第九話 猫御殿
その日の朝、出かける時に、珍しくお絹が顔を見せた。
「あれ、お絹ちゃん、朝くるなんて初めてだねえ」
「海堂様、今日はどんなお仕事ですか?」
「ははは、今日は笛太鼓堂の手伝いで、ひょっとこのお面かぶって太鼓を叩くんだよ」
「今日はいい天気になりそうで、きっと暑いですよ」
「そうだろうね。きっと汗びっしょりだ」
「じゃあ、きっと朱雀の湯に来てくれますよね!」
そういうことか…よくよく聞いてみると、今日は新作の女歌舞伎狂言の牛若丸、京都五条の橋の決戦という新しい出し物がかかるというのだ。
「へえ、もちろんお絹ちゃんもでるんだろう?」
「はい、海堂様に見てほしいのは後半の京踊りですけれど、前半では大天狗の手下の鴉天狗になって、剣劇もやるんですよ」
「そりゃあすごい。ぜひ朱雀の湯に見に行くよ」
するとお絹は喜んだが、そのあとにちょっと言いにくそうに付け加えた。
「それで、お願いなんですけど、狂言が終わって玄関で木戸銭を払った後、ちょっとだけ残ってほしいんですけれど…」
「…ああ、少しだけなら構わないよ」
するとお絹は喜んでどこかへ帰って行った。
今日はぽっちゃりしたのんきな男、笛太鼓堂の手伝いを装って、今度新しく始まるという富くじを潜入捜査するのだ。森村白堂がどこかで関係してくるのかもしれない。それで新発売の富くじを広めるため、笛太鼓堂と二人、派手に踊りながら江戸の街を練り歩き、チラシを配って回るのだ。一回り回れば、お昼は富くじの販売元で弁当となり、そこでうまくすると何かを聞き出せるかもしれない。
「おはようございます。じゃあ、昨日の練習の通り、今日はお付き合い願いますよ」
配るチラシは、もうすでに今日回る道の途中に運んであり、そこで集中して配るのだという。頭から新しい富くじ、「くじ一番」の名まえと売出日と場所が書いてある板をぶら下げ、用意を始める。そしてひょっとこの目立つ面をかぶり、足踏みでもならせる仕掛けだいこを首にかけていざ出陣だ。
「じゃあ、最初はチラシのある場所まで、客寄せ太鼓で参りますよ」
「がってんだ」
最初は笛太鼓堂が、おどけて笛を吹き、歩くような軽快な太鼓を海堂が叩き、その辺を練り歩くのだ。そのうちなんだなんだと、人が寄ってきて、子供等は楽しくなって付いて回る。なんとなく気恥ずかしかったが、慣れてくると、お客が集まってくるのが快感になってくる。
「口上太鼓お願いします!」
チラシを置かせてもらった店のある辻まで来ると、笛太鼓堂が立ち止まり、
「とざいとーざい…」
と言って、新しい富くじが新発売と口上を述べる。海堂はその台詞に合わせて太鼓をドドンと鳴らす。
「よーし、チラシ太鼓で行きますよ」
そういうと笛太鼓堂は、そのぽっちゃりした体をいっぱいにおどけて動かし、富くじをおでこや手の甲に張り付け、歌って踊って、楽器も使う。
「くじだよ、くじだよ、くじ一番。当たると大きいくじ一番、いくつも当たるよ、くじ一番、ほらほら見てくれ富くじだ、あなたも当たればお大臣、さあ、今日の午後から八幡神社で売り出しだああい」
簡単な歌だが、これをあのぽっちゃりした男がおどけて踊りながら歌うとけっこう耳に残る。しかも繰り返すたびに、でんでん太鼓を使ったり、鐘を鳴らしたり、鳥笛をならしたりして、なかなかの芸達者である。その間に、海堂はチラシを配って、歩くのだ。仕掛けだいこを使って、手を使わずにときどき足踏みで太鼓を鳴らしながらだ。
それにしても、相当な運動量だ。これだけ歩き回って踊って飛びはね、それでもこの男がぽっちゃりしてるのが、海堂は不思議でたまらなかった。話を聞くと
