第十三話 花

「今日は辻相撲の最終予選のやり直し、明日からは本戦。お浪さんすまないがしばらく忙しくなりそうだ。朝が早くなったり帰りが不規則になったりするかもしれん」

「心得てますよ。お仕事がんばってくださいね。じゃあ、今日もお疲れでしょうから、今夜はまた精のつくものでも作りますから…うふふん」

 海堂はお浪によろしく言って、今日も目立たない服装で用心棒に変装だ。

「海堂様、おはようございます」

 七五郎がしかし、意外な事実を教えてくれた。

「え、森村一派が今日集まって何かするらしい?」

「辻相撲の試合にも多分来ないでしょう。よければ私がそちらを探りに行ってきますが…」

 森村白堂のやることはやはりよくわからない。海堂は七五郎にそちらを頼んで、今日は一人、辻相撲の会場に向かった。

 今日は黒獅子たちも新しい三人組で「北辰」という組を作って出場する。北辰とは北極星や北斗七星をを中心とする狩人たちの信仰だという。彼らのことも心配だが、さらに森村白堂も見張っていなければならない。神社に行くとまた猫面の紫門から札を受け取り、為三郎親方の手伝いから始める。

「今日も手伝ってもらえるとは本当にいい人だね。いっそ体も大きいし、うちの部屋で働いてみるかい?」

「いえいえ、親方を手伝いたいだけですよ」

 用心棒の仕事は、この間は二階席の見張りだったが、今日は下の力士の入場する通路の近くだ。このあたりはもめごとが多く、大変なところだ。でも、力士や関係者との距離はぐっと近くなって何かと便利かもしれない。実は前回も客同士の賭け金や勝敗をめぐってのもめごとで、十人ほどが怪我をしている。以前には刃物沙汰も何回もあったそうだから、気をつけなければならない。やがて時間が近づき、いつもよりさらに大勢の観客が押し寄せる。だがみんな口々にまだ未発表の今日の対戦について話している。

 海堂は、力士の支度部屋と、本部関の間の通路のあたりで用心棒の仕事を始めていた。すると猫面の紫門が落ち着かない様子で歩いてくる。

「何だって? 天の助がまだ会場に来ない?」

 天の助はああ見えて時間をきっちり守る方で、心配しているのだという。

「黒獅子は朝早く元気な姿を見ていたので、すぐ来るだろうとは言っているのだが…」

 何があったのだろう。この間の花車の事件は聞いていたので、いやな予感がぬぐえない。とりあえず、なにかわかったらすぐに知らせると言って紫門はかえって行った。

 そのうち為三郎親方が出てきて、会場が静まり返った。

「前回の不祥事は、私たち相撲の年寄りたちの不徳の致すところであります」

 そう言って深々と頭を下げた。そしていろいろな事情を話し、最終的に今日、新たに選ばれた六組が参加し、三組が勝ち残ることになるという。そして三組のうち一組が「天」に二組が「地」に行くことになるそうだ。

「では、今日の対戦を発表します。」

 本部席の高いところに今日の対戦が張り出された。

「おお!」

 会場が大きくどよめいた。

「八角部屋って、あの有名な京都の強豪か?」

「ら、雷慶だってよ。日本一の力士が来るのかよ?」

「おお、鉄五郎に黒牛の五平も出る、泣けてくるぜ!」

 でも知らない名前も結構あると、不安な声も聞こえた。対戦は以下の通りだった。

清滝隊天外道場選抜

清滝;駿空・羅刹・阿修羅、

天外道場;水村一刀斉、塚本、大田原

北辰隊白銀

北辰;菊丸、天の助、黒獅子

白銀;銀竜、銀蔵、弁天丸

八角部屋隊鉄牛太鼓

八角部屋;雷慶、獏力、鷹王

鉄牛太鼓;鉄五郎、黒牛の五平、時次郎

 そしてまだよくわからないまま賭けが始まった。前回とは比べ物にならない金が飛び交う。

「清滝って何だ? 誰か知ってるやつはいるか?」

「天外道場って、確か三人抜き達成直前に、勝ちを源五郎丸に譲ったあの達人の道場だろ。ありゃあ強いぞ」

 大きなどよめきの中、第一試合の入場が始まった。まずは天外竜の入場だ。あの宗家の一刀斉を先頭に、胴着姿の三人が、門人たちの応援の声に押されながら歩いてくる。宗家の一刀斉の後には若く、体の大きな門弟が緊張した顔で突いてくる。塚本は細身で鋼のような体、大田原は大柄な力持ちと言った感じだ。そしていよいよ清滝の入場となる。

