第十七話 最後の舞い

そのころすっかり元気になってきたお絹はもう、おかゆではなく、部屋に運ばれた普通の昼飯をお浪と二人で食べていた。

「ああ、おいしい。あれ、お浪さんだけ、なんで玄米食べてるんですか?」

 するとお浪はこれ見よがしに言った。

「あら、教えてなかったっけ、健康のためには一日一回は玄米がいいんですって。知らなかった?」

「そうなんだ?」

「あの人がね、私にだけ教えてくれたのよ。で、私も同じもの食べているのよ。うふふ」

「あの人って、まさか?」

「海堂さんに決まっているでしょ。二人で同じもの食べてるのよ。ほかにも精のつくものばかりね…きっと近いうちに役に立つわ。むふふ」

「ちょっと私にも玄米ごはん食べさせて! はやく健康になるんだから!」

 するとお浪は笑いながらたちあがった。

「はいはい、病人は柔らかいご飯が一番よ。今度出すから、今日は我慢してね」

「えーっ」

「あとで片づけに来るから、ゆっくりよく噛んで食べるのよ。じゃあね」

 お絹はしばらくするとまた寝息を立てていた。はっと気がつくと、もう御膳は片づけられていた。

「もう、お浪さんが片づけてくれたのかしら。でも、私もそろそろ元気になってきたんだから、ちょっとお仕事しちゃおうかしら?」

 お絹はそう言って、布団を出るとそっと気づかれないように海堂の部屋へと歩き出した。

「しばらくお世話してなかったから、お部屋平気かしらね。なんと言っても海堂様の身の回りの世話は、私じゃないとだめなのよね。でも、お浪さんも嫌味なくらい仕事ができるからねえ…」

 海堂の部屋に着くと、案の定、完璧に掃除がしてある。でも洗濯物はまだ取りこまれたままだ。

「これだから私じゃないとだめなのよね」

 お絹は洗濯物を心をこめてていねいにたたみながら、あることに気がついた。あの事件の日に持ってきた猫屋敷の花菖蒲が、ちゃんと生けられて、大事に飾られている。しかもあの時、男に倒されて折れかけていた一本の花もげんきに輝いていた。

「海堂様がきちんと世話してくれたんだわ…。お絹がんばっちゃおう」

 だが、着物の折りたたみをしているうちにお絹はまた眠たくなってきた。どうしたのだろう。

 はっとしてまた気がつくと、海堂の部屋の中に光の渦が渦巻いている。

「なんだこれ…夢なのかしら…」

 そしてどこからか優しい呼び声が聞こえる。ふとそちらの方向に向かって戸を開く戸、そこは白い霧の中に、どこまでも続く階段があった。

「私を呼んでいる…あの声はまさか」

 階段を進んで行くと、そこは霧に囲まれた荘厳な神社であった。

「ここはいったい…?」

 遠くでかすかに鈴の音が響く。水晶のように透き通ったせせらぎを横に見ながら大きな鳥居をくぐり、霧の流れる石畳の道を行く。森の息吹を感じながら、ご親睦の脇を抜ける。すると、霧の流れる大きなお社の前に、一人の巫女がお絹を待っていた。美しい女の人だったが、お絹にはすぐ分かった。あの聖なる鈴の音が霧の中にこだまする。

