第四話 神の拳

 海堂が天の助に何かを感じていた頃、上野寛永寺では、天海は高弟たちと一心に読経に励んでいた。江戸の鬼門を守る寛永寺の大切な日課であった。都の東北にこの京都の比叡山延暦寺を模して寛永寺を作り、大鳥居や金色の社殿を持つ上野東照宮を建立し、近くには琵琶湖を模した不忍池を作り、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山延暦寺と同じ役目を果たすように計画した。万全の備えのはずであった。だが、今日は朝から天海は今までにない心の乱れを感じていた。

「…おかしい…どうしたことじゃ? 地霊のどよめきが聞こえるようじゃ…」

 なにやらただならぬ気配を感じた天海であった。

「うぬ…こ、これは?」

 その刹那、天海の前に不思議な風景が迫ってきた。天海は気を失い、そのまま床にことりと倒れた。高弟たちはあわてて駆け付けた。

「大僧正様!」

「天海様!」

 いくら元気で若いと言っても百才をとうに超えている。万が一のことがあったら大変だ。天海はすぐ、涼しい隣室に移され、弟子たちに心配そうに見守られていた。

「やはり、心配です。医者をすぐ連れてまいります」

 一人の弟子が立ち上がった。だが、その時天海はうっすらと目を開けて弟子に言った。

「医者の必要はない。わしの天命は尽きておらぬ。心配かけた…もう、大丈夫だ」

 天海は起き上がり、弟子に水を一杯頼んだ。

「…まさしく生き返ったようじゃ…」

 天海はそう言って、深井戸の冷たい水を飲み干した。そして本堂にもう一度高弟たちを集め、今体験した不思議な夢の風景を語りだしたのだった。

「最初に見たのは、満点の星空であった。その星の中心に妙見菩薩の顔が浮かび、よく見ると、それは北天の中心の北極星であり、北斗七星であった。次にそれを見上げる山の民が映った。彼らは小さく強力な弓矢を持ち、腰に毛皮をつけ、星を信仰し、星によって方角と時刻を知り、獣を追った。だが、最後に見えてきたものはひどいものだった。朝廷が送り込んだ何万もの軍勢が、星を信仰する野城を焼き尽くし、村を焼き、女子どもまで皆殺しにした。朝廷は土地に縛られることを嫌い、自由に暮らす彼らの生き方を、狩人の強靭な武力を恐れたのじゃ」

 高弟たちは静まりかえった。

「天海様、その夢はいったい何を現しているのでしょう?」

 すると天海は諭すように語った。

「…江戸は新しい街じゃ。確かに家康様が来られるまでは上杉や太田道灌、その前は豪族の江戸氏がおさめておった。だがもっともっと前はだれも知らぬ。だが、朝廷の力がまだ東国まで及んでいなかったとき、ここには、野まで獣をおい、海で魚介をとる、自由な民が大勢いたのじゃ。きっとその者たちは星を信仰していたのじゃろう。そしてこの国が成立する過程で、その者たちは追いやられ、征服されていったのだろう。…我々はそれをその歴史をきちんと心に刻んで、ここを守っていかなければならない…ということだ」

 すると高弟の一人が訊いた。

「天海様、勉強不足で失礼します。その征服された人々は、もうこの江戸にはいないのでしょうか?」

 すると天海は真面目な顔で答えた。

「士農工商の下に、えた・ひにんとあるのは知っておるであろう。その中の動物の解体や革製品を作るもの、能・狂言、女歌舞伎や若衆歌舞伎を行う河原者などがその子孫と言われておる。彼らの中には竹細工などの工芸品作りや庭園の造形に優れたものもいる。もちろん山の中に逃げ、昔の狩猟生活をしておる者もいるかもしれない」

 みんな初めて聞くような驚きを隠せなかった。

 すると、別の高弟が尋ねた。

「ではなぜ、今なのでしょう。天海様、今、江戸に何かが起きているのでしょうか?」

「この間から皆に話しているように、今江戸では急激に浪人の数が増え、人の気が乱れてきておる。まだはっきりはせぬが、その中に地霊を動かすような何かが潜んでいるのかもしれぬ。わかったら、すぐに話そう。今はこれまで」

