを捧げた。


「亜神を討ったのですか?たったおひとりで?」「特に苦戦はなかったよ。欲と敵意がむき出しの低級は御しやすい」

「…亜神を低級と言い表すおかたは初めて見ました」翌朝早くに戻ったキリは唖然として言った。

「曲がりにも神です。人がどうこうできるものではありません。辺境では神と同等に扱われることもあります。邪悪な亜神ならば大軍で戦い、討てば英雄として物語や歌になる。街で祭りが開かれます。…亜神のしもべはここに倒れているものだけでしたか?」

 倒れたものは十ほどで、亜神の影響を強く受けていた異形の個体と、気が早りシェルウに殺気を向けた連中だ。影響の低い個体は百を越えていたが、じきに本来の獣として野生に帰るだろう。仮にそれらを武器で相手取るとなれば、確かに軍隊が要る数だった。この勝利は__の賜物である。


「亜神の骸はいかがなされるのですか」

「ここに捨て置くわけにはいかないが、きみの話を聞く限り、街に持ち込むのは厄介なことになりそうだ。時間はかかるがひとつずつ処理していこう。その骸が呪いに転じないよう、丁重に施さなくては」

 キリは少しの間考え込み、やがて腹を決めて申し出た。

「この配下の獣の一部…骨や皮でさえ、呪術の品として高く取引されるものです。異形と化した亡者も同様です。実を申し上げますと、亡者の骸の扱いについてわたしは遠慮しておりました。しかし亜神の骸は、どうかわたしに預からせてください」

 資金繰りの件であることは明らかである。

「他の方法はないだろうか?例えば寄付を募るとか」

「あのあばら家のごとき神殿ででしょうか?光の神々のゆかり深き人の土地で、いったい誰が好んで死の神の徒に寄付をするでしょう。辺境に追いやられた闇の信徒たちには、寄付の呼びかけなど届こうはずもございません」

 今度のキリは食い下がらなかった。


「冥神タルクスに願えば、死を回避することができるのでしょうか」

「冥府の神々は死を与えるものではない。死を受け入れるものだ。死は死する者の特権ではあるが…拒むことはできる。しかしタルクスを拒む者は、やがて亡者や、狂乱した霊のかたちを取る」

 冥神の”とげ”を盗んだ者も、タルクスを拒んだのだろう。不死の亡者か、あるいは冥神の一部を取り込み亜神、あるいは半神になっているおそれがある。

「…質問を変えせていただきます。幼子が流行り病に罹ったとします。幼児は両親の看病の甲斐なく死んでしまった。これは運命と言えるものでしょうか」

「いいや、わからない。死の神でさえ、死を御心のままに掌握されているわけではない。本当の死というものは、死んだ当人だけのもの。運命も同様に、それを当人が受け入れるものだ」

「…もうひとり、別の幼児が同じ流行り病に罹りました。この子の両親には蓄えがありました。そのため、高位の祝福と医療によって生きながらえることができました」

「わたしが育った森の集落は、闇の神の末端に属します。それでも多額の金銭を支払えば、街で祝福や治療を受けることができました。もっとも実際には、そのような蓄えはありませんでしたが…申し上げたいのは、蓄えがあればそれが可能であるということです」


「堅牢な家に住めば賊に会う危険が減ります。贈与によって、敵と和解できるかもしれません。安全を買うことができます。はっきり申し上げますと、人の世において、金銭の力は神より優っております。わたしは…蓄えを持たないことは人の怠慢と考えます。…このことばが主への冒涜にあたるのなら、どうか罰してください」

 財貨が呼び込む危険があれば、財貨によって回避できる危険もある。その点では、力や名誉も同じことが言える。

 キリは今ここで、神徒としての戒律の解釈ではなく、人としての生きかたを問いている。主の御心のままに任せるといえば聞こえが良いが、そのひとつひとつの裁量が実は自身に委ねられていることを理解した上で。主は食事の塩加減までご命じになられない。戒律を守るのは大前提だが、未来を見据えた上で”どのように運ぶか”決断を迫られている。

 リエムメネムより授かった三つ目の試練、人としての生を全うすることが、おそらくもっとも難しいのだ、とシェルウは思った。

「…わかった。街で、亜神討伐の誉をうけよう。骸の管理はきみに任せるが、くれぐれも悪縁を呼ばないように心がけてくれ。…貯蓄についても__様は大めに見てくださることだろう」

「ありがとうございます、我が主よ!」


 キリは亜神から手際よく内臓を抜き取り、井戸水で洗って塩に漬けた。毛皮と枝肉を取り、亜神の首は布に包んでそのまま街へ運ぶ。木切れを集めて燻し機を作った。仮眠から覚め手伝いを申し出たシェルウには、解体の手が回らない獣の埋葬作業があてがわれた。

「亜神に勝てても、ひとりの娘には勝てないというわけだ」キリが用意した獣の肝焼きを食べながらシェルウは自嘲した。戦いにおいては、その摂理により明るい方が勝つのだ。キリは言った。

「シェルウ様。いずれにせよこの世情において、一切の敵を作らぬことは、神であっても不可能です」

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