「おばあちゃん、会いたかった、とっても、ずっと会いたかった」

 それは若くなっていたけれど、何年も前に死んだはずのやさしいおばあちゃんだった。巫女のおばあちゃんはお絹をギュッと抱きしめてくれた。

「こんな小さな体で、毎日毎日、つらくてもよくがんばったねえ。人のためにも役立って、ばあちゃんはみんな見てたよ。本当に偉かったねえ」

「…おばあちゃん」

「今日はお前に見せたいものがあってね」

 おばあちゃんがそういうと荘厳なお社はすっと消え去り、二人は霧の中に立っていた。

「あちらをご覧。われわれの祖先は寒い氷河期と呼ばれる時代にこの国にやってきた…」

 すると遠い霧の中に槍を持ってゾウを追いかける先祖たちの姿が見えた。それからあちこちにいろいろな時代が映し出されていく。

「でも、それから温かな時代が訪れ、海が奥地まで入り込む新しい時代がやってきた。われわれは早くから土器を発明し、大きなお社を建て、村を作り、季節によって狩り場を変えるやり方で、山に、川に海に進出し、広く大陸や北方の島々と交易を行い、大いに栄えた。星や、水、森や、山、すべてが神とあがめられ、その繁栄は一万年続いた。途中で大陸からコメが伝わっても土地に縛られることを嫌い、生活を変えることはせず、大陸の民や北からやってきたアイヌ族とも仲良く暮らしてきた。この島国にはその昔、我々の大きな都が三か所もあった。江戸は実はそのうちの一つだったのだよ…」

 霧の中にいろいろな映像が、見えてくる昔の豊かな江戸の様子も…。

「しかし、一万年たって、また寒い時代がやってきた。獲物が減り、我々は散り散りになり力を弱めた。同じころやはり寒さと食料不足から、大陸の民が大挙してこの島国に渡ってきた。彼らの中で力の強かったものが現在の朝廷となり、それから悲劇が始まる。米作を行う彼らにとって大事なのは、土地の支配と水の支配、移動の支配であった。我々は追われ、征服され、そして苦しい暮らしの中河原者として生きている…。平将門など、われらの復権を試みた者もいたが、それも夢と散り、今、江戸の地下では、その怒りの波動が渦巻いておる」

 それはお絹にも痛いほどに伝わってきた。霧の一番深いところで、地下の霊がおどろおどろしく渦を巻いている。このままではいつか、恐ろしいことが起こると…。

「でも、希望もあるのです。それはお絹、お前にも手伝ってもらわなくてはならない…」

 すると、今度は近い霧の中に輝く星           

が現れ、それが近づき、何か風景が見えてきた。思わず覗き込むお絹。

「こ、これは?!」


 さて、辻相撲も、いよいよ午後のくじ引き戦だ。第二回の抽選が行われる。六組あった本戦の組から、この試合の結果で二組が脱落する。ドキドキのくじ引きだ。観客の視線が集中する。付き添いが出て、いよいよ午後の組み合わせの発表だ。

くじ引き戦二回戦

 八角、車組

 北辰、清滝

 黒鉄、一の槍

「八角と車組? おお、本物の相撲が今日も見られるぜ」

「あの瞬殺の天の助が清滝に通用するかねえ」

「ええ? もしかして、あの獅子口と八郎の戦いが見られるかもな、こりゃあ、すごいことになってきたぞ」

 盛り上がる観客、賭け金もすごいことになってきた。ただ組の勝ち負けを決める賭けもあるが、三対0で勝つのか二対一で勝つのか、そこまで当てる賭けもあり、大金を狙った勝負師が目の色を変えている。午前中も波乱の展開があったが、午後も全くわからない。

 まずは予想外に一敗してしまった組同士、どちらも続けて負ければ脱落は決まっている。車組は前回の優勝の組、いくら花車の怪我があっても人気は根強い。片や清滝をなめてかかって負けはしたが、八角部屋は京都から来た日本一の組だ。しかも雷慶はまだ無傷のまま、しかも両組とも気迫は申し分ない。そしていよいよ第一試合が始まった。

 まずは、業師波車とあの精悍な鷹王だ。

 立ち合いから激突し、回しの取り合いをする両者。どちらも筋肉質の業師だが、色白の波車と日焼けした鷹王は対照的だ。技も切れ目なく投げ技をつないでいく波車に比べ、鷹王は足かけ、首投げと、力技を織り込んでくる。どちらも譲らぬ勝負だったが、一瞬のひざの内側から片足をとる内無双で、鷹王が制した。二戦目は怪力同士、荒っぽい力技を身上とする嵐車、対するはあの岩のような体と獏のような顔、がぶりよりの獏力だ。立ち合いから、すごい勢いで嵐車の思い張り手が撃ちこまれるが、いったい獏力に効いているのかは、あの顔からはよくわからない。嵐車の上手投げをなんとかしのぐと、回しを切って獏力の反撃だ。

「ふはー」

 変な音を出しながら、もろ差しからのがぶり寄りを狙う獏力、そうはさせじと踏ん張る嵐車。見ているだけで力が入る!