「な、なんだ?」

 会場が驚きの声を上げる。高らかにホラ貝の音が響き渡り、修験僧の衣を着た三人の男が、入ってくる。体の大きな二人はホラ貝を吹き、若い男が、密教の真言を唱えている。地味な組だと思っていたら、とんでもない派手な入場だ。騒ぐ観客ににらみをきかせて仁王立ちの海堂の後ろから猫面の紫門がとんとんと肩をたたく。

「今、やっと天の助が到着した。なんとかなりそうだ」

「何かあったのか?」

「なんでも朝からイノシシを一頭、フン縛っていたそうだ。本人は怪我も何もなく元気だよ」

 町中にイノシシでも出たのか? まあ、あとで詳しく聞いてみよう。とにかくおおごとでなくてよかった。

 そしてついに謎の解けぬまま、第一試合が始まる。

「先鋒、天外道場、水村一刀斉、清滝、駿空!」

 なんと宗家の達人がはじめから出陣だ。逆に言うとそれだけ弟子の強さに信頼を置いているということか。駿空は端正な顔立ちの若い僧で、とても辻相撲に出てくるようには見えない。本当に戦えるのだろうか?

「はっけよい、のこった!」

 な、なんということ、二人は立ち上がった後、ぶつかるどころか、見つめあったまま、ピクリとも動かなかった。いや、駿空はこんなときにも真言を唱えている。そのうち一刀斉の体が一瞬、なぜか傾いた、そこを逃さずすっとつかみかかる駿空、でも負けじと一刀斎が繰り出したのは、駿空の手をはらっての、高速の突きであった。

「神眼力!」

 なにが起きたのか、達人の眼にもとまらぬ突きをまるですべてかわしてしまったのだ。さらに、すべてをよけてなおかつ一刀差異の襟首をつかんで投げに入った。

「明王力!」

 その途端どちらかと言えば中肉中背というか、少しやせ気味に思われる駿空が、突然怪力に変わり一刀差異を眼よりも高く差し上げ、投げたではないか。

「おおっ」

 決まったか? だが達人は投げられながら体を空中で入れ替え、駿空の体に絡ませ、駿空を倒しながら着地した。

「一刀斉!」

 さすが宗家の達人、見事な逆転勝ちだった。だが、なぜか疲れて帰ってきた一刀斎は、通路で海堂を見つけると、一言いった。

「とんでもないやつらだ。私は運よく勝てたが、弟子の二人はまだ若い。強さだけではやつらに勝てない。うう…」

 そこに、次の順番の塚本と大田原が駆け付けてきた。

「先生!」

「弟子たちよ、よく聞くがよい…」

 なんでも駿空は真言により気の流れを操り、相手の体の軸を崩しにかかってきたのだという。それで一刀斎は思わず傾いたのだ。しかも集中力によって動体視力を極限まで高めて、こちらの突きをすべて見きったというのだ。

「そして驚いたのは、あの明王力だ、よく言う火事場の馬鹿力だ。人間は普通、自分の持っている力を五十から七十ほどしか出せない。でもやつらは修行によって、百持っている力を、出したいときに百出せるに違いない…。塚本、大田原。侮るな、やつらは未知の力を持っている!」

 だが、すぐに次の試合が始まる。

 中堅、天外流、塚本、清滝、羅刹!

 今度はどんな戦いになるのか? まったく予想がつかない。

「はっけよい、のこった!」

 中堅の塚本は先手を取らせまいと、体のがっしりした羅刹にっかかって行った。羅刹は自然体でその突進を受け止めた。

「不動の術」

 お、おかしい、相手の懐に飛び込んだのに、投げの名人塚本の投げが決まらない? と、言うより、まるで羅刹の足に根っこが生えたように重くて動かないのだ。だが若い塚本は今度は師匠譲りの突きで攻勢をかける。

「岩気功の術」

 今度はそのまま立ち尽くす羅刹の体に突きをいれるも、まるで体が岩のように固くなって、逆に手をいためたのは塚本の方であった。塚本がひるんだところで羅刹が動いた。

「しめた」

 相手が動けば、そこから重心を崩し、投げを宇津野が天外流の得意技だ。ところが塚本が思いっきり投げを打つと、今度は重さがまったくないように羅刹の体は宙に舞ったではないか。

「因果応報投げ!」

 そして、なんと羅刹は自然体のまま足から着地し、そのままの勢いを使い、もう一度投げを打ち、塚本を地面にたたきつけたのだ。地面にのめり込みそうな勢いであった。会場が静まり返った。

「羅刹―!」

 塚本はなにがどうなったのか、まだ負けを理解していなかった。気の力を使って体を堅くしたり、自分から投げられて、その勢いで投げを出したり…そんな戦いがあるとは…?