 弟子たちはそれぞれの場所に帰って行った。天海は、弟子の一人に誰かを呼びに行かせた。その日の午後、一人の修験僧が天海を訪れた。

「天海様、駿空殿がお着きです」

「うむ。すぐに会いましょう」

 ついに天海が動き出した。


「な、なんだあいつらは、チンピラの歌舞伎者ではないか?」

 海堂が目をぱちくりさせた。午後、大会出場者の最終予選が始まり、辻相撲の会場に、勝ち上がってきた四つの団体が入場してきた。だが、その中にあのごろつきどもが混じっていたのだ。行司が各団体の名を読み上げる。

「暁の拳!」

 あの派手な鋼丸を先頭に、体の大きい岩鉄、銀蔵と続いてくる。だが今日は、残りの二人も同じような派手な衣装を着ていて、中央で三人が並ぶと、三人の着物の柄がつながり、胸にも背中にも、迫り狂う大波が浮かび上がるのだ。さらにこの三人に特徴的なのは、全員ひじから先に包帯のような白い布をぐるぐる巻きにしている。拳を傷めないためだという。つまりこいつらは、相手を殴って殴りまくるのが武器らしい。

「おれたちは、分厚い樫の木の板に、一日千回ずつ拳を打ち続けて、だれにも負けない神の拳を手に入れた。はは、おれは予言する。おれたちはこの戦いで優勝する!」

 どこからくるのかこの自信、神の拳は本物なのか、観客は冷静に見守っていた。

「鉄砲兄弟!」

 続いて入場してきたのは足軽鉄砲隊風の衣装を着た三人組だ。この時代はまだ化粧回しと試合に使う締め込みが分かれておらず、まだ麻の締め込みを使っていた。鉄砲兄弟は、重厚な黒に染めた締め込みで揃えていて、精悍な感じだ。三人ともなるほど鉄砲をかついでいるし、その体もみんな同じようにでかい。だが、実は三人とも村相撲の横綱で、兄弟でもないし、足軽でもない。実は農民なのだという。三人とも張り手が得意で、鉄砲という名前はそこから付いたという。じゃあ、なぜみんな鉄砲を持っているのかと言えば、獣が作物を食い荒らす被害はこの当時もひどく、猟銃は農民の必需品だったからだ。どの力士も正統派で強く、今日の優勝候補だ。

「暴れ川!」

 旅行者を背負って川を渡る川越人足たちだ。まとめ役の流れの鉄五郎は、一度巡業に来た京都の力士に勝ったという相撲好きで、三人抜きも達成したことがあり、人気も高い。三人とも怪力で、流れにも負けないしっかりした足腰はダントツだ。

「神田太鼓組!」

 さあ、今度は半纏を着た若い江戸っ子が掛け声をかけながら登場だ。二人が太鼓を抱え、一人が太鼓の台を運んでくる。付き添いの若い衆が一緒に掛け声をかける。

「行くぞ! ソーレ!」

 ドンドンドン、ドドンドドン…!

 二人が太鼓を両側から打ち、一人が鐘をたたいて、見事なばちさばきを披露。躍動する若い筋肉、大喝采だ。この三人は神輿を担ぐ力をつけようと、街の相撲道場に入門、メキメキ力をつけてここまでやってきた。元気のよさと人気ならダントツ一番だ。

 この四組がくじを引いて対戦し、優勝者が本戦に出られる。そして優勝が決まってから、今日の大一番。最後にはもう本戦に出場が決まっている車組と、玄武の前哨戦が行われる。この優勝戦には莫大な掛け金が乱れ飛び、出場選手たちも、一回勝つだけでもかなりの賞金が出るので、負けられない。

「宗家殿、私は仕事なので賭けはしませんが、どこが優勝しますかねえ」

 海堂が話しかけると一刀斉達人は、少しいぶかしげな顔をした。

「…ううむ。実力から行けば、鉄砲兄弟だろう。やつらは経験もあり、稽古量が半端ではないからのう。三人とも張り手の威力はすごい。対抗馬は暴れ川だ。足腰も強いし、体も大きい。まとめ役の鉄五郎は本当に相撲が好きで人気も高いしのう。だが、とにかく分からないのは、名前も派手な暁の拳だ。わしが見たところ、本当に強いのは銀蔵という男だけで、あとの二人は素人同然。なのにここまで勝ち上がってきた…。よくわからんのだ。ただやつらの後ろについているのは、金の鯱と呼ばれる金儲けの浪人集団だ。ほらやつらの後ろにいるのが、金の鯱を牛耳る森村白堂だ。なにかとんでもないことを考えているのかもしれん…」

