第十六話 銀シャリ

 その日の朝、お浜は料理人が船で運んできた贅沢な朝食を一人で食べた。ふっくら炊きたての銀シャリが鮮やかな陶器にふわっと目の前でよそられた。あとはなめ子のみそ汁、根菜の煮もの、香のものに上品な魚料理だった。でもなぜかお浜はつやつやほかほかの銀シャリには一口手をつけただけでそれ以上は食べようとしなかった。なぜか自分でもよくわからなかったが、あとはおかずだけを食べて朝ごはんにした。

朝の光の中でもう一度あたりを見ると、水晶やサンゴ、真珠や瑠璃などが、置物や壁飾り、工芸品などの形で部屋のあちこちにちりばめてある。白堂の趣味か? なかなかおしゃれではある。少しすると若い男を連れて、白堂が船で迎えに来る。お浜は船に乗り、一言も口をきかずに船に揺れる。ふと思って振り返ると朝日の中に西洋風の小さな建物があった。これが瑠璃級なんだ。その昔ポルトガルの宣教師が建築した小さな礼拝堂を江戸に移築し、日本風に外壁などをつくりかえたものだという。

「さあ、こちらが星蓮荘だ。お友達はいるかな」

 美しい庭園の中の石畳の道を歩いてゆく。すぐ横には大きな川があり、船着き場には船もつないである。ここから海にも出られるのだという。しかし、船着き場にも出入り口にも浪人が見張りしていて、簡単には逃げられそうにもない。

「クレナイたちは元気なの? なにかあったら私も生きてはいないでしょう」

「まあ、もう少し頭を冷やしておくれよ。分かった分かった、今二人の元気な姿を見せてあげるからさ」

 白堂は若い男に何か声をかけて先に行かせた。そして二人は落ち着いたたたずまいの星蓮荘に入って行った。

 ここが、高級料亭、自慢の星蓮荘さ。どうぞ、いらっしゃいませ。

格式ある御影石造りの玄関、飾り窓のある風流な廊下にはあちこちに花が生けてある。そして案内されたのは、畳が敷き詰められた大広間だった。すると広間の奥に、クレナイとオフジが連れてこられた。お浜と違って手を縛られている。

「クレナイ!オフジ!」

「お浜ねえさん! その男は約束なんか守らないに決まってる。けっして言うことを聞いちゃだめ」

「私たちは自分たちでどうにかするから、心配しないで!」

 クレナイとオフジの二人は後ろ手に縛られたまま叫んだ。二人を押さえていた取り巻きの男が言った。

「白堂様、言うこと聞かないのならさっさと始末しちまいましょう。河原者なんか殺しても、どうにでもなりますよ」

 すると白堂はさわやかに言った。

「こらこら失礼だぞ。これから一座をひっぱってもらうかもしれないお嬢さんたちだ。これ以上へそを曲げられたら、こっちが困るのさ」

そして白堂は、瑠璃宮から連れてきたお浜に向かって言った。

「ほら、お浜殿の言うとおり、合わせてあげたじゃないか。そろそろ首を縦に振ってくれよ。わたしはお浜殿に一座を引き受けてもらいたいだけなのだよ」

「この二人を開放して、すぐ元の場所に戻して」

「物事には順番があるだろう。すべてが済んだらもちろん、そうなるさ」

「かけひきの道具に人間を使うなんて最低だわ。きっぱりお断りします」

「おれは気の強い女は嫌いじゃない。でも気も短い方でね。おい、早駕籠を手配しろ、すぐだ。お浜だけここから連れて行く」

「そんな、お浜姉さんをどこに連れて行くの?」

「おれはねえ、お浜に一座を任せたいのだよ。お浜がその気になる場所に連れて行くだけさ。一座をやりたくなる場所にね」

「その気になる場所?」

 白堂はそれには答えず、懐から何かを取りだすと、それを若い男に渡した。

「短筒?」

 お浜の顔色が変わった。それはどこで手に入れたのか本物の拳銃であった。

「おい、木村、そういうわけで俺はちょっと出かけてくる。これを使っていいから、留守をしっかり守ってくれよ」

「いいんですかい?」

「おれは二丁持っているから、構わないって。その代わりしっかり頼むよ」

「へへ、お任せください」

 唖然とするクレナイたちに白堂は告げた。

「心配するな。お浜は早ければ夕方にもここに帰ってくる。そしたらみんなで一緒にこの星蓮荘のうまい夕食でも取ろうじゃないか…」

 そしてお浜を無理やり外に出す。

「ただし、お浜やお前たちが…生きていればね…」

 そして白堂はお浜と一緒に早駕籠でどこかに消えて言ったのだった。


 その日海堂のいない辻相撲は波乱の幕を開けていた。本戦「天」のくじ引きが行われ、本戦の一回戦と二回戦の相手が決められる。このくじ引き戦の上位四組が準決勝に進み、そのあと決勝が行われる。