 でもこれで一対一。大将戦で決着だ。

「大将、天外流、大田原、清滝、阿修羅」

 大田原は技も切れるし、体も大きい、門人たちの応援が大きく響く。

「はっけよい、のこった!」

 大柄な大田原は全力でむかっていった。だが背の高い阿修羅は、立ち合いのときにも密教の真言を唱えながら、不思議な呼吸法を繰り返していた。そして行司の掛け声と同時に、すごい速さで飛び出し、高速で張り手や突きを放ってきた。まるで腕が何本もあるような凄い手数だ。防戦一方の大田原。

「阿修羅気功弾!」

 そして不思議な一発が大田原の頭を直撃した、その張り手で頭を打たれた途端、なぜか意識が一瞬飛ぶような妙な感覚に襲われる!

 そして、大田原の体中から一瞬力が抜けたようになった時、そこに…!

「気功掌!」

 阿修羅の両掌がすごい速さで大田原の胸を直撃した。

「げほっ」

 すると大田原はそのままふらふらと後ずさりして、ばたりと地面に崩れ去った。肉体的な衝撃に加え、同時に気をためて相手に打ち込むことにより、その威力を増大させるのだ。

「阿修羅―!」

 大田原は一つも技を出すことさえさせてもらえなかった。気がつけば清滝の二対一での勝利だった。この何人が勝ったというのも勝ち上がる時の得点となり、賭けの対象にもなるのだ。

「少しはいいところまで勝ち上がるつもりじゃったが。世の中は広い。また出直してくるわい」

 天外流宗家の水村一刀斎はそう言って笑うと、一門のところに帰って行った。

 そしていよいよ第二試合、北辰の入場だ。急に女性客が騒ぎ出した。そう、菊丸だ、あの菊丸がすらっと背の高い姫君の恰好で、先頭に立って入場してくるのだ。しぐさもまるっきり姫のごとく、うっとりするような女らしさだ。その後ろには腰に毛皮をつけた天の助、そして最後に控えるは、顔の上半分を覆面で覆った黒獅子であった。強さは未知数だが、菊丸の人気は絶大だった。しかも、中央に出ると菊丸は上に羽織っていた着物を一瞬で脱ぎ去り、戦闘態勢へと切り替える。

「おおおお!」

 顔や髪形は娘のまま、胸のあたりからさらしをまいた筋肉美の若者に変わったのだった。

 次にこちらも新しくできた連合軍、「白銀」の入場だ。

「おお!」

 なんとこちらは沖縄空手のあの銀竜、暁の拳にいながらただ一人鉛の板をいれずに正々堂々と戦った銀蔵、そして最後にあの目立つことが大好きな地獄の曲芸師、弁天丸と曲者ぞろいの面々だ。中央が近づくと、弁天丸は銀竜と、銀蔵の方にさっと飛び乗り、そこから空中に飛び出し、一回転して降り立った。観客は大喜びである。

「北辰、菊丸、白銀、弁天丸」

 観客がわいた。今日は弁天丸は一番人気の菊丸に焦点を絞ってきたのである。これはどちらが勝つか全くわからぬ上、人気でもいい勝負だ。賭け金が舞い踊る!

「はっけよい、のこった!」

 長い黒髪をなびかせて、菊丸が飛び出す。だが弁天丸は猫だましを打って、さっと左に変わり、菊丸の片ひざを取って、さらに軸足を払って倒そうとする。

「涅槃返し!」

 これが普通ならよく決まるのだが、舞踊で鍛えられた菊丸の柔軟で強い足腰は、中腰でも片足でもぐらつかない。さっと片足で跳び上がり気味に取られた足を外し、すぐに反撃に出る。

「ええい、二段回し蹴り!」

 黒獅子譲りの複雑な足技だ、前蹴りに続いて、途切れなく回し蹴りが飛んでくる。女性のキャーキャーいう歓声が響く。だが弁天丸も負けてはいない。

「三界飛び!」

 なんと弁天丸は回し蹴りでよろめいたとみせかけて、また柱を駆け上り、そこから今度は横っ跳び、そして張られた綱の上に降り立ち、しなった綱の力を借りて頭から空中を高く跳び、そのまま菊丸の顔のあたりに体当たりを食らわせたのだった。全体重をかけて、そのまま覆いかぶさり菊丸を押しつぶすはずだった。が、菊丸の鍛えられた柔軟で強靭な足腰はそれを受け止めてしまったのだ。

「ええい!」

 逃げようと暴れる弁天丸を、菊丸はそのまま綱の外にたたきつけようと、体を反転させる。だが僧はさせまいと空中で粘る弁天丸。二人はそのまま観客席に倒れ込んだ。さあ、どっちの勝ちだ?