「やせて、しょぼしょぼしてると客が来ないって言われるんで、いつも福が来るように、餅をたくさん食べて、太っているようにしているんですよ」
本当なのか? 仕事のためかもしれないが、この男、相当の食いしん坊である。一回り回って、チラシを配り終え、八幡神社に着く。社務所で用意された握り飯を、まあ、食べること食べること、相当の食いしん坊と見た。
お茶をもらって少しすると、関係者のご登場だ。海堂はひょっとこの面をかぶりなおし、部屋の隅で涼んでいた。
「さすが笛太鼓堂のお力はすごいですな。まだ、売出時間まで間があるのに、もうお客が富くじ目当てに並び始めてますよ」
笛太鼓堂に仕事を頼んだ坂崎屋源三とい言う男が、にこにこしながら入ってきた。すぐ後ろでは、この神社の宮司もニコニコしている。
「うちでも寄進を募ったり、いろいろな行事を行って、本殿の改修を計画したのだが、うまくいかなかった。でも坂崎屋さんからお話があってまかせたら、富くじのやり方から、くじ札や抽選箱の用意まで本当にお安くやってくれて…。今日もお手伝いの方が朝から売り出しの準備をテキパキやってくれて、ありがたい限りです」
すると坂崎屋は笑って言った。
「そりゃあ、うちは材木屋ですから、木切れは山ほど出るんで、安く作れるんですよ」
「それに氏子さんへの説明、チラシも刷ってくれて、笛太鼓堂まで呼んでくれて、最後に抽選やお金の用意までしてくれるとは…。なにもしないでうまくいきそうだ。もう行列があんなにできているなんて…。本当に助かりました」
「お礼は、お約束のお金をすべて渡してからで結構ですよ。まあ予定より多めに渡せるように、もう一頑張りしますので、見ていてくださいよ。うちも普請が決まれば儲けが出ますからご安心ください」
…今のところ、森村白堂の影は全くなさそうだ。でも、坂崎屋源三…? こいつは何者なのか調べてみる価値はあるようだ。
「じゃあ、笛太鼓堂の方、お願いです。夕刻まで富くじはやっておりますので、最後にもう一回りお願いします」
「かしこまりました」
そして二人はまた賑やかに出発だ。今度は八幡神社の近くを重点的に回る別の道順となる。
「午後はチラシの場所は三か所だけです。がんばりましょう」
「がってんだ!」
午後は距離ははるかに短かったが、日差しが強く、結構な暑さだった。チラシを配るたびに、水を呑んでうるおし、やっとのことで終わった。
「海堂様は、鍛錬されているからさすがですねえ。前に同じ仕事を頼んだ浪人は、午後は逃げて帰ってしまいましたよ」
「ここちよい、楽しい汗をかかせていただきました。ハハハ。ところで一つ聞きたいことがあるんですが…」
「…坂崎屋源三のことですね? やはり、そうですか」
「やっぱりおかしいですよね…」
「わたしも、坂崎屋さんがすべてを代行してやっているとは知りませんでした。なにかあやしいですよね…。坂崎屋源三は神社などに材木を下している、鎌倉の高級な材木商なんですよ。富くじの代行なんて、やったことないはずなのに…。神社の改修が進めば儲けが出るということだと思っていたんだけど…それだけではなさそうですね」
「坂崎屋さんの住所は分かりますか?」
「はい、もちろん…」
笛太鼓堂に住所を教えてもらって、海堂は帰って行った。
そして夕刻、海堂は今日は朱雀の湯に直行だ。
「ああ、今日は一段と気持ちいいなあ」
体の汚れを落とし、ザクロ口から湯殿に入ると、熱いお湯が今日の疲れをすべて取ってくれるようだった。そして外に出ると、みはからったように薄着姿の湯女がやってくる。
「髪、すきましょう。背中流しましょう」
そしてすぐにお絹がやってきて背中を流してくれる。