「ふーはー!」

 獏力の体が紅潮し、一段と大きな音が聞こえた時、獏力は嵐車の怪力をうまく封じて、再度もろ差しからのがぶり寄りで押し切ったのだった。見事な力相撲であった。

 そしていよいよ大将戦だ。花車は怪我をして散々だったが、むしろ憧れの兄弟子との戦いを喜ぶように、晴々した顔で雷慶の前にやってきた。

 今日の午前中は八郎に怪我をしている腕を責められ、いいところなく終わった花車。雷慶はさすがに怪我を責めることは一切ない。強烈な花車のあたりをやんわりと受け止めると、回しの取り合い、投げの打ち合い、瞬発力、切れのある花車の技がその都度柔らかな雷慶の足腰に吸収されていくような、うまさのある攻防だ。長い相撲になってきたが、最後は一瞬の呼吸を読んで相手の両腕を抱えて、斜め後ろに投げだす、豪快な雷慶の網打ちが決まった!

 倒れた花車を優しく起こす雷慶。拍手の波が湧きあがった。三対〇で二敗目を喫した車組はこれで脱落確定だ。だが、精いっぱい力を出し尽くした車組に大きな拍手が惜しみなく送られたのだった。

 いよいよ北辰対清滝だが、三人の修験僧はなぜか困惑気味であった。

 羅刹が口火を切った。

「この間の玄武は、暗殺を行う闇の気を運ぶものたちであった。そして八角部屋は純粋に相撲を極めたいという志の高いものたちだった。だからわれわれにも戦いやすかった。だが…」

 阿修羅も続けた。

「そうなのだ、今日の北辰の者たちにはどう戦っていけばよいのかが分からない、読めないのだ。敵か味方か、善か悪か、わからないのだ。そうだろう? 羅刹よ」

「彼らには純粋な波動、血の通った温かな心を感じる、だがその純粋さの中に荒らぶる魂が秘められている。しかも天の助だけかと思っていたら、菊丸にも、黒獅子にも我々と異なる荒らぶる魂が隠れている」

 すると駿空が言った。

「私が彼らを感じて思い出したのは、京都の龍安寺の庭だ。我々はあの庭を見て心が洗われる。あの庭には、自然の二つの本質が同時に存在する。水はいつも同じように流れながらいつも違う。静と動が、穏やかさと険しさが、豊かさと厳しさが同時にある。彼らはそんな二つの顔を持っているのではないか? そしてそれを思い出してから分かったのだが、あの在るがままの自然の本質を表した庭を作ったのも北辰の力士たちも同じだ。あの庭は河原者の一族によって造られていたのだ」

「つまり我々は豊かさも厳しさも併せ持つ自然そのものに相対するつもりで戦えばいいのか?」

 駿空は、こう続けた。

「彼らは善か悪か、味方か敵か、そんなものでは測れない。戦いの中で見つけるしかない。すべてをかけて戦うのみ!」

 すると阿修羅も言った。

「承知した。答えは戦いの中に在る。全霊を込めて戦うのみ!」

 そして、三人の修験僧は、高らかにホラ貝を吹き、真言を唱えながら歩き始めたのだった。駿空を始め、強い清滝にも絶大な人気が集まり、声援もすごいことになっている。

 そしていよいよ北辰の入場だ。観客が騒ぎ出す。なんと今日は若衆歌舞伎から三味線隊を二人ひきつれての菊丸の登場だ。あとから天の助と黒獅子の二人の人気力士がやってくるが、みんなは負けるほどに強くなっていく菊丸にぞっこんだった。三味線の音に合わせて、今日は抜けるような青い衣を風になびかせ、たおやかに入場だ。そしていつもの男への早変わり、そのさらしを巻いた肉体美にもため息が漏れる。そして第一試合、相手は俄然人気の高まってきた男前の若い修験僧、駿空だ。声援がすごい。まさしく東西二枚看板対決だ。

 立ち合いから、菊丸はがんがん蹴りや突きで攻めて行く、戦うほどに強くなるのは、戦いによって菊丸の体の中にある何かが目を覚ましたためだろうか?