「…弁天丸!」

 身軽な弁天丸は倒れ込む瞬間にさっと飛び上がる余裕があったのだった。柱から綱、そして相手に飛びかかる三界飛び、そしてそれを受け止めて投げる菊丸…どっちが勝ってもいい、見せ場のある試合であった。二人は立ち上がるとお互いの手を取って健闘をたたえあい、大歓声の中引き揚げて行った。

「北辰、天の助、白銀、銀竜!」

 あの人気者の銀竜が今日はピリピリして緊張しているようだった。何せ相手があの獣人、天の助だからだ。しかももう、あの狼のような鋭い目でこちらを睨みつけている。

「銀竜、がんばれ、いいぞ!」

 銀竜は負けまいと、今日は大げさに沖縄空手の型を本気で見せた。普通ならここで相手も少しビビるのだが、天の助は何も変わらない。獲物をどう料理してやろうかと、虎視眈々と狙いをつけているようだった。

「はっけよい、のこった!」

 銀竜は素早く突っ込むと、沖縄空手の正拳突きで挑んでくる。だが、天の助はまるで突進するイノシシを交わすように、拳を交わしながら横に逃げた。そしてやおら銀竜のわき腹にほとんど手を動かさず、ずんと突き上げるような当て身を放ったのである。

「ぐふっ」

 一瞬動きの止まった銀竜の両肩を抑えつけ、はっと思った時には、その強力なひざ蹴りを、銀竜のみぞおちにめり込ませていた。そして至近距離からの当て身が分からぬほどの速さで連続して炸裂。銀竜も、派手な技を出す間もなく、その場に崩れ去った。またもや瞬殺であった。あの銀竜ほどの男が…。観客席は一瞬静まり返った。その時、観客席の後ろでその戦いを見ていた駿空は震え上がった。

「今までに一度も感じたことのない、怖れを感じる…。あえて言えば、山奥でであった熊や狼のそれに近い…、ほかの力士たちとも全く違う…。いったい何者だ」

 これで一対一、いよいよ大将戦だ。

「大将、北辰、黒獅子、白銀、銀蔵」

 銀蔵は鋼丸と出た時のような派手な服は一新し、地味な胴着をつけていた。黒獅子が向かい合ってつぶやいた。

「お前だけ、鉛の仕掛けに頼らなかった。それにしてもよくぞ立ち直りここに来た」

「鋼丸も、岩鉄ももう江戸から追い出された。会うこともないだろう。おれもいろいろお咎めを受けたが、心を入れ替え、修行を積みなおし、死ぬ思いでここに来た」

 そして素早い、きれのいい立ち技の型を披露した。

「テコンドーだな。今日のお前は別人だ。かってない強敵だ。こちらも全力でつぶす」

「手加減しないで、思い切りつぶしてくれ」

 観客も二人の間の本気を読み取ったのか、食い入るように見つめている。

「はっけよい、のこった!」

 今日の銀蔵の拳はきれのいい本物だ。正拳突きが、中段蹴り、下段蹴りが流れるように入る。それを受け止め、かわし、隙を狙う黒獅子。だが今日は、どうも銀蔵の気迫が勝っているようだ。ほとんど互角だが、じりじりと、黒獅子が押されているようでもある。でも、黒獅子はそれがまるでうれしいように見える。そして隙を狙って大技を出す。

「昇龍砕!」

 体を丸めて相手の懐に飛び込みつつ、強力なひじで、相手の顎を砕くように勝ちあげる技だ。そして黒獅子は、体にひねりを加えながら連続技を狙う。

「竜巻拳!」

 相手がふらついたところに拳を竜巻のようにねじ込みながら打つ拳でさらに追い打ちをかける。よろよろと下がる銀蔵、だが、今日の銀蔵はやはりいつもと違う。

「闘竜舞」

 この技は高速で右の上段突き、左の中断突きから飛び二段蹴り、回し蹴りを流れるように隙がなく行う連続技である。だが最後の回し蹴りが決まるぎりぎりで、黒獅子は逆転をかけて、のけぞりながら、それをこらえて、銀蔵の軸足へと足払いの蹴りを放ったのだ。失敗すれば、回し蹴りをまともにくう。一か八かだった。

「おおっ」

 足払いは成功。銀蔵はまさかの奇襲に体制を崩し、尻餅を突いていた。勝負がついたのである。

「黒獅子!」

 二人は握手して検討をたたえ合う。やった、北辰は予選を通過だ。名勝負に観客も湧きたった。銀蔵もますます強くなり、きっと活躍してくれることだろう。

「また来いよ、白銀、待ってるぞ!」

 掛け声が飛ぶ。


 さて、そのころ時枝屋では、掃除や片づけにみんな忙しく働いていた。お浪は仲間のお美津たちと、食器の用意や厨房の掃除に飛び回っていた。

「あらお絹ちゃん、その花菖蒲どうしたの?」

 お絹がたくさんの花菖蒲を胸に抱えて帰ってきた。

「今朝のことなんだけれど、猫屋敷のお庭の花菖蒲がとってもきれいだったから、感心してたら、紫門さんが、じゃあ時枝屋さんや海堂さんにはお世話になってるから昼に帰るときに持って行けって…」

