ガイドライン

「あかり~、一緒に映画でも観ない?」


 俺は漫画をベッドの枕元に伏せて、勉強机に向かっている彼女に向かって言った。あかりはくるっとこちらを向く。その遠心力で窓からの午後の西日に照ったポニーテールがはちみつを撒いた。


「で、でもまだ問題解けないから……」


「んー……」


 俺は首跳ね起きでベッドから地面に着地して、彼女のノートを覗き込んだ。お饅頭さんはセロハンテープの曲線の上に伸びながら、足をぱたぱた動かしてノートをぱっと前にぶん投げる。


[映画、観たいよぉ……]


「だいぶ解けるようになったじゃん。休憩がてらさ、ほら、あの、この間借りて来たっきり観れてないやつあるんだよ」


「あぁ、『ローズマリー』?」


「そう。あかりも好きでしょ?」


※『ローズマリー』っていうのは、ハーレム系のラブコメアニメ作品で、二期にして映画化した人気作品である。あかりが漫画全巻持ってて、つられて俺もハマった。だからあかりも好きっていうより、俺も好きなのだ。ほんとに面白い。


「ちょっと、休憩しようかな……」


「あかりがよく頑張ってるの、わかってるからさ」


 シャープペンシルを口元に立てる彼女の肩に手を乗せる。セロハンテープから降りてきたあかりはとてとて走って来て、あかりの身体に飛び乗って駆け上がり、俺の腕に抱きついた。


[えへへ~ご褒美っ♪]


「ほらっリビング行こ?」


 俺は彼女の前に手を差し伸べた。彼女はシャープペンシルをペンケースにしまい、俺の手を取るって立ち上がると、そのまま俺の腕にぴったりと抱きついて身体を寄せた。


「うおっ。ど、どうしたの?」


「二人きりの時は、気にせずに浩くんのこと感じれるから……」


「ぐっ!」


 心臓が爆発した勢いが口から飛び出た。


 無表情でそれ言われると、ツンデレなんだかクーデレなんだかに見えるぜよ。


[だいしゅき~♪]


 デレデレなんだよな。


 分身あかりは俺の肩にでろーんと寝そべって運ばれていた。俺が歩くたびにちょうちょのようにひらひら振られる。


 二人で並んで歩くには窮屈な階段を無駄にイチャつきながら下った。


「あかり、冷蔵庫の中にコーラ入ってるからさ、ちょっと持って来て」


「うん」


 俺は『劇場版:ローズマリー』のDVDをプレイヤーに差し込んで、テレビの上の天井に着いているスクリーンを下ろした。やがて再生ページのエディタが表示されてメイン画面に飛ぶ。


[わぁ~! 映画館みたーいっ]


 お饅頭がぷにぷにしている。


「父さんが映画好きでこのセット作ったんだよね。これでテレビも見れるんだよ」


 あかりは二つのコップと2リットルペットボトルのコーラをソファの前のガラステーブルに置いた。ぱきっと栓を開けるととくとくコップに注いでいく。


「はい、浩くん」


「ありがとうあかり」


 彼女はううんと首を横に振った。

 

 今ちょっと笑ってなかった? 楽しみなの漏れてない?





 ……まずい。非常にきわどいシーンだ。そっかこれ含まれてるんだった。


 画面に映っているのは白い月の光を透かしているカーテン。ベッドの皺。男と女。作画がよすぎて異常にリアルである。直接的に描かれているわけではないが、このシーンを恋人と一緒に観るのは……。


 俺はさっと横目であかりの様子を伺った。スクリーンの白に照らされた顔はいつも通り特に変化がない。でも小さな手をぎゅっと握りながら、胸に押し付けているのが見える。彼女も原作は読んでいるはずだけど、どんな気持ちでこれ観てんだろ。


 吐息。


 それは間違いなくあかりのだ。意地悪なことにこのシーン、無音演出なのである。


 俺の手の中からスクリーンを観ている分身はその肩をぷるぷる震わしている。スクリーンの中の風景はもう朝日に包まれているが、彼女には大きな余韻が残っているのか、覚束ない手で口元を押さえていた。


「あかり……?」


[こっ、こっ、こうびっ。こいつら交尾したんだぁ……!]


