初めて尽くし•前編
ついにやって来た土曜日。
9時30分過ぎ。待ち合わせは10時だが、遥香はすでに待ち合わせ場所である駅前に着いていた。
遥香にとって男性とデートするなんて初めてのことだ。
服はこんなのでよかったのかと店の窓に映る自分の姿を確認する。
白いニットと茶色のミディ丈のスカートを合わせてミルクティー色のコートを羽織っている。これが巷で言うモテコーデか、と遥香はいつもと違う自分を遠い目で眺めた。
先日カフェで友人たちとおしゃべりをした際、デートに何を着ていけばよいか相談した。すると、異様に意気込んだ友人たちにショッピングモールに引っ張られ、あれよあれよという間にデートコーデが完成させられたのだ。
白いニットは自前だが、スカートとコートはお買い上げ。だいぶお金がかかった。世の女子はどれだけ自分の身なりにお金を使っているのか。これからデートの度にこれだとお金がもたないなと遥香は若干げんなりとする。
「何、窓に向かって神妙な顔してるの」
不意に背後から声が掛かってビクッとする。
「雅明兄ちゃん」
後ろを振り返ると、雅明が休日仕様の小洒落た格好で立っていた。こなれた感じは遥香をどこか気後れさせる。
雅明は遥香の全身を見回した。
「遥香がそういう格好してるの初めて見た。かわいいね」
「そう……かな」
かわいいとか言ってもらうのに慣れていない遥香はその言葉を曖昧に受けとめる。
「それにしても、遥香来るの早すぎ。約束の時間までまだ15分はあるぞ」
駅の時計を指差して言う。
「だって、気が急いちゃったんだもの」
「まぁ、それは俺も同じか。じゃあ早速移動しよう。遥香は定期とか持ってないだろ。はい切符」
前もって用意していたのだろう。遥香は切符を受け取った。
「これ映画館に行くには高くない?」
改札に向かいながら尋ねる。近くの大きな映画館は3つ先の駅で、この切符は明らかにそれより高い。
「今日はそこじゃない所に行くから。学生時代よく通っていた所なんだ」
この辺りに他に映画館があることを知らなかったが、雅明が学生時代に通っていた場所と言うのに興味がわく。
どこまで電車に乗るのかという問いに、雅明はW大前と答える。W大学は雅明の母校だ。
しばらく電車に揺られ、W大前に着く。遥香は初めて降りる駅だが、雅明が学生時代通っていたのかと思うとなにか感慨深いものを感じる。
映画の上映が昼の過ぎからと言うことで、早めに昼食を食べてから映画館に向かうこととなった。
映画館は駅から少し歩いた所にあるとのことだった。連れ立って駅前の商店街を一本横に入ると、人通りの少ない道に出た。スナックやパブなどの看板が上げられた店が並んでいるが、まだ開店前なのだろうひっそりとしている。
遥香はなんだか場違いな所に来たようで心細く感じて、雅明のコートの袖を掴んだ。
それに気が付いた雅明が「ほら」と手を差し出してくる。遥香がちょっと迷いながらもその手を取と、きゅっと手を握られ手を引かれる。手を繋ぐなんて小学生以来で心臓が高鳴る。雅明の手は昔と変わらず温かく、遥香はそれが嬉しかった。
しばらく道なりに歩くと、大きな白い箱のような建物が出てきた。壁は薄茶けていて年代を感じさせる。
「ここだよ」
躊躇する間もなく雅明は手を繋いだまま重たそうな扉を開ける。
中はエントランスになっており、思ったよりも明るい。天井が高く、上方にあかり取りの窓が並んでいる。
壁には上映作品のポスターやイベントのお知らせなどが貼ってある。遥香が見たことがないものばかりだ。まるで時間の流れが外と違うような、そんな濃密な空気を感じる。
「ここは単館の映画館でね、大きな映画館では上映されないような映像作品や、過去の映画がリバイバルされて上映されているんだ」
物珍しげに辺りを見回している遥香に雅明が説明する。
「へぇ」
感心しきりでいると、奥から壮年の男性が出てきた。
「もしかして……雅明君かい?」
「
雅明に八神と呼ばれた人物は、柔和そうな顔をさらに綻ばせ近付いてきた。
「やぁ、何年ぶりかな。元気にやっていたかい」
「はい、おかげさまで」
雅明も少しはにかんだように笑って答える。遥香があまり見たことがない表情だった。