「あら、うれしいねえ。お絹ちゃんありがと。紫門さんによくお礼を言っておいてね。じゃあ、そこに置いておけば、あたしが生けておくわよ」

 お絹は笑って首を横に振った。

「海堂さんの分は私が生けるんだから…」

「そうきましたか。分かったわ。もらってくれたのも運んでくれたのもお絹ちゃんだからね。なんか入れ物、いいヤツを出しておくから後で取りに来て」

「はーい。お浪さん、ありがとう」

 お絹は花をそこに置くと、朝洗っておいた洗濯物を取り込んで、今度はそそくさと海堂の部屋に入っていく。

「海堂様、お掃除させていただきまあす」

 誰もいない部屋をいつもの通りテキパキと片付け、掃き掃除、そして丁寧に毎日拭き掃除をやる。

 文机の引き出しをあけると、封筒に入った書類が入っていた。

「あれ?」

 封筒の上に二つ折りにした小さな紙がのっかっている。

「もう、海堂様ったら…」

 その紙には、「お掃除、いつもありがとう」と海堂の字で記してあった。お絹はその紙を懐に大切にいれると、周りを片付け、今度は洗濯物をたたみ始めた。

 着物のたたみ方は昔姉から心をこめてきちんと折るように教わったっけ。やさしいお姉ちゃんだった。でもお絹のたったひとりの姉は、それから遠くに働きに出て行って、二度と帰ってこなかった。なんでもお侍の機嫌をそこねて、斬られたというのだ。

 お絹はさっきの紙をもう一度懐から取り出し、じっと見つめた。

「海堂様はちゃんとわかってくれている…見ててくれてるんだわ」

 なぜだろう、着物をたたんでいると一筋の涙がお絹の頬をつたう。お絹は涙をすぐにぬぐうと、もう一度部屋のあちこちを点検し、そしてまた部屋を出て行った。だが、廊下の奥で、それを確認して歩き出したあやしい影があった。

「わあ、いい花器を出してくれたんだ。ありがとうお浪さん」

「ほら、一番いいのを出したんだから、あとはしっかり頼んだわよ」

 花器をを片手にニコニコしながらお絹は海堂の部屋の戸をあける…。

「な、なにこれ?」

 開けた途端に驚いた。部屋の中が荒らされている。と、思った瞬間、戸口の横に隠れていたあの行商人風の男がお絹の口をふさいだ。

「小娘、おとなしくしないと命がないぞ!」

 だがとっさにお絹は男の指を強く噛んでひるんだすきに男の手を振りほどいた。

「キャー、誰か、助けて!」

 だが、お絹が大きな声を出すと、男はもうこれまでとお絹を思い切り突き飛ばし、そのまま庭に飛び出し走り去った。

「お絹ちゃん、お絹ちゃん、どうしたの? なにがあったの?」

 飛び込んできたお浪が見たのは、突き飛ばされ、柱に後頭部をぶつけ、ぐったりと動かなくなっていたお絹だった。柱には血がにじみ、足元には花菖蒲が散らばっていた。


 そして予選の最終戦だ。おなじみの暴れ川の鉄五郎、黒牛の五平、未来の横綱時次郎が大声援を受けて入場だ。みんなおそろいの黒いまわしを締め、足取りも軽く入場だ。

 そして、京都軍団だ。まずは八角部屋の嵐と呼ばれる、鷹王だ。色黒で筋肉質、精悍な力士だ。

 次は獏力と呼ばれる人気力士、長めの鼻に少し間の離れたぱっちりお目目、体は岩のようにごっつい怪力力士だ。どこか愛嬌があり、しかも強いので京都で大人気だという。

「よー、日本一!」

 観客もよく知っている。雷慶は、中肉中背で品格があり無駄な脂肪もみせかけの筋肉も、余分なものはなにもない体つきだ。

「先鋒、八角、鷹王、鉄牛太鼓、時次郎」

 だが、中央に出た時、鷹王はちょっと戸惑っていた。実は京都では戦国時代に発明された土俵で鷹王はいつも相撲を取っているのだが、ここ江戸は寺社の土地をその都度借りているので、このころはまだ土俵が作れなかったのだ。だから京都の相撲には、寄り切りや押し出し等、外に出す技が多いのだが、ここ江戸では柱と綱が張ってあり、一部の技が使えそうもないのだ。

 鷹王は試合の前に、力水をもらい、清めの塩をまき、きちんと礼をして土俵に上がってきた。その一連の動作がすべてさすがであった。

「はっけよい、のこった」

 今度は二人ともきちんとまわしをつけた正当な力士どうし、まずは呼吸を整えた立ち合い、激突した瞬間に、まわしの取り合いとなり、見ている方も力がはいる。まずは時次郎が得意の右上手からの投げをうちに行く。それを柔軟にやり過ごした鷹王、すばやく腕を取って「とったり」で、今度は逆に時次郎を崩しに行く、逆とったりで反撃する時次郎。息もつかせぬ展開だ。綱ぎりぎりのところまで押し込まれた時次郎だが、ここでさらに逆転の投げを反り身になりながら打つ!