「海堂様、来てくれましたね。うれしいです」
そして風呂からあがり、涼しい二階でお茶とお菓子をいただく。でも今日はお絹はちょっと複雑な表情をしていた。何かあったのだろうか? でもその理由はすぐに分かった。
「海堂様、よかった、ちゃんと来てくれて、お絹がうまく連れて来てくれたようですね」
ふいに近づいてきたのはあのお浜ではないか。舞台の上では看板役者、しかもどう見ても、お絹やお浪たちより飛びぬけて美人だ。この女歌舞伎役者が、海堂を指名して呼びだしたのだから、お絹の心も穏やかではいられないわけだ。
「くわしくは終わった後でお話しします。私たちの将来が今日の出し物にかかってくるかもしれないのです。お知恵を借りたく、お忙しいところをお呼び立てしました。今日ばかりは本当にお世辞はいりませぬ。終わりましたら、忌憚のないご意見をうかがいに参ります。よろしくお願いいたします」
何があったかわからないが、お浜からはただならぬ緊張感が伝わってくる。
「わかりました。終わりましたらまたお会いしましょう」
そしてお浜はお絹を伴って、舞台の用意に出かけた。すこしすると女歌舞伎狙いの男女がたくさん階段を上ってきた。今日、新しい演目なのを聞いて、みんなわくわくしてきたようだった。
今日も最初に二人組の三味線が入ってくる。例のポンとリキだ。
「今日の出し物、いったいなあに?」
「今日の出し物はこんな感じいい!」
すると突然早く勇壮な曲に変わり、掛け合いの三味線で、お互いに喧嘩するように曲を弾きあう
「は、そーれ!」
一人は軽快な曲。
「それそれそれそれ、まけないよ!」
もう一つは豪快な曲。やがて二つが合わさってすごい迫力の曲となる。
「今日の出し物は、牛若丸五条橋の決戦なりいいい」
観客からはやんややんやの大喝采。今日は三味線からして気合いが違う。
「あれあれ、今日の主人公が現れた!」
三味線は今度は速度を落とし、物語がかたられる。
少年時代を苦労して育った牛若丸は、強くなろうと蔵間山で修行するのだった…。
いつの間にか大きさの違う三つの岩が舞台に運び込まれる。かなりの山奥の感じだ。お浜演じる牛若丸が、軽快に刀を振り回し、修行を始める。
そして蔵間の山で修行中に、突然天の声を聞くのである。
「牛若丸よ、もっと強くなりたいか?」
「ああ、なりたい、だからこんな山奥で修行をしているのだ」
「ならば手ほどきしてくれよう」
出てきたのは、一本下駄の長い花を持つ、大天狗ではないか。体つきから見て、この間の豪快な鬼の面をかぶっていた美女ではないかと思うのだが、まず、海堂ならばすぐにこけてしまいそうな、一本場の高下駄をはきこなし、普通に歩いて行く様は、見事であった。そして、大天狗は、扇子一つで牛若丸をふっ飛ばし、
「やる気があるなら、毎日ここに来い」
と言葉を残して去っていく。
次の日、牛若丸が来ると、今度は小さな羽根とくちばしをつけた鴉天狗たちが出てきて、特訓だ。
「ああ、あれがどうやらお絹だな」
口元と鼻はくちばしで隠れているのだが、目元ははっきりお絹とわかる。みんな短い刀を持って牛若丸と剣劇だ。でも、一生懸命やっているのだが、剣劇は初めてのせいか、どうも強さよりかわいらしさが出てしまう。女歌舞伎は大原則として、生の演技ではなく、踊りなので優雅すぎるのも影響している。
そして最後に牛若丸は鴉天狗のように、あっちからこっちへと華麗に飛び回る空中殺法を会得し、鴉天狗を打ち負かす。感心したのは舞台に用意された三つの岩から岩へとお浜演じる牛若丸が飛び移りながら殺陣を行うことだった。お浜の努力は並ではない。