「神眼力」

 精神を集中した駿空の目には、この素早い攻撃がゆっくりと見えているのだろう。そのほとんどを受け流した駿空は、今日は珍しく相手をつかみに出る。

「明王力」

 突然百の力を百引き出せる駿空の力が爆発、菊丸の体は宙に舞った。

「おおおっ!」

 観客がどよめく、なんと菊丸は空中でさっと体をひねると、そのままうまく着地し、駿空に必殺の蹴りを放ったのだ。ほぼ顔面に直撃かと思われたが、駿空はかするほどの近さでそれを交わしたではないか!

「おお!」

「やはり、神通力だ!」

 しかもその菊丸の足をしっかりつかんで、菊丸を倒しにかかったのだ。

「菊丸様―!」

「駿空―、そこだ!」

 もがく菊丸、二人はもつれるように同時に倒れ込んだ。気がついて見れば、二人は抱き合うような形で地面に倒れていた。二人はちょっと照れたような表情で、お互いを気遣いながら起きあがった。惜しかった。菊丸はぎりぎりでまた勝ちを逃した。だが、この試合をきっかけに、菊丸の中に在った荒らぶる何かが確かに目覚めたようであった。

 そしていよいよここまでのすべての試合を瞬殺で勝利してきた天の助と、不動の術や岩気功の術で相手の攻撃を受け付けず、強烈な投げで相手をたたきつける羅刹の戦いだ。今日もまたすごい眼力でにらむ天の助を、羅刹がやりかえした。

「山にこもり、千日の荒行の末手に入れた神通力でお前を倒す」

 すると天の助は笑ってかえした。

「山の中に千日? こちとらは、生まれてからずっと山の中だぜ…」

 二人とも大きく、力がみなぎり、今日は絶好調だ。いよいよ立ち合い、さっと飛び出し、あの強力な当て身を打ち込む天の助。

「岩気功の術」

当て身と岩気功! どちらが勝ったのか? 互角のようだ。

「不動の術」

 羅刹はいつもは心の中で念じている言葉を、今日は天の助に叫んだ。

「われは、岩、われは樹木、われは大地、すべてが支えあう、無の境地に在り…」

 多くの敵は無理やり力で持ち上げようとしたり、技をかけようとして失敗してきた。だが、天の助はどう立ち向かうのか。

「ならば、おれは山だ、山が動けばすべてが動く」

 なんと天の助は、素早く羅刹の懐に飛び込むと、脇の下と片足を持ちあげるようにして力を入れたのだ。

「おおおおっ!」

 そして、あの羅刹の巨体を軽々と担ぎあげ、気合いとともに地面に叩きつけたのだ。

「…!」

 目を見張る観客。いったい何がどうなったのか。なぜ不動の術は敗れ去ったのか? …その刹那、羅刹は今までにない不思議な感覚を味わっていた。

「地面が、山が動いて、大木が自然に倒されたような気持ちだ」

 またもや天の助は瞬殺勝利だ。さらにこの戦いで、彼が自然とともにあることを、あらためて思い知らされたのだった。

 一刀斎がつぶやいた。

「まったく力の入っていない者の手足を引っ張っても、体全体はなかなか動かない。羅刹はもともとがあのがっしりした重い体じゃ、さらに無の境地で力の抜けた自然体を作り出していた。だから誰にも動かせなかった。ところが天の助は、獲物の熊や鹿を担ぎあげるように、腰で重心をとって、いとも簡単にそれをやってのけた、とんでもないやつだ」