「おおっ」

 二人の力士はそのまま綱を越えて、観客席へとなだれ込んだ。勝敗は?

「鷹王!」

 やはり、腰の安定度は抜群のものがあるようだ。

「時次郎、よくがんばった。だが…」

 鉄五郎がそうつぶやくと、黒牛の五平がさらに続けた。

「だが、鷹王はその力の半分もみせていないな。鉄五郎さんよ」

「その通りだ。だが、相撲魂がうれしくて震えてるよ。これこそ相撲だ。頼んだぜ、次はあの獏力だ」

「おうよ!」

 強力な突進力と張り手の得意な五平、その日焼けした巨体は、まさにたけり狂う黒牛だ。そしてそれを迎え撃つは岩の塊のような獏力。獏力は鷹王から力水をもらい、塩をまくと、体や顔ををパンパンと打って気合いを入れる。観客が盛り上がる。力と力、獏と黒牛の戦いだ。

「はっけよい、のこった!」

 すごい立ち合いだった、弾丸のように飛び出し、張り手を打つ黒牛の五平、だが、それをすべて顔屋胸で受け止めながら、獏力はすごい速さで前まわしを取りに行き、大きく踏み出すと、もろ差しだ。敵の好きにさせまいと踏ん張る五平。だが獏力は、そこから腕を返して肘を突きだし相手に反撃の隙を与えず、そのまま、もろ差しからのがぶり寄りだ。

「おおお!」

 そしてまたもや観客席に倒れ込む二つの巨体。今度の勝負は?

「…獏力!」

 力だけではない。うまい。多彩な技がどんどん出てくる。観客も大満足だ。負けても、五平にも声援が集まる。

「大将、鉄牛太鼓、鉄五郎、八角部屋、雷慶」

 進み出る鉄五郎。息子の三吉が頑張れと声をかける。笑顔でそちらを振り返る。思わず拳に力が入る。極上の力士、雷慶は獏力から力水をもらい、塩をたっぷり撒くと、こころのこもった礼をして、中央に出てくる。動作がいちいち美しく、無駄がない。気持ちが高まっていく。

「はっけよい、のこった!」

 逃げも隠れもしない。鉄五郎は真っ向から雷慶にぶつかっていく。それをきれいに受け止める雷慶。柔軟な足腰が鉄五郎の勢いをすべて受け止め、すぐにまわしを取りに来る。まわしを取られたら、もう終わりだ。そんな直感に、鉄五郎はまわしを切りながら、足かけ、すくい投げと、攻勢をかける。だが雷慶はすべての技を柔らかく受け止め、やりすごして次の体制へと切り込んでくる。

「いいぞ、鉄五郎!」、

 気がつけば、さきほどからいくつも技をだして攻め上げているのは鉄五郎だ。だが、それをすべて受け止める雷慶の懐の深さ、器の大きさがそこにある。鉄五郎はそこであら技のさば折りで雷慶の腰を締め上げ、さらに攻勢に出る。

「そこだ、鉄五郎!」

 だが、綱ぎりぎりまで追い込まれた雷慶はさっと体を入れ替えると、鉄五郎の後ろまわしに手を伸ばし、持ち上げながらひねって投げたのだ。「おおさかて」の大技だ。その腕の強さ、腰の安定度、けちのつけようがなかった。まさかの鉄五郎は大きく円を描いて地面に崩れ落ちた。一瞬強い衝撃に立ち上がれなかった鉄五郎に、雷慶はそっと手を差し伸べた。そしてよくやったよとほほ笑みかけるように引き揚げてくれたのだ。そして二人はきちんと礼をして分かれていった。

 結果は三対0だったが、本当に内容の濃い、いい相撲であった。三人が全勝だった八角部屋はそのまま本戦の「天」へ。二人が勝って一人が負けた北辰と清滝は「地」への参加となった。明日からは本戦、また森村も顔を出すことだろう。気を引き締めて行かなければ…。