 スクリーンを指差して俺の顔を見上げる彼女。頬から耳まで全部真っ赤っかにして、眼球が溶け出してきそうなほどとろとろな顔になっている。


「こらっ、交尾とか言わないのっ」


 俺は人差し指でその頭をこつんとつついた。きゅっと目をつぶって頭を押さえるあかり。


[うぅ……だ、だってぇ……! じゃ、じゃあなんて言えばいいのっ? せ、せっ――――]


「おっとストップ」 


 俺は頭の人差し指を彼女のちっちゃな口に押し付けて封じた。


[むぅ~!]


「あのね、美少女にはガイドラインがあるのよ。そう簡単にお下品な単語ぶっ放していいわけじゃないの」


 ちょっと苦しそうなので口枷くちかせを外してあげた。


[ご、ごめんなさぁい……]


 お饅頭あかりはしょんぼり落ち込んで人差し指をつんつんしながら、宿の主の方へ歩いていった。どこまでも小さい背中はそれはそれで可愛らしい。


「でも、私と浩くんも、いつかそういうことっ……」


「え?」


 俺は完全に分身が宿っているあかりを振り向いた。彼女の顔が赤く見えるのはスクリーンに映ったアニメーションのせいではない。部屋を暗くしている分、その瞳の輝きは無量だった。


 間違いなく三つ目の実績を解除しかけている状況にあることを俺は察する。これで三日連続で一日一つずつ彼女の感情を表に出すことに成功するわけだ。だがそんなことよりも前に、俺はこの暗いリビングに流れるこれからを悟って全身を強張らせた。


「そ、そうだね。いつか……」


 彼女はいきなりスクリーンの再生を止めた。


「えっ」


 カーテンで濾過ろかされた夕方の空色。静寂の中で耳を撫でる誰かの息遣い。

 心臓が、激しく脈を打ち出す。


「浩くんっ……」


 スカートとソファと彼女の香りが、空間に擦れて俺にまとわりつく。


「んっ……あれっ。んーっ……あれ? んー……」


 あかりは何度も俺を抱き締めては首をかしげ、もう一度、もう一度、と俺の身体を抱き締め直した。なかなか寝相が定まらない熱帯夜のような苦しさと、頑張って気持ちのいい場所を模索する彼女の可愛らしさが俺を襲う。


「どしたの、あかり」


「な、なんかっ、おかしいのっ……」


 その声色にはすっかり女性の色気が塗られている。


「おかしい……?」


「い、いつもはねっ、浩くんのこと抱き締めたくなって思いっきり抱き締めると、心の中がふわぁって満たされるんだけど、なんか……変な気分なの」


 そう。その通りなのである。俺が察した通り、今回解除した実績は間違いなく「官能」だ。抱き締めただけでは沸き上がった心を元に戻すことは難しいだろう。

 

 あかりは諦めずに俺の身体をもう一度抱き締めた。俺の心臓はロックダウンを食らっている。


「でも私のこと満たしてくれるのは浩くんだけだし……ひゃっ♡」


 俺は彼女の首元に、ふうっ、と息を吹きかけた。その奇襲攻撃に彼女は顔を真っ赤に染めて跳ねると、手首を顔にかざすようにして俺から体を離した。


「ハグ以上……する?」


「えっ」


 俺はあかりの頬に手を当てて水晶のような綺麗な瞳を見つめた。


「目、閉じて」


「っ……! そ、そそっ、それは、まだ……」


 あかりは俺の瞳を見つめたまま、手の甲で口を塞いだ。


「でも、あかりの目はキスしたいって言ってるよ?」


「ふぁっ!?」


 彼女は急いで両手で目を隠す。


「ど、どうしてわかるのぉ……?」


「ふふっ、いいから。ほら、手どけて」


 キスだってするのは初めてだけど、ここは男らしく彼女を導いてあげよう。それであかりが満たされれば幸福落着なんだ。満たしてあげたいと思うことは、おかしく、ないよね?


「浩くんっ……」


 あかりはゆっくりと手をどけた。細い指の間からあらわになったのは愛に飢えて震えた艶やかな唇だった。


「や、優しく、お願いしますっ……」


 そう言って、穏やかに目をつむる。


 ズッキューン、という効果音を考案したやつを称賛したい。まさにそれに尽きるのである。


「あかり、可愛すぎ……」


 俺はゆっくり顔を近づけた。


 

 だがしかし!