 そして一対一の大将戦だ。黒獅子は、自分が覆面をずらされたとはいえ、獅子口に負けたのをすまないと感じていた。そして今度こそ負けは許されないと自分を追い詰めていた。

「…サンタ・マリア…」

 黒獅子は、首元に隠された小さな十字架を握りしめ、最後祈りを込めた。

「…すべては神のみ心のままに…」

 黒獅子のキリシタン大名に売られた故郷の村も、山の民の流れをくむものであったことを彼はまだ知らない。だからこそ異国に売られたことを…。

「アーメン…」

 黒獅子は飛び出して言った、阿修羅のもとへと。

 そこは壮絶な、延々と続く、撃ち合いの世界だった。気功段を使ってガンガン攻める阿修羅、中国武術の力で、多彩な技で受け止め、攻め返す黒獅子、中国武術の中にも気を扱う術はあったので、いくらかの防御はできたのだ。観客はこんなに激しい、こんなに長い打ち合いを見たことがなかった。まさしく阿修羅と獅子の戦いであった。

 仲間のためなら荒ぶる獅子にもなれる、それが黒獅子だった。だが阿修羅も勝負に出た。

「気功崩し!」

 駿空が一刀斎に使った技の強力版だ。気の流れを一瞬操作し、相手の重心を崩す、しかもそこに明王力の突きを重ねて行くのだ。

「うぐっ!」

 頭がふらついた瞬間突きが入ってくる。もう駄目だと思った黒獅子だったが、彼の中で、その時何かが目覚めた。

「うおおおお!」

 獅子は、その野生の力で谷底から這い上がったのだ。

 黒獅子は深く身を沈めるようにして突きをかわし、そのまま最後は宿敵の弁天丸を想わす、逆転の足払いで、阿修羅を転がしたのだった。

「アーメン」

 黒獅子はそう、心で念じながら戦場を後にした。

 どういうことなのか? 北辰の三人は、清滝と戦う中で何かを目覚めさせ、一回り強くなったように見えた。

 そのあとの一の槍と黒鉄の一戦はまた壮絶だった。

 第一試合、なんと怪士の相手に突然大将格の辰の進が躍り出たのだ。強力な突きを持つ怪士を、辰之進の突進力で封じようというわけだ。さすがの大将の出現に怪士は面を外した。少し青白い、鋭い眼光の男だった。

「はっけよい、のこった」

 また、ものすごい勢いで飛びついて行く辰之進、だが怪士は腰を低くして重心を落とし、迎え撃った。

「三点抜き!」

 辰之進が飛びかかるのと同時に、怪士の手刀によって、首元と両胸の三点の急所が撃ち抜かれた。思わぬ激痛で、勢いを殺された辰の進、怪士は、手刀を辰之進に見せてこう言っているようだった。

「お前が押し倒しをかければ、また三点抜きをお見舞いするぜ」

 だが、そんな脅しをされて、ますます燃えるのが辰之進だった。

「上等だぜ。急所などくれてやる!」

 そして間髪いれず、辰之進が放ったのはまったく同じ、あの豪快な飛びつきの押し倒しだった。

「馬鹿が、三点抜きだ!」

 だが、今度は殺気以上の手刀が当たっても、辰の進はひるまなかった。そして津波のように押し寄せ、怪士を巻き込み、流し去った。大将の男の意地が、怪士の罠をぶち抜いたのであった。

「辰之進!」

 これで一勝。大将は、作戦通りきっちりと貴重な勝利をもぎ取った。第二試合の古村兵庫は、あの翁と対戦だ。だが、その翁は、前の天の助戦で面を外したが今度は笑う翁の面に、変えて出てきたのだった。小馬鹿にされたようで怒る古村兵庫。

「お前ごときに我に死角なし、どこからでも来い」

 だがこれは、鎧をつけているため、短期戦で勝負を有利に進めようとする翁の罠だったのだ。戦いを長引かせようと考えていた古村兵庫もさすがに向かって行った。今、辰之進が行ったと同じ、低い位置からの飛びつき押し倒しだ。だが笑う翁はそれをひねりながら持ち上げて投げ飛ばしたのだ。しかもわざと一度は足から着地させ、もう一度襲いかかってきたところをぎりぎりでかわしながら、もう一度大きく投げ捨てたではないか。そして勝ち名乗りを受けると、笑う翁は面を取り、客席の天外流宗家水村一刀斎を見つけ、自分はまだまだ上に行ってやるとでも言うかのように睨んでから退場していったのだ。