「おおー!」

 観客がどよめいた。「天」のくじ引き戦の組み合わせが出たのだ。

くじ引き戦1回戦

 一の槍、車組。

 清滝、八角部屋。

 黒鉄、北辰

「おい、はなから一の槍と車組だぜ。前回の決勝戦の組み合わせだ。すげえぞ」

「いやあ、それよりも、次の試合だ。日本一の組と、あの修験僧の組だ。予想がつかねえぞ」

「ついに黒鉄、あの能面をかぶった三人組の登場だぜ。あいつら予選で一度も負けてないし、面も取っていないんだ。北辰も今度こそだめかもなあ。二人以上勝たねえとだめってことは…?」

 今日は賭けも大荒れで、会場も熱い。この組み合わせで午前を戦い、午後は「天」のくじ引き戦の二回戦だ。

 猫面の紫門と天外流宗家の水村一刀斎が並び、試合を見ていた。

「今日は、海堂殿は…」

「大事な仕事で出ています。夕刻に間に合えば…顔を見せるかもしれませぬ」

「ふうむ。間に合えば良いが。今日の試合は荒れそうじゃぞ」

 その言葉の通り、名勝負、意外な勝負の目白押しとなった。

 第一試合の一の槍と車組、どちらも優勝候補だ。第一試合は、古村兵庫と、波車の業師対決、投げの打ち合いのめまぐるしい勝負であった。最後は腰のあたりの回しを持ちあげながらひねる見事な播磨投げで波車が制した。だが第二試合、怪力の嵐車の相手はなんと辰之進ではないか、今日、絶好調の辰之進はあの豪快な飛びつき押し倒しで、嵐車は一発で押し込まれた。怪力で押し返すも辰之真の勢いは止まらず、嵐車は、綱の外へと波に飲み込まれるように押し出されて、陥落。

 そして、花車の登場だ。ひどい怪我ながらも気迫で登場、だが相手は本戦初登場のあの巨人八郎だった。立ち合いで、八郎はあの長い腕を伸ばし、花車の腕をつかみギュッとひねり上げる、怪我が治りきっていない花車の表情は苦痛にゆがみ、完全に調子を狂わされてしまう。それからは、いくら大怪我をしているとはいえ、あの花車を子ども扱い、花車の突進を巨大な張り手で押し戻し、投げを打とうとすれば、手刀で脳天砕きからひざ蹴りでふらつかせ、辰之進に鍛えられたのか、小技も増えて、もう手のつけようがない。最後はあの重い花車にその巨体でのしかかるようにサバ折りを掛け、上から顎でぐいぐい押しながら腰をしめて、ひざをつかせてしまったのだ! 八郎大暴れ、一の槍の狙い通りの勝利であった。

 驚いたのは次の試合だ。神通力など信じない、いつもどおりに戦うだけだと豪語していた八角部屋に波乱が起きた。

 駿空は休み部屋の力士を見てこう言った。

「彼らは純粋に相撲道を極めようとするものたちだ。この者たちが力を持てば辻相撲は良い方向に向かうに違いない。だが…」

 羅刹が言った。

「だがここで勝ちを譲るわけにはいかない」

 阿修羅も続けた。

「勝ちあがらせてはならない組が、我々が止めなければならない組がまだまだある…」

 清滝の三人は次の試練だと自らに言い聞かせ、真剣な表情で入場していったのだ。一方の八角部屋は、どんな相手だろうといつもの相撲を取るだけだと、とくに対策もなく入場し、不覚をとることになった。

 あの筋肉質の鷹王は駿空を甘く見ていたのか、その明王力に投げられ、あの人気力士、怪力の獏力も羅刹の不動の術前に力が発揮できぬまま、因果応報投げで、投げ合いの勝負に負けた。

 そして阿修羅と雷慶の一戦が壮絶であった。阿修羅の気功弾を何発も受け、明王力のさば折りで腰を締め上げられ、最後ふらふらになりながらも雷慶は、阿修羅を釣りだすように持ちあげたまま投げる、やぐら投げで投げ切ったのである。その見事な大技に会場はワッと湧きあがった。

