第八話 百瀬の離れ

 その日、海堂は朝から今度は庭師の下働きとして紫門に連れられて、百瀬の離れのそばで働いていた。

 広い庭には歩くほどにいろいろな工夫や仕掛けがあり本当に丹念に作ってあるとしみじみ思った。京都の銀閣寺や龍安寺はみな河原者出身者の作で、ここ江戸の千代田城の二の丸庭園などは紫門が手掛けたという。天海や張孔先生に会った時、海堂が訪れた如庵がまさにその場所であったことをしみじみと海堂は思い出した。

「深山の森や湧水、清らかなせせらぎが縦横無尽に再現され、全体として大きな調和の中にある…この一族の頭の中はどうなっておるのか。毎日森や川を走り回っていたその血がすごい力を発揮させているのだろうか?」

「海堂殿、落ち葉などの汚れは取り去らねばなりませんが、取りきってはなりませぬ。森を思い浮かべて作業ください。」

 猫面の紫門の言うことは、なかなか難しい。だが、海堂も釣り好きで、谷川や森には親しみがあるので、それを思い浮かべ、なんとなくこなしている感じだ。

「海堂殿はなかなか筋がいい。またお願いしましょうか?」

「筋がいいなどと言われても恥ずかしい限りで…」

 すると猫面の紫門は静かに語りだした。

「本当の森ではすべてが大きな輪廻転生の円環の中で回っております。そこでは無駄な死はなく、すべての死は次の生を芽生えさせます。でもわがままな人間はその自然のまねごとをほしがるのです。でも作られた自然は円環から外れたいわゆる厄を生み出してしまう。だから我々は絶えず庭に出て庭を見て、厄を落として行かなくてはならないのです」

「わかりました。ありがとうございます」

 本当は夕刻からの離れでの浪人たちの酒宴を見張るためにここに来たのだが、何か精神修養で来たような気さえする。この庭に入った途端、江戸の街の雑踏は忘れ去られ、水のせせらぎの響き、水車の緩やかな音、白糸の滝の複雑な水音などが空気を支配する。

 そしてここで見る紫門の猫面は全然違って見える。人間はおごってはならない、自由気ままな猫のようにそっと溶け込むように在るべきなのだと、無言で語っているようにも思えてくる。そして、お浪の手配してくれた相模女の一人が、打ち合わせと称して庭にすーっと入ってくる。離れの外で海堂と猫面の紫門が待機していて、もしなにかあれば、この相模女から連絡が入ることになった。

 やがて夕刻、会の主催である金の鯱の森村白堂がお伴を三人連れて到着、皆を受け入れる準備を始めた。そして帝国が近づく。まず文月の会の代表、藤田陣内がお伴を一人連れて、早々と到着。次にやってきたのは、一人で来た張孔先生であった。ところが先生は白堂の案内で、しばらくの間豪華な別室に通されていた。それから、江戸の騎馬の土岐雄山と桂木双鶴、最後にあの浪士砦の館脇辰之進が相棒でやはり強い力士でもある古村兵庫を伴って入場。すべての顔がそろった。

「張孔先生、最初に皆で簡単な打ち合わせをいたします。それがすぐ終わりますから、そこで入場していただき、先生のお話をしていただきたく存じます」

「うむ、承知した」

 全員が離れに揃うと、白堂の司会で簡単な打ち合わせが行われた。思ったより早く打ち合わせは終わり、先生は離れに案内された。だが、一歩先生が離れに入った瞬間、予期せぬ出来事が起きた。なぜか大きな拍手が起こり、みんな笑顔で先生を迎えたのだ。…どういうことなのだろう…白堂め、打ち合わせとか言って、みんなに何を吹き込んだのか?

 あのさわやかな歌舞伎者森村白堂が言った。

「では、先生お話をお願いします」

「うむ」

 張孔先生はなるべく、分かりやすく酒宴の前なので短めに、自説の浪人論を述べた。

 浪人の実情と問題点、そしてその原因が幕府の力ずくの支配体制にあることなどを述べた。

「解決するためには、まずこれ以上浪人を増やさないように末期養子の禁等を改め、改易それ自体を減らすこと。次に今は原則として難しい浪人の再仕官の道を開くこと、そして浪人をまとめ、評判を落としている犯罪そのものを自ら正し、浪人たちを導くことが大切である」

 そして張孔先生は勢ぞろいした浪人集団の代表を見回して付け加えた。

「各浪人集団で、助け合い、意識を高めあうことこそが大事です。それは皆さんの力なしには実現しない。そのためには私も協力を惜しみません」

 先生の話が拍手の中終わると、それぞれの代表が一言ずつ話したが、どれも今の先生の話がその通りだという者ばかりであっという間に終わってしまった。拍手の中、森村白堂が最後に立ち上がった。

「先生、まったくその通り、感銘を受けました」

 そして白堂は意外な提案を始めたのだった。

「先生のおっしゃる通りだ。今は浪人集団がいがみ合ったり、足を引っ張ったりしている時ではない。私も行いを改め、浪人全体のために尽くしたいと思います。今、うちの金の鯱の間でも問題になっている用心棒問題や浪人賭場はすべて取りやめ、姿勢を正したいと存じます」