 そして最後は、黒の飾り鎧をまとった大柄の獅子口、そして相手はさらに大きなあの八郎だ。

「おお!」

 獅子口は面を変えてきた。顔にもっとぴったりはまる、実戦的な黒い鬼武者の面であった。技を覚え、実戦を積んできた八郎も負けてはいない、なんとあの巨大な拳を握ると、今まで見せたことのない正拳突きの型をやって見せたのだ。一体どんな試合になるのだろう、観客席は興奮のるつぼだ。

 立ち合いとともに、まずはお互いのその長い手足で殴り合い蹴りあいだ。巨大な拳と足が何度も交差する。飾り鎧をつけている鬼武者が有利そうだが、あの八郎の脳天を狙った手刀が命中すると、わからなくなってくる。たぶん背の高い鬼武者は、頭の上から攻撃されたことは今までなかったに違いない。

「だぁー!」

 今度は鬼武者の型からのものすごい体当たりだ。だが、八郎はその突撃を互角に受け止めると、今度はひじ打ちからひざ蹴りで反撃だ。巨体のぶつかる音、肉体のきしむ音が響いてくる。

「グオッ!」

 苦しむ鬼武者は伝家の宝刀ですぐに逆転だ。あの頭蓋骨を握りつぶす、握力攻撃に出たのだ。だが、八郎は頭も大きく、きまりきらない。苦し紛れに脳天への手刀攻撃でお返しだ。二人は右に左にもつれながら動き回り、前列の観客の悲鳴を呼ぶ。こんな大きいものが倒れてきたら命にかかわるからだ。大地を揺るがし、悲鳴を呼びながら暴走する二つの巨体、だがここで技に勝る鬼武者が勝負に出る。並ぶように足をからめて横に立ち、首をぐいっと引っ張って自分も後ろに倒れながら相手を倒す河津掛けだ。二つの巨体が土砂崩れのように同時に観客席へと倒れ込む。

「キャー!」

 逃げまどう人々、その混乱の中にほぼ同体で倒れ込む二つの怪物。さあ、勝敗はどちらに?行司は同体で引き分けとし、取り直しも無理だと終了させた。

 その結果、黒鉄と一の槍は一勝一分けで、二組とも勝ち上がり決定。それに続くは一勝一敗ながら、勝ち人数四の八角部屋が勝ち抜け、北辰と清滝はともに一勝一敗、勝ち人数三で並んだが、北辰が清滝に勝っているので、勝ち上がりは北辰となった。名勝負を繰り広げながらも車組は二敗で、清滝と二組、脱落となったのだった。


 海堂は間に合わなかった。弟の黒鉄が勝ち上がったので、一刀斎は、また明日きますと猫面の紫門に言葉を残して帰って行った。北辰の三人が帰る用意をしていると、駿空たち三人の修験僧が真言を唱えながらすぐ前を通り過ぎて行った。同じ戦績ながら、こちらがかちあがることになり、少し気になっていた。するとその心の声が聞こえたのか、三人はすっと立ち止り、駿空がこちらに進み出て言った。

「あなた方三人の中にある荒ぶる魂、自然の強さ、野生の力を、戦いを通してこの身に刻みこみました。まだまだ地霊の怒りは鎮まらず、江戸の危機は過ぎ去りませぬ。あなた方がそちら側にいるならば、奇跡は起こるかもしれない…。勝ち上がってください」

 すると大将の黒獅子が進み出ていみじくも言った。

「なぜかは分かりませぬ。でも、純粋な気持ちであなた方が勝負をしてくれたおかげです。そこまで荒行を積んだあなたたちが、何かを思い出させてくれた。どうもありがとうございました」

「…どういうことですか?」

 駿空が訊き返す。

「人はなぜ戦うのか。答えはいくつもあるでしょう。でも我々三人は、清滝の方たちと戦って本来の何かに目覚めたような気がします。実感として、一回り強くなれたような気がするのです。」