「うーむ、お浜の努力は認めるが、どうしたものか…」
海堂はそのかわいらしい剣劇を見て、首をかしげた。
やがて大天狗が出てきて、再び戦う牛若丸。そして大天狗とも互角に戦えるようになり、免許皆伝、今日の街へと繰り出して行くのだ。でも大天狗を大きく見せようと一本場の高下駄にしたのだろうが、さすがにすばやく動き回ることは難しいようだ。
そして次の場面は京の五条の橋の上、三味線が物語を歌う間に、あの三つの岩がさっと片づけられ、橋の欄干や手すりなどの大道具がさっと持ち込まれた。京は風呂屋の二階とも思えない大がかりな舞台だ。最初、たくさんの京都風の舞妓が出てきて、それはそれは華やかな京踊りを披露する。一人ひとりがそれぞれに美しい踊りを見せ、それが群舞になっていく。衣装も金がかかっている。観衆から思わずため息が漏れるほどの見せ場であった。
「やはり、この歌舞妓たちは剣劇よりもこっちだな。お絹も見事な踊りだ」
ところが、急に三味線が荒々しく響き、上手から何かがやってくる。あわてて逃げ出す京の舞妓たち! やってきたのは刀千本狩りを誓った弁慶であった。
そして、橋を通りかかった侍を襲い、あっという間に刀を取り上げてしまう。
「これで、刀九百九十九本なりー」
「体を大きく見せるように衣装に工夫を加え、動きもよく研究している。でも、体の線が細すぎて、弁慶には見えんな…」
海堂はまたも首をかしげた。
「まてい。狼藉を働く者は、この牛若丸が許さん」
「何を小癪な」
すると鍛錬のたまものか、橋の欄干の上にすっくと立ったのは、お浜演じる牛若丸だった。そしてついに牛若丸と弁慶の対決だ。なんとお浜は欄干から手すりの上を飛び移り、すばやく伝い歩き、飛び降り、また飛び乗り、自在に行き来して弁慶を翻弄する。
「これぞ、蔵間の鴉天狗の術! 思い知ったか」
そして弁慶は降参し、牛若丸の従者となったのであった。めでたし、めでたし…。
そんな感じで「牛若丸五条橋の決戦」は終わりを告げたのであった。大きな拍手が風呂屋の二階に響き渡った。客の反応は悪くない。
歌舞伎狂言が終わり、すぐに夜の部のお姉さんたちが、鼻の下の伸びた男たちを逃がさないとやってくる。海堂は腕組みをしてどうしたものかと考えながら一階へと降りて行った。すると京の舞妓姿のお絹が飛んできた。
「海堂様、こちらへ、早く、早く…」
そして海堂の太い腕を引っ張り引っ張り、銭湯の脱衣所の横の客間に連れて行った。
「もうすぐお浜姉さんたちがこちらに来ます。それまでのお茶のお相手は、この舞妓のお絹が務めさせていただきますどすえ」
そう言って、京の舞妓風(?)に丁寧にお辞儀をした。京都の言葉にもなっていないし、なんだかおかしいが、一生懸命で可愛くもある。
「…で、どうでした、私の出番は…」
おそるおそる聞いてきた。
「…そうだねえ。なかなかよかったよ」
そう言いかけるとめずらしくお絹が怒ったようだった。
「今日は世辞はいりません、忌憚のないところをおっしゃってください。こっちは今、大変なんです」
そうか、理由は分からないが、本当に大変なことになっているようだ。でも、これで吹っ切れた。
「では率直に言おう。京の舞妓はさすがだったが…鴉天狗は動きがまだ娘のままで、剣劇にしては迫力が足りない。以上だ」
「…ご指導、どうもありがとうございました」
そう言ってお絹は頭を下げたが、今度はなかなか頭を上げない。どうしたのかと見ていると、下をむいたまま悔し涙をこすっていた。きっと今日の剣劇のためによほどの練習を積んできたに違いない。でも、それでも及ばなかったのだ…。
「おい、お絹大丈夫か?」