「相手の強さを引き出し、受け止め、その力を呑みこんで大技で返す。これぞ日本一の力士だ」

 宗家はそう言って感心していたが、二勝一敗で清滝の勝ち。八角部屋は負けてしまったのだ。これで勝負の行方は分からなくなってきた。

 次の試合が近づくと、天外流宗家水村一刀斎は身を乗り出した、訳ありの試合らしい。

 次は飾り鎧と能面をつけて入場してくる黒鉄だ。三人とも甲冑兵法の達人だ。思い飾り鎧をつけているので速さも落ちるし、すぐ息切れするのだが、防御力はかなり高い。相手が本当に強そうな時だけ、面を変えたり、面を取るのだという。その中でも不気味な怪士(あやかし)は武具の隙間、人体の急所を突いてくる突きの名手、翁はどんな体制からでも投げを打つ司令塔、体がずばぬけて大きな獅子口はぶちのめしや背骨織りなど豪快な技を使うという。だが北辰も大人気だ。負けても勝っても人気が止まらない菊丸は、今日もしなやかな女の姿で入場だ。獣人天の助の瞬殺記録も伸びるかと会場がざわめく。実力が安定してきたと、黒獅子への掛け金も高い。そして試合。怪士と菊丸の試合から盛り上がった。首元や関節を狙う怪士の実践的な突きが菊丸を襲う、でもどんどん強くなっている菊丸は、中国拳法でそれを交わし、流し、互角にやり合う。なんというかすばやい踊りを見ているようで、間の取り方が乱れず、美しくさえもある。やがて戦いが長引くと、やはり鎧は息があがり、不利になる。菊丸が攻勢に転じ、怪士を綱ぎりぎりへと追い詰めて行く。女性客の歓声がすごい。だがそこで、とどめとばかりに踏みこんで放った、右の拳が怪士に関節を取られたと思った次の瞬間、動きの止まった菊丸を、怪士のえげつなく強い突きが、しかも急所を狙って何発も撃ちこまれた。

「いってー!」

 菊丸はたまらずもだえながら、地に伏した。怪士は、そのすさまじき技を終え、静かに去って行った。だが菊丸の成長を物語る戦いだった。

 そして次の試合で驚きがあった。またすごい目つきで、相手の翁をにらむ天の助。すると翁も、これは今までの敵と同じではないと悟ったのか、なんと面を外したのだ。会場からどよめきが起こった。その顔が…。

「宗家殿、これは一体…」

 猫面の紫門が訊くと、天外流宗家、水村一刀斎はうなずいた。

「七つ違いのわが弟じゃ。年を取るとますます自分に似てくるような気がする」

 一刀斎より一回り大きく、がっしりした威圧感があるが、その眼も戸や顔立ちは瓜二つだ。しかも、その瞳は野望を秘めてぎらぎらしている。

「やつは自分の強さによほど自信があったのだろう。跡目争いでもめて、十年前に出奔した。私はあいつの野望をくじこうとこの辻相撲に出たのじゃが、このざまだ」

「でもあなたはあの駿空に勝っている」

「ともかく、強さを追うだけで心を伴わない、あいつが勝てば天の道に反する。だがあいつは強い。私の使う柔術の技はすべて使える。天の助どのが弟をたたきつぶしてくれたなら…」

 天外流宗家に瓜二つの男、翁は静かに天の助をにらみ返した。ついに試合が始まった。この翁が三人の中でも一番投げが得意なのは天の助も聞いている。相手の呼吸を読み、筋肉の動きを一瞬で捉え、天の助は近づいて行く。天の助の強烈な張り手が、不意に翁の顔面に入る、だが翁はその手を押さえて俊二に関節を逆に取り、すぐに投げの体制に入る。だが、投げはそこで終わった。

「…?」

 翁の動きが止まり、続けてみぞおちに天の助のひざ蹴りが突き刺さった。翁は崩れ落ちた。すぐに立ち上がったが、その悔しそうな顔も一刀斎に酷似していた。まさかの結果を一刀斎に訊くと、宗家は言った。

「一発目の張り手で、感覚器である耳と目に衝撃を加えて、翁の感覚を狂わせ、その一瞬のすきをついて、まさかの鎧の上から、ひじで強烈に思い一撃を打ち込んだのじゃ」

「鎧の上からですか?」

「普通の正拳突きでは、あの飾り鎧にはねかえされて、たいした威力も伝わらない。でも、至近距離から体重をかけて押し当てるように打つ天の助の重い当て身は内部を破壊するのじゃ。あの巨体で、あの人間離れした筋力で飾り鎧の上からひじ打ちをいれる。圧迫して呼吸を困難にしたところに、あのひざ蹴りじゃ。壮次郎は、弟は、鎧の上から相手が攻撃を加えるとは思っていなかった。だが天の助の肘は、あえてそこを狙い、その重い一撃でそれを越えたのだ」