 そう言って黒獅子は深く頭を下げたのだった。すると駿空はとても驚いた顔をした。

「まさか…そういうことだったのですね。あなたたちと心おきなく戦えて、本当によかった。全力で戦ったかいがありました。では、ごきげんよう」

 そして三人はお辞儀をして去っていったのだった。


「さて、そろそろ答えをいただくかな…」

 森村白堂が優しく囁いた。お浜は森村をまっすぐに見つめて言った。

「最後に、この舞台で踊らせてください。手間は取らせません」

「ほう、どういうつもりだ…いいだろう。その代わりちょっと待ちな」

 白堂は、見張りにつけていた何人かの若い男に声をかけ、三味線を取りに行かせ、自らは客席に腰掛けた。一番いい席である。

「それから、お前は灯り取りの窓を開けろ、お前は幕引きだ、お浜、悪いな。三味線弾けるのがおれしかいないから、ここで弾かせてもらうよ」

 お浜は扇を取り出し、舞台の上に上がったのだった。だがその時、外から別の男が駆け込んできた。

「白堂様、白堂様、今日の辻相撲が終わりました。結果が出ました」

「そうか、それで勝ち上がったのはどこだ」

「やりましたよ、一の槍、黒鉄、北辰と八角部屋です」

「そうか、辰之進は言葉通り勝ち上がったか。そして黒鉄だ。あそこはもともと江戸の騎馬が送り込んだ刺客だったが、倍の金を積んでこちらに寝返らせたのさ。高くついたが、勝ち抜けたってことは、賭けでも大儲けだ。こりゃあかなりのお釣りがくるな。ははは、興業をやるときには、上位の組がごっそりついてくるぞ」

 白堂館の舞台の用意も整ったようだった。一度幕が閉じて、白堂が三味線を弾き出す。玄人はだしの腕前だ。そして幕がさっと開いて行く。舞台の中央には輝くようなお浜がいた。お浜は踊る前に突然しゃべりだした。

「一座を任すという白堂様の頼みのお答えです。私は…」

 三味線の流れる中、お浜はしばし沈黙した。

「きっぱりお断りします」

「なに?」

「お気に召さないなら、命を差し上げます。この舞が終わったら好きにしてください」

 白堂は一度三味線を止めた。そして懐からもう一丁の拳銃を取り出した。

「…分かった。理由だけ聞いておこう」

「…今朝、瑠璃宮で素晴らしい朝ごはんが出ました。私たち河原者には夢のようなものでした。特に炊きたてのご飯が山盛りになっていた。私は一口食べてやめました。私たちは豊かなものを求めていました、しかしその一方でさらに険しい山道へも登っていきたい、自由に好きな山をかけたい。豊かさに埋もれたら、もう、そこで終わりなのです」

「…」

「私は…何ものにも縛られず、何ものにも溺れず、ただあるがままに山道を行くだけ…!」

 白堂はお浜の言葉には答えず、無心に、静かな曲をつま弾き始めた。お浜は広い舞台をいっぱいに使って、かわいらしい踊りを、そして歌舞伎踊りを、そして、狂言の牛若丸などを見事に舞い踊ったのだ。

「なんと深い、いくつもの顔をもつ舞いであろうか…」

 白堂はそのお浜の舞にすっかり魅入られていた。

 お浜の中にも荒らぶる魂があり、それはお浜の舞いの中に息づいていた。そこには、やはり、豊かさと厳しさ、穏やかさと激しさ、力強さと繊細さなどの場合によっては想反するいくつもの顔が、多様な要素が混然一体となって在った。そのものを生のまま再現するのではなく、踊りや型、様式の中に込めることにより、いくつもの思いを重ねて同時に表現していく、それがお浜の舞であった。