「また来てくれて嬉しいよ。ところで、そちらの方は?」
遥香の方を見て尋ねる。
「彼女です」
さらりと答える雅明に遥香はどきりとした。八神は遥香を見て一瞬目を細め、それから穏やかな笑顔を向けた。
「可愛らしい方ですね。はじめまして。館長の八神です」
「えっと、
ぺこりと頭を下げる。
「ここは古いものと新しいものとの
「はい」
返事をしながら、遥香は八神のこの空間に溶け込むような声が、夢の世界への案内人みたいだと思った。
八神と別れて、雅明の後について上映室に入る。規模は小さいもののいつも行く映画館とかわらない造りだった。
すでに人がそこそこ入っている。
「1番後ろの席に座ろうか」
そう言う雅明に、真ん中辺りの席が観やすいのではと思いそう尋ねる。
「こういった小さな映画館はスクリーンに近いから後ろの方が観やすいよ。それに後ろの人を気にしなくて良いからね」
そういうものかと遥香は素直に1番後ろの席の真ん中辺りに座り、雅明も隣に座る。
「どんな映画なの?」
まだタイトルも聞いていなかった。
「『真昼の月』という映画だよ。」
遥香が聞いたことのない名前だった。
「今から10年前くらい前の映画でね。主演は藤原京香。遥香も知ってるだろ? 彼女の初期の作品だよ。同時期に公開された件の小説家が原作の作品の方が断然有名だけど、評論家の多くからはこちらも佳作だと云われている」
雅明はスラスラと作品を語る。映画のことを語る彼は饒舌で学生時代の彼を垣間見たような気がした。
間もなくあたりが暗くなり上映が始まる。
序盤に、膝に置いてあった手を握られてびっくりして雅明を見たが、彼は何食わぬ顔でスクリーンを観ていた。これがデートでは普通のことなのか遥香にはわからないが、とりあえず映画に集中しようとスクリーンに目を向けた。
上映が終わり、館内が明るさを取り戻しても遥香は動けずにいた。目から涙が止めどなく溢れている。
「遥香、大丈夫?」
雅明からハンカチを受け取るが、遥香は首を縦に降るだけで、言葉が出ない。
映画は、故郷を出た恋人と遠距離恋愛をする織物作家の女性が、ふらりとやって来た美しい青年と濃密な一時を過ごすという筋書きの話だった。
厳しくも優しい自然の情景と、機を織る音の清らかさが折り合わさった美しい映像とが秀逸だった。
そして、なにより主演女優の指先の動きひとつにも色気を感じるのに透明感のある演技が、切ないラストを一層引き立てていた。
愛し合っているのに別れなければならなかった2人に心が痛くなる。
客が皆外に出た後、遥香はようやく立つことができて、エントランスの長椅子に腰掛ける。雅明がペットボトルのお茶を買ってきてくれた。温かいお茶を飲むと心が落ち着いた。
映画を観てここまで泣いたのは初めてだった。
「遥香、本当に映像に引き込まれるようにじっと観ていたね」
雅明が感心したように言う。
「何しても全然気づかないんだもの。すごい入り込みようだった」
その言葉に遥香は動きを止める。
「私何されたの?」
手を握られた以降は何かされた覚えはなかった。
「顔を観察したり、ちょっと突いてみたり、他いろいろ。あと落書きしたり」
「うそ!?」
遥香は反射的に顔を両手で隠す。
「嘘だよ」
雅明はニヤリと笑った。
「顔を観察してたのは本当。遥香の百面相おもしろかったよ」
「悪趣味!」
遥香は顔を真っ赤にして立ち上がる。
「お手洗いに行ってくる!」
逃げるように走った。後ろで雅明のクスクス笑う声が聞こえた。
お手洗いから戻ると、雅明と八神が穏やかな顔で談笑していた。何か入り込めない空気を感じる。
「映画はいかがでしたか?」
遥香に気が付いた八神が優しく問い掛ける。
「とても、心を揺さぶられる映画でした」
遥香の答えに八神は満足したように笑った。
「良い映画は人の感情に語りかけるものです。遥香さんに良い出会いがあってよかった」
八神に見送られ、外に出たら夕焼け空が広がっていた。どこか遠くから『蛍の光』のメロディーが聴こえてきた。
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