 為三郎親方が、鉄牛太鼓の支度部屋に、ニコニコしながらやってきた。

「今日は、いい試合に賭け金とは別に懸賞金を出すという制度を初めて試してな…お前さんたちの試合にこんなに金が集まった。受け取ってくれ。あたしゃ、うれしい。これが目指していた相撲だと思ってな。これからも力を貸してくれよ。皆さん方」

「こちらこそ、最高の思いをさせていただきました」

 鉄五郎もいい顔をしていた。

「いやあ勝っても負けても、相撲ってのはいいもんですよ」

 五平も時次郎と肩を組んでにこやかだ。小さな三吉が親方に言った。

「ぼくも父ちゃんみたいに大きくなって、強くなるから…」

「ああ、三吉、そうなったらいつでも江戸に来い。待ってるさね」

 そろそろ海堂が帰り支度を始めていると、そこに猫面の紫門が駆け足でやってきた。

「海堂さん、ちょっといいですか」

 呼ばれて言ってみると、神社の入り口に奉行所の役人が来ている。天の助たちと何か話をしている。

「今朝、この天の助なる者を小刀で襲った男の身元が割れた」

「えっ!」

 天の助が遅れてきたわけはこれだったのか。なにがイノシシをふん縛っていただ。大事件だ。

「犯人は浪人崩れの無頼の者で、稲妻の半七と呼ばれている男だ。刀の扱いは素人ではないのだが、力士とは言え、よく無傷で済んだな。よかった」

「ちょっと待ってください。この天の助は人気力士ですよ、きっと勝って欲しくない誰かが刺客を送り込んだに違いない。その辺はどうなんですか?」

「稲妻の半七は物盗り目的で襲った、誰にも頼まれてはいないと言っていたが…。この天の助、失礼だが金を持っているようにも、弱そうにもまったく見えない。そのうち口を割るだろう。では失礼」

 役人は帰って行った。なんでも朝練習している時、斜め後ろから刃物を突きたて、走ってきたのだと言う。

「よくもまあ、無傷で済んだな」

「いやあ、山の中でイノシシに襲われたことは何度もある。だが足の速さも、騎馬の鋭さも、イノシシの方がずっと上だね。ぎりぎりのところでかわして足をとって倒しながら横にして、ふん縛るんだ。その半七ってやつも、腰につけてた綱を使ってすぐにふん縛ったんだ。近くに来ていたお浜たちに教えてもらって奉行所に送り込んだんだけど、それで遅れてみんなに迷惑かけちまった」

 あの花車の件もあり、心配はしていたが、何もなくてよかった…。だが、その時、

「海堂様、大変です!」

 女の声に振り向けば、なんとお浪がそこにいた。

「お浪…? どうした」

 すると珍しく取り乱したお浪は言ったのだ。

「あの奥の間の男に、お絹ちゃんが突き飛ばされて頭を強く打って、流血、大けがなんです!」

「ええっ!」

「お医者は呼んであるんですが意識が戻らないんです。早く時枝屋に!」

「おおっ」

 取るものもとりあえず海堂は走り出した。だが遠くから海堂や天の助をそっと見ていたあの修験僧の駿空も後を追って走り出したのだった。


 時枝屋に着くと、高名な医者の杉村先生が帰るところだった。

「先生、お絹はどうなんですか?」

「頭の傷はふさがった。そこは手当てが早かったのでもう安心じゃ。問題なのは頭をぶつけた時に強く頭を打ったらしく、意識が戻らないのだ。しばらくはゆっくり寝かせて様子を見てくれ、なにかあればすぐに知らせてくれ。では」

 お絹が襲われたのは海堂の部屋なのだそうだが、お絹が寝起きしている女中部屋に、お浪が布団を敷いてくれたのだという。部屋に着くと、時枝屋が心配そうに枕元にたたずんでいた。お絹はぐったりとして、息をしているが、まったく動かない。

「…お絹はのう、河原者のなかでも神事を司る家の出でなあ。立派なお兄さんがいて、神社の祭礼などの芸能を行っておる。いろいろ縁があって、うちでしばらく面倒をみることになったのじゃが…。このまま意識が戻らなんだら、お兄さんになんと言ったらよいものか…」

「…私のせいです。私がいけないのです」

 海堂が詰め寄った。

 お浪が静かに入ってきた。

「お絹は…いつものように海堂様のお部屋の掃除やお洗濯などをして、でも普通ならそれで帰って行くのですが、今日は一度戻ってきて、それで犯人にあったみたいです。なんでも、猫御殿にあったきれいなお花を紫門さんに分けてもらったと…。それで何か生ける入れ物がないかというので、あの陶器の花生けを渡したのです。そして、もう一度海堂様の部屋に行ったらあの男がいた」