「平気です。これっぽっちもなんでもありませんから…!」
そこにお浜が二人の連れを伴って入ってきた。そして突然三人で正座をすると、深く頭を下げた。
「自分は女歌舞伎狂言の座長、お浜こと、はまゆうと申します」
まだ牛若丸の服装のままであった。後ろには大天狗と弁慶の衣装をつけた二人の女がいた。
「自分は、クレナイこと紅花です」
「自分は、オフジこと、富士紫です」
そしてお浜が、付け加えた。
「理由はあとでお話しします。今度若衆歌舞伎の面々と袂を分かち、対決興業となりました。正直にお答えください。今日の出し物で、勝てるでしょうか?」
若衆歌舞伎と対決? …私はこのような芸能にとくに詳しいわけでもなく、この者たちがなぜ本気で意見を聞きに来るのか、それさえも分からぬ。でもお絹もそうだが、この者たちは嘘偽りなく生き抜いている…そしてそれをまっすぐにこちらにぶつけてきている。そうとなれば、こちらも本気で立ち向かわなければなるまい。
「…では理由はあとで言おう。結論からいえば、今のお前たちでは若衆歌舞伎には勝てない…」
「…やはり…無念…」
お浜は一瞬息をつめ、悔しそうな顔をしたが、じきに晴々とした表情に変わった。
「…やはり、そう言われると思っておりました」
そして今回の事件のことの起こりを話し出した。
「じつはあの一抹一座という若衆歌舞伎の座長は岳松という河原者で、自らも芸に秀で、江戸の若衆歌舞伎を取り仕切る実力者です。そして彼の率いる若衆歌舞伎「一抹一座」はその中でも、人気は一、二を争う大きな若衆歌舞伎です。今までうまくやっていたはずでした。ところが、あの森村白堂という男が近づいてからは、言うことがおかしくなり、ついに先日、すでに禁止になっている女歌舞伎と一緒にやっていると、こちらまで禁止にされてしまうと言いだしたのです。私たちは、昔のような歌舞伎踊りではない、新しい歌舞伎狂言だと言っているのですが…」
「詳しくはわからぬ。だが、若衆歌舞伎も、幕府に目をつけられているのは確かだ」
「やっぱり嘘ではなかったのですね」
「でも、それはまだ噂にすぎない。若衆歌舞伎が、そうなるにしてもまだ何年かかかるだろう。だがその岳松という男、その辺を巧みについてきた森村白堂にうまくとりこまれたのだろう」
「森村白堂…あの男はやはり…」
「ああ、やつはいろいろ裏で悪事を計画しているようだ。ちょっとそれを調べていてね…」
「そうだったんですか…」
するとお浜の後ろにいたクレナイが言った。
「お浜ねえさんは、若衆歌舞伎に、踊りから振り付け、剣劇から舞台の物語までいろいろ知恵を貸し、力になっていたのに…。悔しいです」
そして女歌舞伎と若衆歌舞伎の間がぎくしゃくして来て、ついにはもうお浜の力はいらない、おれたちはおれたちでやるという感情論になり、勝負となったという。
「今度の若衆歌舞伎との対決に負ければ、私たちは追い出され、もう若衆歌舞伎とは完全に縁が切れます。そうなれば、江戸のあちこちにある芝居小屋では、どこも若衆歌舞伎をやっていますから、もうどこも入れてくれないでしょう。風呂屋の二階だけでは大した金になりませんので、事実上、解散と言うことになります」
「つまり若衆歌舞伎に負けると、解散になるのか? そんな切羽詰まったことに…」
すると、横からお絹のすすり泣く声がかすかに聞こえた。
「それが、時代の流れと言うならそれまでですが、私たちもこのまま消え去る気はありません、一矢報いたいのです。それで…。こんなことをお聞きするのは心苦しいのですが…」
そこでお浜はまたさっと座りなおし、頭を下げた。