「おお…」

 みんなが驚きの声を上げた。金の鯱の資金源の一つである賭場をやめるとは…。するとそれに呼応し、辰之進も相棒の古村兵庫と相談し、話し出した。

「…まったくおっしゃる通りだ。うちの浪士砦も武術道場からの無理な上納金を改めよう。姿勢を正していこう」

 それは、今までにない、流れであった。白堂が続けた。

「世辞ではありません、その証拠に金の鯱の団員から百名を先生の塾に通わせます。いかがでしょう」

「それはなぜですか?」

 張孔先生の質問に白堂はよどみなく答えた。

「浪人の意識を高め、けじめのない行動に走らないようにするためです」

 …何を始める気だ? この男は…? しかし、ここは断る理由もないので、うなずくしかなく…。ところが一度うなずいたら、次に浪士砦の辰之進が、うちは二百人お願いします、江戸の騎馬の土岐雄山も二百人お願いしますと言ってきたではないか。先生の軍学塾が繁盛するのはいいことだが、なにかがどうかしている…。だが、別の見方をするなら…、浪人の志を高めようという方向でどこも協力するということだ。この中で唯一話の通じそうな藤田陣内に目をやると、ここはとりあえずうなずくしかないでしょうといった感じで合図してきた。なにかにうまく乗せられたのか? もしかして…。

 大きな拍手と声援まで起きる。特に江戸の騎馬の槍の達人、桂木双鶴はさっと先生に歩み寄ると、深く頭を下げた。

「この双鶴、先生のお話にこれ以上ない感銘を受けました。命をかけてお手伝いいたします」

 うれしかったが、やはり何かがおかしい…。そして、そこでたくさんの女中が入ってきて、酒と料理だ。百瀬の離れと庭の新装に際し、料理も新しく作り直された。豆腐や湯葉を中心に、山菜や里芋、沢ガニ、川エビ、川魚などを組み合わせた深山御膳だ。

「いやあ、珍味、珍味、とくにこのカニやエビは酒が進みますなあ」

「タニシの佃煮もこりこりしていい味ですよ。え、やはり灘の酒ですか? やっぱり下りものはちがうねえ」

 沢ガニは脱皮中の柔らかいものを集め、酒と甘辛のたれで仕上げそのまま食べられる。唐揚げにされた川エビは柚子でしめられ、キクラゲとあえてある。その他にも酒呑みにうれしい特別仕立てだ。百瀬の主人、百瀬九衛門もこっそりみんなの反応をのぞきに来ていた。

 庭では猫面の紫門と海堂が暗くなった庭にかがり火と蛍の用意を始めていた。

「よし、準備ができました」

 紫門が合図を出すと、百瀬九衛門がみんなに挨拶に出た。丁寧に説明とあいさつを終えると、こう付け加えた。

「ではささやかな趣向を用意してございます。お庭をご覧ください」

 打ち合わせ通りに障子がさっと大きく開け放たれ、夕刻の涼しい風がすうっと離れに吹き込んでくる。

「おお、ほ、蛍じゃ。こんな町中で…」

 この瞬間のために昨日までに集められた数百の蛍が暗がりの庭で光り、飛び交った。せせらぎの水音、水車の音、白糸の滝の雫の音が一杯に響き渡った

 迷い込んだ蛍が縁側で光り、それを見ながら呑む酒も格別であった。やがて趣向の時間が終わり、庭の数か所でかがり火に点火された。明るくなりすぎず、でもいままで暗がりで見えなかった庭の奥までが見渡せる絶妙のかがり火の配置であった。実はずっと庭の奥まで水路が伸び、山里風の橋があったりささやかな山野草園があったりと奥行きを見せるのである。酒宴はさらに盛り上がり、みんな酒も進んできた。すると相模女の女中がさっと庭の海堂のところに助けを求めにやってきた。

「紫門どの、行ってまいります」

 海堂が駆け付けると、酒宴の一角が凍りついたような緊張に包まれていた。

 なんと酔っ払った江戸の騎馬桂木双鶴が、槍を引っ張り出し、森村白堂に喰ってかかっているのだ。

「わしは気持ちがよいので、得意の槍の舞を見せようと言ったまでじゃ。それがこの男はやめろとぬかしおる。どういうことじゃ!」

 いくら槍の名人と言ってもこの離れで槍を振り回したら、酔っていることもあるし、危なくてしょうがない。でもそれを言うと、双鶴は

「わしを信頼できぬと申すのか?」

と、ますます激情する。困って笑ってやりすごそうとした森村白堂は、その笑いがかえって双鶴の逆鱗に触れたようであった。するとそこにさっと海堂が入ってきた。

「おお、これは見事な槍でございますねえ。この使い込みは相当な達人だ」

「ほう、お前は槍の使い込みが分かるのか? 誰じゃ」

 海堂も槍の名手であり、双鶴の槍のほめどころは一目で見抜いた。

「庭師の弟子でございます。実はこの庭、今日がお披露目でございます。それを記念して、庭で槍の舞を披露していただけないでしょうか?」

 やめろと言ってもますます意地になるこの男、やめさせるのが無理ならば、早々と場所を変えるのが得策と踏んだ海堂であった。見れば、庭にはあちこちにかがり火がゆらめき、槍を振るうような広い場所もある。