 あかりのキス顔を目の前に俺の男性欲望は少しだけ形を変えた。今、俺の唇を待っている彼女をなんだか焦らしてあげたい気分になったのだ。童貞にしてはやけに冷静な立ち回りである。


 俺はすぐには彼女に触れず、その唇にふぅっと息を吹きかけた。


「……浩くん?」


「まだ開けちゃダメ」


 素直に頷く恋人。俺は人差し指と中指をそろえて、その唇に優しく押し付けた。


「ん……♡」


 お互い唇を合わせたことなんてないから、あかりはすっかり騙されてきゅっと眉を寄せた。あまりの可愛さに思わす俺は吹き出す。


「えっ?」


 キスの最中に俺が吹き出すなんていう摩訶不思議を見逃さずに、あかりは目を開いた。そして自分の唇に触れている真相に気が付く。


「え……? ひ、浩く――――」


 彼女がわけのわからなくなっている隙をついて、俺は今度こそ本当に唇を押し付けた。あかりも俺も、一瞬痺れたように動けなくなる。


 や、やわらっけ……。


「~~~~っ♡」


 俺の制服の袖を頑張って摑むあかり。策略的不意打ちは致死電圧で愛を脳に流した。このまま死んでも気持ちが良いだろう。夢見心地だ。


 

 ただ、俺はもっとあかりのことを見ていたい。



 ゆっくりと唇を離して、官能紅色限界のあかりを強く抱き締めた。


「ひ、浩くん浩くんっ……!」


「ん?」


「し、心臓……壊れちゃうっ……」


 俺もだ。


「なに、俺はあかりに何回壊されたと思ってるの?」


「ふぇ……?」


 俺は彼女の耳元で囁きを置いた。


「一回ぐらい壊させてよ」


「っ! で、でも、幸せすぎて死んじゃう……。死んだらっ、浩くんと結婚できなくなっちゃうっ……!」


「やーだ、離さない」


 ピュアな彼女だから、きっとキスだけで心なんて軽く満タンになってしまうのだろう。でもいいんだ。



 離したくないし、離れたくない。



「むぅ……あなたぁ♡」


 心臓が壊れた。テストに向けて色々詰め込んだ脳みそも、全部溶けてなくなってしまいそうだった。この調子だと回答欄全部どころか、氏名欄にまで「あかり」と書いてしまう。


「も、もぉ、今のうちに夫婦ごっこしないのっ。俺の方が死んじゃうから」


「えぇ、だってぇ……大好きなんだもん……」


 俺は背中に回した手であかりの頭をゆっくり撫でた。なんだかとっても嬉しそう。


「ねぇ、あかり」


「うん?」


「ずっとそばにいて欲しい」


「あ、当たり前じゃんっ。昔から、浩くんは私の運命の人だよ? 私には浩くんしかいないもんっ♪」


「そっか」


「浩くんこそ、いなくなんないでよ? まさかだけど、浮気なんて……」


「しないよ。離れたくても離れられないから、大好きすぎて」


「もぉ~……♡」


 なんだよこの絵に描いたようなバカップルは。絵に描いたどころか、角膜にしつこく張り付いてくるほどの幸せは。


 なにか心の奥で蠢くものが治まらない俺は、あかりの唇でそれを塞いだ。何回でも流れる電愛に、あかりのフィラメントはついに断線する。


[ふぁぁぁぁぁぁ……♡]


 彼女の頭からいつだかぶりの分身が飛び出して、ソファに転がった。ということは彼女はもう無表情に戻ってしまったのか。


 俺は目を閉じたまんまもう一度彼女を抱き締めた。


[だ、だめですっ。あ、あかり、あかりには、刺激が強すぎて、オーバーしてしまいましたぁ……!]


 あまり昂ぶらせるのもよろしくなかったかな。まあいっか、幸せそうだったし。


「満たされた?」


 身体全体が細かく痙攣しているあかりは、おぼつかない頷きを見せた。


[こ、これ、ほんとに死んじゃうかもなので、これからはあんまり発情しないようにします……]


 別にそういう気分になってるあかりも可愛いからもっと見せてくれてもいいのだけれど、さすがに死んでほしくはない。


 彼女の肩に手を置いて、温もりを離した。


「ひ、浩くん……鼻血、出てる……」


 あかりは心配そうに俺に頬に手を当てた。俺は笑った。


「両方から出てるあかりに言われたくないなー」


「えっ」

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