 お浪は一度涙をぬぐって言葉をつづけた。

「少ししたら悲鳴が聞こえて、駆け付けたらもう犯人が庭へと逃げ出したあとでした。お美津が庭から逃げ出して行くあの奥の間の男を見ていました。お絹は、無理やり突き飛ばされて、地を流しながらぐったりしていました。私は血を止めるように応急処置をして、お美津にお医者様を呼びに行かせて…もう、あとは大騒ぎで…」

 お浪は医者の手伝いをしていたこともあり、その知識が役に立ったようだった。海堂がもう一度言った。

「今日、私の部屋の文机の中には封筒と文書が入れてあったのです。一度目の事件があってから、書類は万が一を考えていれていなかったのですが、今日は辻相撲の予選で、持っていくと差しさわりがあるかもしれぬと、置いて行ってしまった。そうしたら、きちんと盗みにやってきた…」

 するとお浪が付け加えた。

「私も気になって文机の中を見たのですが、何も入っていなかった…。持って行かれたかもしれません。さっきお役人も見にきたんですが、宿屋の宿泊名簿にある名前などはすべてうそみたいです」

 海堂は悔やんでも悔やみきれない様子で枕元にたたずんでいた。お絹がこのまま目をさまさなかったらどうしようかという思いが突きぬけて行く。

「お絹、お前は長生きするっていってたよなあ。目を開けておくれ…」

 だが、お絹はぐったりとして海堂の言葉にも何の反応もなかった。みんなは静まり返っていた。だが、その時だった…。玄関に誰かが来たようだった。天の助や紫門たちか? みんな心配なのだ。だが、その中の一人が、無理やり上がり込んで部屋に入ってきた。なぜか誰もその男を止められない。密教の真言を唱える駿慶だからだ。非常に徳の高そうな修験僧は、姿勢を正して海堂のすぐ隣に座った。そしてお絹をしばらくながめてから言った。

「失礼します。天海様よりつかわされた駿空と申します。海堂様ですね、お話は伺っております。」

「天海様…?」

 海堂はよく知っている名前に驚いた。

「このお絹は特別な霊格をしております。この命は決して無駄にしてはならない」

「特別な霊格?」

 海堂が訊き返すと、時枝屋がつぶやいた。

「お絹の兄が言っておった、神事を司る血筋というのはやはり…」

「少しの間、意識を取り戻せるかもしれません。よろしいですか」

「頼む…礼はなんでもする」

 海堂が頭を下げると、駿空は言った。

「何もいただきません。これが私がまず成すことなのですから」

 そして密教の真言を唱える。駿空は高貴なオーラをまとい、心でお絹に話しかけているようだった。

「はっ!」

 駿空の声にお絹の体がビクンと動いた。駿空はすっと立ち上がると、皆に言った。

「これでもうすぐ少しだけ眼を覚ますでしょう。また、縁があれば参上いたします」

 そして、また、風のように去って行った。すると見る間にお絹の顔色は赤みを帯び、手足も少しずつ動き出した。

「おお、本当だ。あの駿空殿のおかげだ!」

 お絹はゆっくり瞳を開けた。

「…あ、海堂様…みんなも…ああ、よかった生きてるみたい…もう、だめかと思っていたから…」

 お浪が優しく声をかけた。

「まだあちこち痛いだろ。無理して話さなくてもいいんだよ」

「…でも一つだけ…」

「なんだい?」

 お浪が近づくと、お絹は弱々しく自分のゆるめてある帯を指差した。

「帯のここいら辺をちょっと触ってみてください…」

「おや、なにか入っているねえ…ああ、こ、これは…?」

 帯に絡めて、小さな封筒のようなものが出てきた。

 海堂は眼を丸くしてそれを覗き込んだ。

「…最初にお部屋の片付けに入った時に、それが文机の中にあったから、不用心だと思って帯の中に隠しておいたの…ごめんなさいね、勝手なことして」

「お絹、ありがとう、助かった、犯人に気づかれなかったよ。お絹のおかげだ」

 するとお絹はほほ笑んだ。

「…よかった…海堂様のお役に立てて…」

 それからほどなくしてお絹はまた眠りについた。今度はだれも心配していなかった。顔色も戻り、健やかな寝顔だった。明日の朝には目覚めるだろう。海堂は外で待っている天の助や紫門たちに事の次第を伝えた。紫門が責任を持ってお浜たちにも知らせるという。

 一通り終わって部屋に戻ると、部屋の今まで何もなかった床の間に花菖蒲が生けてあった。お絹が持ってきてくれた花とはこれなのだろう。よく見ると、数本の花のうち一本が、事件に巻き込まれたのか、折れかけていた。でも、花はそんなことにも負けず、可憐に海堂を見守ってくれているようにそこにあった。

「いつも…ありがとう…」

 海堂の長い一日が終わろうとしていた。

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