愛と呼べない夜を越えたい•後編

 どうしてこんなことに。

 遥香は今、窮地に立たされている。


 今夜、突然に年上の幼馴染み雅明を呼び出した。理由は次のイベントに出す本を書くにあたってのインスピレーションを高めるため、と称して、雅明にBLの攻めの役をやってもらうためだ。


 今となって思うと、そんなことのために次の日仕事の人間をよく呼び出したなと思う。


 しかし、雅明は嫌な顔をせず、むしろ乗り気でその珍妙なお願いを聞いてくれた。


 巨大なペンギンのぬいぐるみを相手に攻めの演技をする雅明。普通ならその奇妙な光景に笑ってしまいそうなものだが、その艶やかな表情、仕草で視線を釘付けにしてしまう。もはやペンギンはただの背景の一部に成り下がっていた。


 なにこれ眼福が過ぎる。これこそが理想の攻めだ。尊すぎる。

 遥香はカメラ越しに目の前で繰り広げられている光景に魅入られて、目が離せない。


 ところが、不意に雅明が演技を止めて、こちらに視線を向けた。そして、遥香に相手をしろと言ってきた。ぬいぐるみ相手じゃ気分が乗らないと。


 撮影を続けたいからと逃げようとしたが、雅明は許さず、置いて撮ればいいとカメラを奪い取ってさっさと良い具合にセットしてしまった。


 そして、今この状況である。



「おいで」


 そう言って差し出された筋張った男の手。

 心の中を見透かされてしまいそうな視線。


 それらが自分に向けられていることに、遥香は信じられない思いだった。


 この年上の幼馴染みの視線はいつもどこか甘やかなものだったけれど、今のそれは瞳の奥から蜜が溢れそうな、どろりとした甘さがあった。


 この瞳をずいぶん前に見たことがあるような気がする。


 遥香は記憶の奥底に潜った。




 中学生の頃、近所の公園での出来事だった。


 僅かに日が傾き始めた時刻、遥香はクラスメイト6人ばかりでぶらんこ周辺に集まっていた。


 文化祭の準備で遅くなった帰り道、連れ立って寄った鯛焼き屋でおばちゃんが鯛焼きを1つだけオマケしてくれたのが事の始まりだった。


「鯛焼き争奪、靴飛ばし大会〜!」


 小さな子どもたちが帰ったのをいいことに、同級生たちは体に合っていない小さいぶらんこを思いっきり漕いで、飛ばした靴の距離を競い始めた。


 遥香も絶対勝つぞと意気込んでぶらんこが1周回るくらい高く漕いだ。


 えいっと靴を飛ばす。が、靴はなぜか後方の茂みの奥へ飛んていった。


「えっ嘘」

「遥香何やってんのよ!」

「取りに行ってこい!」


 クラスメイトに囃されながら片方の靴が脱げたまま茂みの中に入る。


 誰か一緒に探してくれても良いのにと、ぶつぶつ小声で文句を言いながら姿勢を低くして靴を探す。


 程なく、少し離れた低い木に引っかかっているのを見つける。思ったよりすぐに見つかって遥香は安堵した。


 戻ろうと踵を返しかけた時、茂みの奥のさらに奥から人の声がした。


「ちょっ、や……、人がいるわ、これ以上、ダメ」


「大丈夫だよ。こんな奥まで来る人なんかいないよ」


 若い男女の声だ。そして、その男の声に聞き覚えがあった。


 遥香はそっと声のする方を覗く。

 茂みの奥には、小さな池があって、その縁にある木にもたれるように男女の姿が見えた。


 女の姿はよく見えないが、男の姿は夕日に照らされてよく見える。


 やはり隣に住む当時高校生の雅明だった。


 雅明は木に片手をついて女と向かい合っている。


 真っ直ぐに女を見つめているその瞳は艶っぽく、妖しげな光に揺れていた。


 遥香が初めて見る大人の男の顔、まるで知らない人を見ているようだった。


 呆然と見ていると、雅明の手が女に伸び、その首筋に触れる。そのままその手がついと顎を持ち上げ、ゆっくり顔と顔とを近づけた。


「や……だ」


 遥香は咄嗟に目をそらし、2人に背中を向けみんなのいる所へ駆け戻った。


 みんなの元に戻って、ひとしきり騒いで帰ってからも、あの時の雅明の顔は遥香の目にしっかりと焼き付いて消えなかった。


 その顔を向けられた見知らぬ女に感じる確かな嫉妬。しかし、だからと言ってその立ち位置に自分が成り代われるとは少しも思えず、じりじりとした焦燥感だけが胸を支配した。

 

 いつの頃から遥香は夢見ていたのだ。いつかあの優しい幼馴染みが自分を想ってくれることを。運命の恋というものに。


 遥香は目を覆う。こんな感情気持ち悪い、自分のこの心を切り取ってしまいたかった。


 結局、中学生の遥香にはこのどうしようもならない気持ちにフタをすることしかできなかった。


 兄弟のいない雅明の妹のような近い関係を守り、現実の恋よりも架空の男同士の恋愛に心を向けた。


 そうすることで、遥香は心の平穏を得たのだ。


 