 あとで天の助に訊くと、こっちは狩りでは熊の分厚い毛皮や筋肉の上から攻撃しているので、それから比べれば、飾り鎧など何でもないと言っていた。

 だが、次の試合も大変だった。背の高い獅子口と黒獅子、ついに実現した獅子対獅子の対決だ。ぶちかましや背骨織りなどが得意な獅子口は、黒獅子を捕まえようと、がんがん迫ってくる。それを交わしながら、蹴りや突きで逆転を狙う黒獅子。だが、長期戦になると、重い鎧をつけている黒鉄は不利になる。あせった獅子口は反則ぎりぎりの手に出る。なんと観客に分からないように、偶然を装って黒獅子の覆面に手をかけ、ずらし、眼を見えなくしてしまったのだ。

「ひ、卑怯な…!」

 獅子口は動きの止まった黒獅子を捕まえ、肩の上に無理やりあおむけに担ぎあげた。なんという怪力!

「おお!」

 背骨折りの大技だ。このまま締め上げれば、まいったが確実に取れる。だが、あせって技が完璧でないその隙をついて、黒獅子は柔軟に体をひねり、抜け出した。危ないところだった。だが獅子口の攻撃は続く。今度は鋭い肩からの体当たりだ。まだ良く眼が見えない黒獅子はすっ跳んで柱に激突。そこでやっと覆面のずれを直した黒獅子を、捕まえようと伸びてきた獅子口の巨大な掌が、今度は黒獅子の額をつかんだのだ。

「がああ!」

 その瞬間、頭蓋骨が砕けるような、獅子口の太い指が脳に食い込むような激痛が黒獅子を貫いた。なんという握力、力が抜けた黒獅子は、額をつかまれたまま投げ飛ばされてしまったのだ。

 これで黒鉄は二対一で勝利だ。北辰は最初から勝ちを失ってしまった。午後のくじ引き戦でもう一回負ければ敗退となってしまうのだ。


「では海堂様は釣り人のふりをして、あの男をなんとかしてください。私は船着き場へ行っています」

 海堂と七五郎は小舟で川側から星蓮荘の岸にこっそり上陸し、芦の影から、敵地をうかがっていた。

七五郎はさすがに飴売りの衣装では目立つので、漁師のような服装に着替え、海堂は刀も身につけず、大きな釣竿とびくを持って歩き出した。するとさっきから川のそばで見回りをしている若い男が寄ってきた。

「なんだ、腰の大小も差さない貧乏浪人が、大物狙いで迷い込んだか? 帰れ帰れ、ここは森村白堂様の別荘の敷地だ」

「え、それはすまなかったでござる。どちらから外に出ればいいのでござるか?」

「ああ、めんどうくさいなあ。こっちこっち、そこに川に抜ける道があるだろ…うぐっ!」

 男は急所を突然竹槍で突かれ、その場に倒れた。

「すまんな、腰の大小はないが、これは釣竿に似せた竹槍なのだ」

 さっきからこのあたりを見まわっていた男がやっとこれでどうにかなった。船着き場につくと、そこではもうすでに二人の男が倒れてすやすやと寝ていた。

「吹き矢で眠り針を使いました。しばらくは寝ていますが、それほど長くは持ちません。急ぎましょう」

 二人は警備の薄い川側から見事に忍び込み、まんまと星蓮荘に近づいた。

「急いでこのあたりの警備を確認してきます。うまくいけばこの鳥笛でお知らせします。では…」

 七五郎はふわっと飛びあがり、早くも星蓮荘の側面に回って行った。この川側から来たのは、警備が薄いだけでなく、小さなもの音は水の流れがかき消してくれるからだ。しばらくせせらぎの音に耳を傾けていた海堂だった。そこでふと思い出して、昨日犬目屋がくれたお守り袋の中の紙を読んでみた。

「天の南に冥の気があり、うまくいったと思った時こそ、周りに注意を!」

 少しすると、鳥笛が短く何回も聞こえてくる。

「これは裏口から強行突破の合図。よし、行くぞ」

 海堂は竹槍を構えて裏口の戸から中に駆け込んだ。すぐに二、三人の男が出てくるが、武器を構える間を与えず、岳槍で倒していく。大広間に出ると、七五郎がクレナイとオフジを連れて走ってくる。

「海堂様、来てくれたのですね!」

「お浜さんは別の場所に連れて行かれたようです。さあ、この二人を連れて急いでください」

「承知」

 やった。うまくいった。だが、ここで安心はできない。海堂は犬目屋の占いを思い出し、あたりを見回した。

「あ、危ない?」

 気づくと、物陰から手下の木村があの拳銃を構えてみんなを狙っていた。海堂が叫んだ。

「伏せろ!」

 パン、パン!