「対決の日は近づいています。どうしたら勝てるでしょうか。衣装や舞台にお金を使い、もうぎりぎりです。日にちはあまりありませんが、演技や物語なら変えてどうにかなるなら、徹夜してでも間に合わせます。できることならなんでもいたします。どうか、お知恵を貸してください」
お浜は牛若丸に、それこそ命がけで取り組んだのだろう。あの岩から岩、橋の欄干から手すりへと飛び回る殺陣は修練のたまものだ。だが…。海堂は、心を鬼にして言い放った。
「日にちも予算もなく、今の演目を替えられないとすると、見せ場は剣劇が中心となる。でも、お浜が教えたのだろうが、若衆歌舞伎の若い男たちの剣劇はやはり迫力が違う。踊りを基本としたお浜たちの優雅さはないが、力強く、素早く、トンボも切れる。女歌舞伎ならではのもので対抗するならともかく、この演目では皆の持ち味が十分発揮できない…」
海堂がそこまで言うと、突然横からしゃくりあげる泣き声が響いた。お絹だった。
「ううううう…私たちが、私がいけないんです。鴉天狗の動きが娘のままだったって…」
すると弁慶の衣装をつけたオフジがくやしそうに言った。
「わたしも一生懸命やったけど、とても力が及ばなくて…」
お浜がまっすぐ海堂の目を見て言った。
「…海堂様…どうしたら…お知恵をお貸しください」
本気が突き刺さってくる。海堂はきっぱりと言った。
「…おまえたち、できることは何でもすると言ったな」
「はい、なんでもいたします」
「…では女歌舞伎の誇りを捨てることができるか?」
お浜が真剣な顔で答えた。
「誇りを捨てる…。いかようなことでございましょう」
海堂は胸にあった考えを素直にお浜に伝えた。
「…そのようなこと夢にも思いませんでした…。わかりました、あらゆる手を尽くしてやってみましょう…。実現するかどうか…。そして、明日の夕刻、お絹を迎えに行かせましょう」
「承知した。では明日会おう」
次の日、午前中はしとしと雨だった。
「夕べ遅くから降り始めたんですけど、海堂様はちゃんとその前にお帰りになられてよかったですね」
昨日は海堂がすぐ朱雀の湯に出かけて、しかもいつもより少しだけ帰りが遅れたのをお浪は心配していたのだ。
「海堂様だけ、特別に玄米ご飯と、あさりの味噌汁、サバの味噌煮を用意しましたから、たくさん食べて精をつけてくださいよ」
天の助の話から、だんだん献立も変わってきた。本当に体に力がつくような気がする。海堂は朝食を終え、七五郎が届けた老中からの返答を読んで首をかしげていた。
「…おかしい。この老中の手紙では、浪人などにはやはり簡単に富くじは始められないということだ。きちんとした寺社の普請や改修がないとそもそも申し込めないし、寺社奉行の許可もいる。抽選の場には不正がないように与力も立ち会うそうだ。例の寺社奉行関係の旗本にも秘密裏に確認したが、森村白堂も富くじの始め方を聞いて来たので、寺社の普請などがないとだめだし、寺社奉行の許可は簡単には降りないと話してあきらめさせたそうだ」
海堂は大きくため息をついた。
「…これでは、もう一度捜査のやり直しか…」
海堂は午後から雨が上がったので時枝屋の主人に地図を借りて街に出た。
「ええっと、神田の裏手になるのか?…」
海堂は地図に従って、北側に広がる台地へと進んで行った。昨日の笛太鼓堂との聞き込みで、笛太鼓堂に教えてもらった坂崎屋の住所を思い出し、とにかくなにがどうなっているのか尋ねてみることにしたのだ。
「ええっと…地図ではこのあたりだが…」
新しい木材の香りが漂ってくる、そこは大きな材木問屋であった。けっこう人が出入りしていて、木材を荷車で運び出す人足の姿もひっきりなしだ。