「ほら、受けのミナトになったつもりで。実際やってみるともっと良い絵が描けるかもな」


 雅明の声で現実に引き戻される。


「う〜」


 全部、思い出してしまった。


 遥香はこの瞳が他でもなく自分を見るのをずっと望んでいた。


 確かに望んでいたが、急過ぎる。何の心の準備もできていない。


 しかし、拒否することは遥香の選択肢になかった。


 遥香はおずおずと手を出した。

 雅明が優しく手を取って遥香をベッドの上に引き上げる。2人は向かい合わせで腰を降ろした。


「遥香、カチコチだ」


 雅明はからかう様に笑った。


「だって、こんなの、初めてだもの」


 どうしよう。こんな甘やかな視線、とても正面から受け止められない。


 春香は俯いたまま動くことができないでいた。


 すると、俯いたあごを人差し指で持ち上げられた。


「ほら、オレを見ろ」


「無理ぃ」


 至近距離に雅明の顔がある。見ちゃだめだ。見たらおかしくなってしまう。


 顔を上げさせられた遥香だが頑として視線を合わせないようにした。


 すると、雅明が声を出して笑いだした。


「笑わないでよっ」


 つい顔を見てしまった。

 今まで見たことのないほど至近距離にある雅明の顔に遥香は頬に熱が集まるのを感じる。


 雅明はあごに触れていた手で片方の耳にそっと触れてきて、そして、もう片方の耳に顔を近づけて囁いた。耳に熱い吐息がかかる。


「耳まで真っ赤だ。かわいい」


「やっ」


 首筋がぞくっとして、遥香は堪らず雅明の体を押しやる。遥香の目に涙が浮かんできた。


 そして、体を押したとき、雅明の素肌に触れたのを指先で感じ、さらにいたたまれなくなる。


「ねぇ、裸、恥ずかしいよ」


 目線をそらしたまま胸のあたりを指差す。


「その恥ずかしいことをリクエストしたのは遥香だけどな」


 雅明が意地の悪い返しをしてきて、遥香はたまらず、両手をグーにしてぽかぽか叩いた。


「いじわる!」


「ごめんごめん、って、叩くの止めろ」


 制止の声を上げられるが、そんなの聞いていられない。


 すると、強引に腕を掴まれ身動きがとれなくなった。そして顔が近づいてくる。


 キスされる。 


 遥香は目をぎゅっと閉じるしかできなかった。


 コツっと額と額がぶつけられる。


「……キスされると思った?」


 至近距離でささやくようにが尋ねられる。

 


 もう嫌だ。全然自分の思うように動けない。遥は羞恥で泣きそうだった。


「さて、今夜はここまで。遥香には刺激が強かったな」


 雅明は遥香の頭をくしゃっと撫でたあと、何もなかったかのように体を離し、ベッドの端に腰掛ける。

 

 遥香はその余裕な態度に急に腹が立ってきた。


「雅明兄ちゃん、なんでそんなに余裕なの。すっごい慣れてる。いつもこんなこと女の人にしてるの」


 こんなこと聞きたくないのに聞いてしまう。すると雅明が心外そうな顔をした。


「そんな人を遊び人みたいに言うな。これでも社会人だしそれなりに経験はある。けど、こんなこと好きな子にしかしないよ」


 遥香は動きを止める。今、何て言った。

 にわかに信じられない。


「……好きな子って、まだお芝居してる?」


「どうだろうね」


「雅明兄ちゃんずるい」 


 はぐらかす雅明の真意がわからず、たまらず遥香はベッドの脇に追いやられたペンギンのぬいぐるみに突っ伏した。


 すると、雅明が服を整えて帰り支度をしようとし始める気配がした。


「……帰っちゃうの」


 気配を察知して遥香がペンギンから少し顔を上げる。


「もう日付越えたしな。さっきの続きしたいって言うなら別だけど」


 雅明がイタズラっぽく笑う。


 さっきの続きってまたあんな恥ずかしい思いをするのか。遥香はまたペンギンに頭を埋める。


 頭をぽんぽんとあやすように叩かれた。


 まるで子ども扱い。そんなの嫌だ。春香は思わず雅明のシャツの端を握りしめた。


「いいよ」


「続き、いいから、まだ帰らないで」


 驚いて振り返る雅明に重ねて言う。


「私のこと少しでも好きなら、いいよ」


 本当は全然よくない。どうしたらよいかわからない。どうなってまうのかわからない。わからない自分が嫌だ。


 雅明のため息が聞こえる。


「いやいや、良くないだろ。ちょっと触れただけでも震えてるくせに」


 その諭すような口振りにまた頭に血が上った。


「なんでそうやって子ども扱いするの! こうでもしないと私、雅明兄ちゃんの横に立てない! 無理やりでもなんでも私を早く大人にしてよ!」


 自分が何を口走っているのかわからない。

 わかるのは雅明の側にいたい。誰にも取られたくないという気持ちだけだった。


 遥香の叫びに似た思いをじっと聞いていた雅明が遥香の顔を見た。


「そんなことしなくてもオレの横に立てる。遥香は自分のペースで大人になればいい。オレは今のちょっとしたことで恥ずかしがる遥香も好きだから」


「本当に?」


 思ってもみなかった言葉に泣き出してしまう。そっと、抱きしめられ額に口付けられた。


 遥香はふわふわと宙に浮いたような気持ちになる。



「これから少しずついろいろ教えてやるからな」


「うん」


 遥香はその言葉が嬉しくてきゅっと抱きついた。


 これが幼い頃から夢見た運命の恋なのかなんてわからない。まだまだ愛なんて知らない。


 けれど、これからはわからないことは全部雅明が教えてくれる。そう思うと、遥香の胸は暖かいもので満たされていった。

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