 だが拳銃の引き金より一瞬早く、七五郎の火薬玉がさく裂、みんなに被害はなかった。走り出す海堂と女たち、危なかった。

「出会え、出会え、大変だ、女が連れ去られた。出会え」

 木村の声に、門や橋にいた大勢の浪人が集まりだした。

 海堂が乗ってきた小舟に女たちを乗せているとあっちこっちから浪人たちの集まってくるのが見える。気が気ではない。女が二人とも船に乗り終わり、小舟はやっと岸を離れた。間に合わないかと思ったが、男たちはすぐに河原には降りてこない。

「あらかじめ、屋敷の周囲に、足かけの針金や、マキビシを仕掛けてから忍び込んだのです。少し時間稼ぎができました。あともう一息です」

 だが、やがて拳銃を持った木村が浪人を連れて船着き場に飛び込み、物資の運搬用の船に飛び乗った。

「馬鹿が、逃げおおせると思うなよ。そんな釣り船より、こっちの方がずっと船足が速いのさ。待ってろよ!」

 黒鯱と船体に書かれたその船は何人もの男で櫂をこぎ、速さを上げながら、小舟の後を追い始めた。だが少し下ったところで小舟は空っぽになって岸についていた。

「くそ! だが女の二人もいる。追いかけてすぐ捕まえてやるさ。」

 しかし、河原者の仲間によって、あらかじめ用意されていた数頭の早馬が、みんなを乗せて、遠くに走り去った後であった。


 …お浜が連れてこられたのは、森村白堂が建てたあの芝居小屋、白堂館だった。少しでも逃げようとしたり、大声を出したりすればクレナイたちを始末すると脅され、お浜は従うしかなかった。がらんとした薄暗い芝居小屋に入ると、さっそく白堂は話し始めた。

「君が勝ったおかげで、来る予定だった若衆歌舞伎の一抹一座は来なくなった。だが、お浜殿ならわかるだろう、この芝居小屋の凄さがね」

「…」

「第一にね、ここはこんな町中にあって、屋根付きなのだよ。火事になった時の関係でね、大きな建物を町中に作るのはだんだん難しくなってきている。ところが、この広さで、雨風をしのぐ屋根がついていて、床も板張りだ。こんな芝居小屋はまだまだ少ない。な、すごいだろう」

「…」

「入る時に櫓を見ただろ。呼び出し太鼓が乗っていて、格式も高い。役者の支度部屋も広くて明るいし、なんと言っても、舞台と幕だ。今年になって新しく作り直したばかりだよ。気持ちいいだろう?」

「…」

 たしかに、今までの環境と比べたら大違いだ。ここなら天気や足場の悪さを気にすることももうない。灯りとりの窓を工夫すれば明るさも調節できる。どこもかしこもピカピカで、場所も町中で申し分ない。ある意味、夢のような場所だ。

「どうだい。心が動かないわけがない。この劇場をお浜殿の自由に使ってもらおうというのだからね。しかも資金も潤沢にある、役者も選び放題だ。どうだい、やる気が湧いて来ただろう」

 さすがのお浜も心が動かないはずはなかった。征服され、利用され、差別され虐げられてきた山の民の子孫、自分もどれだけの苦労をしてきたのだろう。小さい頃女たちの歌舞伎踊りが流行し、若くして歌舞伎踊りの一座に入ったお浜、だがほどなくして女歌舞伎はいかがわしいと幕府に禁止されて、はや十年、場所を転々とし、役人から逃れ、内容を変え、内容を一新し、内容を高め、若衆歌舞伎と共生し、協力し、いつも綱渡りのような道を歩いて来た。クレナイ、オフジ、ほかの一座の座員にもどれだけ苦労をかけたことだろう。海堂のようにわけ隔てなく向き合ってくれる者はほとんどいない。体目当ての男ばかりだ。金儲けが狙いで近づいてくる白堂、この男は信じられない、でもならばそこは目をつむって、こちらが利用してやってもいいのではないか。ピカピカの屋根付き、床板突きの芝居小屋を見ているといろいろな思いが巡ってくる…。白堂は、優しく迫ってくる。

「もう一度だけ訊くよ。これが最後かもしれない。どうだいお浜、新しい一座をひきうけちゃあくれないか?」。

 お浜についに決断の時が来ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る