「…あのう、すまぬが…」
番頭や人足に話を聞こうと店に近づく海堂。
「富くじの代行? うちは材木屋だよ。そんなのできるわけないさ」
おかしい、何人かに聞いてみたが同じ答えだ。そしていよいよ店の中に入ろうと思った時だった。海堂は声をかけたが、店の者が近づいてくると、急に遠慮した。
「あ、なんでもござらぬ…」
すぐに材木の影に隠れなければならなくなった。あいつだ、あの森村白堂が、店の中にいたのだ…。しかもあの坂崎屋の主人と、さっそく出来上がった富くじの札を見ながら打ち合わせをしている。
「やはり白堂が…。代行をしているのは坂崎屋ではないのか? 何を狙っているんだ…」
海堂は粘って、白堂に見つからないようにしばらくその付近で聞き込みを続けたのだった。
そして夕刻まだ早い時間、部屋にもどって用意していると、お絹が迎えにやってきた。
「お絹、どうだい、少しはうまくいったかい?」
「うまくいったところと、ダメなところがありますが、うまくいったところのほうが多いです。まだまだこれからだけれどすこし見通しがついたって言うか…。ありがとうございました。では、こちらへ…。これから一緒に猫御殿に参ります」
…猫御殿? はてさて、聞いたことがない…野良猫がたくさんいるお屋敷か?
しばらく歩いて街外れまで来ると、うっそうとした木が茂る大きな庭のあるお屋敷についた。ここが猫御殿か? でもとりあえず猫はまだ一匹も見かけない…。
「広いお屋敷でしょ、ここの広間やお庭を借りて、私たちの一座はよく練習をしているんです。母屋の方にみんなが待っていますよ」
「ほう、こ、これは…」
緩やかに曲がる石畳の小道の周りは、自然に木が茂っているのかと思えばさにあらず、道のわきを流れるせせらぎに沿って、梅の庭があり、桜の空間があり、奥には楓や紅葉と、幾重にも手の懸けられた林になっている。そしてそのすべてを見渡せる境目あたりに、大きな傘を広げたようなきれいな東屋があり、その周りには、腰を下ろすのにちょうどいい大きな石や岩が大胆にいくつも並んでいる。
「あの東屋にみんな桜やモミジのころに集まって、野点と言うのをやったんですよ。湧水の湧き口から水を汲んで、お茶をいれて、おいしいお菓子を食べるんです。私も二、三回出たんですよ」
そして少し歩くと母屋が見えてくる。豪華な造りではないが、よく見ると縁側から庭園への張り出しがあったり、丸い小窓があったり、なかなか風流な造りである。母屋の前にも池やせせらぎを使った見事な庭園が広がり、海堂が覗き込むと、小さな川魚がたくさん泳いでいた。
「ようこそ。お待ちしておりました」
「なんと、紫門どの。そうか、ここはあなたの…」
迎えに出てきた主人を見れば猫面の紫門である。なるほど猫御殿だ。
「じゃあ。あたしは、海堂様が来たって姉さんたちを呼んできます」
お絹はそう言って、屋敷の中へと駆け込んで行った。夕刻とは言っても夏至が近いのでまだまだ日は高い。
「みなさん、あちらでお待ちですよ」
紫門に案内されて奥の林に入ると、中には、石材や木材など庭を作るための建材置き場があり、そこの広場で三人の男が辻相撲の訓練を黙々とやっていた。黒獅子はすらっと背の高い若い男に中国拳法の型を教え、天の助は大木に縛り付けられた砂袋に、突きや蹴りを無心で打ちこんでいた。
あれ? でもすらっと背の高いこの若い男は…? 何回も見たような気がするのだが、どうも名前が出てこない。すると黒獅子が笑って言った。
「海堂様よくいらっしゃいました。ここは私の秘密の練習場としてよく借りている場所なんです。ええっと、こちらの男はまだ紹介していなかったですよね」