 時空はそこでつながっていた。霧の中に見えた輝くものは二つあり、そのうちの一つがお絹の目の前に迫ってきた。

「…お浜おねえさん…きれい、とっても素晴らしい舞だわ」

 するとおばあちゃんの声が響いてくる。

「われわれは征服された。追い詰められ、虐殺され、こき使われ、利用され、今、また虐げられている。だが、われわれの星、森や木、泉や川、山などの自然への信仰は寺社の信仰と溶け合い、今も神社の御親睦や御神体として山や岩、泉や流れとなって残っている。自然はおだやかさと厳しさなど相反するいくつもの顔を同時に持ち、互いに支え合いながらそこに在る。その魂は有名な庭園として各地に作られ、いろいろな芸術を刺激し、茶の湯の美意識と響き合った…。そして、河原者が行ってきた芸能は、能・狂言、人形浄瑠璃などを生み出し、今新しい歌舞伎というものが我々の一族の一人によって生み出されつつある。時代が下れば我々の一族の能役者の中からも浮世絵の作者も出てくる。」

「それは…どういうことなの? おばあちゃん…」

「数百年ののち、自然とともにある我々の生み出した文化は、この島国を代表する者となるだろう。多様な顔を持つ自然、一万年の都で育まれた文化は、簡単に流れて消えるものではない。われわれは征服されたが、その魂は生き残り、枯れ果てるどころか輝いて行くだろう」

 お絹のすぐ目の前では、お浜がもうすぐ踊りを終わらせるところだった。だがその心に秘めた思いがお絹にはわかるのだ。

「お願い、お浜姉さん、死ぬなんて思っちゃだめ。あなたは生き残り、私たちの思いを遂げなければならない…。もう一つの星も頑張っているのだから…」

 その刹那、舞台の上で舞っているはずのお浜は輝く霧の中にいた。夢幻か…? 生き抜くのよとやさしい声が聞こえる。さらに近くの霧の中に輝く青い星があり、一人の男が吹き寄せる嵐の中、もう一つの神の舞を舞っていた。だが稲妻がとどろき、何万の軍勢のような風が押し寄せる。お浜は、魂の叫びを上げた。

「立ち向かうのよ! 何ものにも縛られず、何ものにも溺れず、ただあるがままに嵐を突き抜けるのよ!」

 その途端、霧は消え、お浜は舞台に立っていた。


 そしてお浜は舞いを終わって三味線がやむと、客席に向き直った。だが心にやはり生き抜くのだという思いが不思議に湧き上がり、しばし沈黙した。

「どうしたお浜…考え直したか…?」

 しばしの沈黙…。しかしお浜はやはり決意を口にした。

「いいえ。…一度ここで幕が閉じ、もう一度開きましても、私はここにいます。そうしたら好きにしてくださいませ」

 そうして深くお辞儀をした。幕がゆっくり閉まり始めた。白堂は拳銃をじっと見つめた。

「自ら死を選ぶとは、惜しい女だ」

 やがて少しして、幕がゆっくり開き始める。拳銃を片手に持って白堂は動かずそれを待っていた。

 だが幕が開いた時、大きな影がお浜と白堂の間に飛び込んできたのだ。

「な、なに?」

「お浜は死なせぬ! 撃つならおれを撃て!」

 それはやっとの思いで駆け付けた海堂だった。

「くそ! どけ、撃つぞ」

 白堂は海堂めがけて銃を構えた。だが、それを見ても海堂は微動だにしない…引き金は弾かれた。

 カチッ…。

 なぜか拳銃は発射されなかった。白堂はその直後、七五郎によって抑え込まれた。

「…よかった。海堂様、なぜか拳銃の弾が抜かれていました。命拾いしましたね」

 すると白堂がつぶやいた。

「拳銃の弾は幕の閉まっているわずかな間に私が抜いた。お浜の舞は素晴らしかった。私にはやはり、お浜を殺すことはできない…だから」

 海堂は助けたクレナイとオフジに聞いて、お浜が連れて行かれた場所を探していた。お浜が一座をやりたくなる場所に連れて行かれたと聞き、そしてここしかないということになり、ぎりぎりで間に合ったのだった。

 そこにクレナイたちが飛び込んできた。舞台を降りて、駆け出すお浜。

「お浜ねえさん、よかった、死なないでいてくれて!」

「クレナイ、オフジ、あなたたちも無事だったのね」

 堅く抱き合う三人。白堂は三人のかどわかしの罪で、奉行所に送られていった。

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