「おぬしがそこまで言うなら…分かった、庭に出よう」

 どうなるかと思ったがみんな、一息ついて双鶴を見守ることにした。

「ではこのめでたい席を祝意して、背突きの舞をご披露申す」

「おおっ!」

 双鶴が槍を構えた途端、その重くて長い槍は、重さがなくなったように軽くなり、ゆらめくかがり火を受けて、しなやかな動きが見事に浮かび上がった。みんなはっきり見ようと離れの縁側に移動したため、かがり火に浮かび上がった庭がさらに良く見渡せ、新しい庭の疲労として、本当にふさわしい舞となった。

 舞が終わっても、日ごろの鍛錬が行きわたった双鶴は息の乱れもなく、皆の歓声を受けてこちらに戻ってきた。

 みんながそちらに見とれている間に、張孔先生が,近づいてきてそっと言った。

「おぬし、海堂だな。うまくおさめた手腕、見事だった」

「恐れ入ります」

「頼みごとがある。今日の帰り道、藤田陣内と一緒になれるように手はずを取りたいのだが…できるかな」

「はは、すべて段取りをつけさせていただきます。ご心配なく。連絡はあれなる女中ととれるようにしておきます…」

「うむ、かたじけない」

 そして、酒宴も無事に終わり、少し早めに帰ることになった張孔先生が店の外に出ると、そこにはもう藤田陣内が来ていた。


「それでは先生は、最初の打ち合わせの内容を全く知らないのですね…白堂め、真意が見えぬ…」

 文月の会の代表、藤田陣内は驚きの色を隠せなかった。

「やはりな、してやられたらしい。して、どのような打ち合わせがあったのだ。かなりの短時間だったと思うが…」

 東の空に大きな月が昇ってきたころ、二人はお伴をつれて夜道を歩いて行った。

「実はあの打ち合わせの時、白堂はみんなを集めて三つの話をしたのです…」

 一つ目は我々浪人は長い目で見れば一つにまとまっていかねばならない。だが、自分はそのまとめ役ができる器ではない。今日の話し合いの中で、それを考えてほしいと。そして二つ目として、今日は器の大きな方にお越しいただいている。それは張孔先生である。浪人をどう救済していくのか、具体的なお話をしていただけるそうだと…。

「な、なんと…? その話の流れでは…」

 先生はだんだん話がつかめてきた。

「そして、三つ目の話はこうでした」

 先生はあれだけのお方なので、大名から士官の話は数知れず。でもそれをすべて断ってきた。それはすべて浪人たちのためだと…。

 それは嘘ではない。…白堂はきわどいところをついてきたようだ。

「そしてついにこの間幕府から大抜擢の話がやってきたが、先生はついにそれもお断りになった…。浪人のために…」

 幕府からの話を断ったことをどうして森村白堂がつかんでいたのだ…。やられた。すべて事実だが、それをつなげると…!

「だから私たち浪人集団はだれもが張孔先生が、幕府の士官を断ってまで、浪人のまとめ役として名乗り出たのかと思い、これから先生の話を聞いて、その判断を下そうと期待して迎えたのです…」

「そうだったのか…」

「そして、果たして先生の話は素晴らしかった。みんなその通りだと言うしかなかったわけです。この人に全体のまとめ役をやってもらおうと…」

 そしてどこも姿勢を正し、ばかな行いを改め、つまらぬいがみ合いはなくしていこうとまとまりはじめたのだというのだ。白堂が自分のところの浪人を百人、塾に入れると申し出て、競ってどこも入れると言いだしたわけだったというのだ。張孔先生が浪人をなんとかして助け、救おうと思っていたのは事実だ。だが自分が名乗り出てその代表に収まるなどとはこれっぽっちも考えていなかった。だが、実際白堂にうまく乗せられ、一つにまとまって行こうという機運まで形作られてしまったのだ…。

「私は、浪人集団がひとつにまとまっていく土台ができたことは悪いこととは思いませんが、先生には突然で不本意なことでしょう。どうなされます」

「一つにまとまっていくことは、私がやろうと思ってもできなかったこと。白堂が何を考えているのかはわからぬが…。できたらこれをさらに進めたいのも本音である…」

「そうなさってください。白堂が何かを仕掛けないように、こちらも目を光らせております」

「藤田陣内殿にそうおっしゃっていただければかなり楽になるというものです。分かりました。この状態の中でお互いに連絡を取り、高めあってまいりましょう」

 それにしても森村白堂の真の狙いが見えてこない。やつは何を狙っているのか…。先生と陣内は悩みつつも帰路に就いた…。

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