「ううむ、どうも、以前にもお主にあった気がするのだが…」
「わからなくとも無理ありません。彼は、そう、あの菊丸ですよ」
「あ…」
海堂の目が点になった。菊丸。そう、あの若衆歌舞伎の花形だ。美しい顔立ちとたおやかな身のこなし、でも今日は長い髪を後ろで無造作に束ね、上半身はさらしを巻いている。いつもの女の姿ではない。わからないはずだ。
「おれも、背は伸びるし年齢的にも若衆歌舞伎はあと一年が限界だ。次のことを考えないとね」
そう言って笑った声はけっこう力強くて勢いがあった。でもなんで袂を分かったはずの若衆歌舞伎のしかも花形役者がここにいるのだろう。
「お浜たちが来る前に、こちらの話をしておきましょう。彼、菊丸が私たちの辻相撲三人組の第三の男なんです」
「ええ? 辻相撲に出るんだ、その菊丸が?」
それはまったく頭になかった人選だった。
「海堂、この菊丸ってやつは、舞踊ってのを小さいころから仕込まれたんだとさ。細っこいけれど、しなやかで実に強い足腰を持っている。踊りがうまいせいか、勘も良くてメキメキ強くなってるぜ」
天の助にほめられると、菊丸はちょっと笑顔を浮かべた。
「でも、この二人が化け物みたいに強いから、自分が強くなってる気はしないよ。毎日子ども扱いだ」
海堂が笑いながら言った。
「まさか、本番は女姿で戦うわけじゃあるまい?」
「いやあ、やるよ。女姿で辻相撲に出るさ。やるからには目立たないとね…!」
なんともすごいことになってきたようだった。そしてそこに、お浜たちをお絹が連れてきた。主人の紫門は広場の隅で、置いてある木材に腰掛けて猫面のままこちらを静かに見ている。
「海堂様、よくぞ来ていただきました。すぐにご報告を」
お浜のその言葉を聞くと、菊丸は荷物をまとめ出した。
「今度の女歌舞伎とのいがみ合いはうちの岳松のおやじが湯気立ててるだけで、おれたちには関係ないんだけど…。でもお浜がここにきて黒獅子さんたちに何か頼んでたよな。もしかして、辻相撲との合同興業か? まあ、こっから先の話は聞かないようにするぜ。じゃあ、また明日練習に来るよ。お手柔らかに、よろしくな…」
若衆歌舞伎の花形、菊丸はそう言って帰って行った。
「…昨日の海堂様からのお話ですが…」
「大変なことを頼んで悪かったなあ。で、どうだったんだい?」
「私たちはこちらのお二人に、誠心誠意頼んでみました。その結果…」
すると黒獅子が苦笑いしながら言った。
「お浜さんの人生最大の危機だって言うから、断るわけにはいかないよ」
天の助もうなずいた。
「おれも、乗りかかった船だ。とことん付き合うぜ」
二人は快諾してくれたのだ。
「そして…何人かの力士に声をかけましたが。あまり進んで受けてくれる人はいませんでした。でも、二人だけ、来てくださいました」
「何? 二人も来てくれたのか?」
オフジがさっと飛んで行って、母屋に来ていた二人を呼んできた。一人はあの全身刺青の身軽な火消、龍神の雷蔵だった。
「ただし、火事がおきたら、すぐ俺様はいなくなるかもしれないぜ、はは」
そしてもう一人はあの地獄の曲芸師、弁天丸だった。
「黒獅子と戦えるなら、なんでもやるぜ。また、お前より目立ってやるさ、ははは」
屋根から屋根へと瓦の上を飛び回るのが仕事の火消の雷蔵と、柱に駆け上がって空中回転した弁天丸、これは心強い。
だが、このわずか四人が加わっただけで若衆歌舞伎の優位をひっくりかえせるのだろうか…。対決興業の日はすぐ目の前に迫っていた。
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