 なるほど、いかにも金のありそうなしかし、二枚目で思ったより若い浪人がやつらの後ろにいる。なにやら暁の拳にかなりの大金をかけているようだ。さわやかに笑っているが、暁の拳は本当に強いのだろうか? その時、会場がワアッと盛り上がった。この後の最終戦で戦う、すでに勝ち上がった強豪たちが姿を見せたのだ。化粧回しのような刺繍のある回しをして入ってきたのは、いかにも相撲取りの華やかさを漂わせる車組だ。気品ある花の刺繍が最強の花車、渦巻く黒蜘蛛が嵐車、大波が波車だ。ここはあの恰幅のいい為三郎親方の最強の部隊だ。そして全身黒ずくめの衣装で実を包んだ不気味な集団玄武も入ってきた。あの辰之進の率いる一の槍に代わって、今日車組と戦う実力者集団だ。どう見ても忍者の集団だが、その妥協ない攻撃から闇ガラスの異名を持っている。すばやい狐美、がっしりした鵺、切り裂く手刀の鎌いたちだ。

 そして、準決勝第一線、暁の拳と鉄砲兄弟の対決がいよいよ始まる。暁の拳は、あの押し寄せる大波の衣服で入場、中央で相手を殴り倒すように拳を振り回して大喝采を浴びる。だが鉄砲兄弟も負けてはいない。鉄砲兄弟はなんと中央で三人が銃をかまえ、空砲を撃って、会場を震えあがらせる迫力だ。

 両者の賭け率はやはり圧倒的に鉄砲兄弟だ。やはり町のチンピラにはまったく信頼がないようだった。

「はっけよい、のこった」

 鉄砲兄弟の先兵、小六がものすごい張り手をかましながら突進、真正面からぶつかって行った銀蔵は、技らしい技も出せないまま押し倒された。一番強いと言われていた銀蔵は、あっけなく負けてしまった。このまま鉄砲兄弟の圧勝かと思われたが、勝負は怪しい展開を見せたのだ。

「はっけよい、のこった!」

 次は鉄砲兄弟の技師と呼ばれる重蔵と暁の拳の巨漢岩鉄の激突だ。だがまともにいったら勝てないと思ったのか、岩鉄は立ち合いを左にかわし、横から一発拳で殴った。だが、あり得ないことに、その一発で、技師重蔵の動きが止まってしまったのだ。

「どうした、重蔵!」

「あれが、神の拳なのか?」

 いつもの華麗な投げ技も張り手もだせないまま、そのまま連続して岩鉄の拳を何発も受け、そのまま倒れたのだった。最初の一発で脳震盪を起こしていたらしい。なんという拳の威力。一対一となり、どちらが勝つのか、雲行きがおかしくなってきた。そしていよいよ決着戦、相撲兄弟は五平だ。黒牛の五平の異名をとる日焼けした巨体で、容赦なくぶちかます恐ろしい相手だ。対するはチンピラの鋼丸、身長はあるが、やせっぽちで、黒牛の五平に勝てるとは到底思えない。

「はっけよい、のこった!」

 張り手を討ちながら、頭からぶちかます五平、最初の一撃から鉄拳攻撃に出る鋼丸。すごい音がして五平の張り手は鋼丸の胸を打ち抜き、鋼丸の鉄拳は五平の脳天に突き刺さった。さあ、どうなる? やはり体重ではるかに劣る鋼丸は後ろに吹き飛んだが、うまくこらえて攻勢に転じる。一方の五平は、動きが止まり、信じられないという顔で頭を振っている。どうも黒牛に鋼の拳が打ち勝ったようだった。

「へへ、もらったぜ」

 鋼丸が、拳を振り上げ、一発、二発と殴っていく。なんということ、確実に効いている。あの黒牛が、ふらふらになり、張り手も交わされてしまう。そして最後に鋼丸の渾身の一撃を受けると、どさっと倒れ込んだ。

「暁の拳!」

 大本命の鉄砲兄弟が敗れて,会場は大混乱だ。人気のない暁の拳に懸けた森村白堂は、とんでもない大金をすでに手に入れていた。

 そして、いよいよ準決勝、こちらの方は大盛り上がりの名勝負の連続だった。暴れ川のくらいついたら離れない不屈の闘志、すっぽんの亀吉ががっちり組んで投げようとすれば、神田太鼓組の切り込み隊長の勘吉が何度も何度も切り返し、その粘ること粘ること、付き添いが応援で太鼓を叩き出し、観客の掛け声が飛び交い、最後に小六が押し切った時には、もう割れんばかりの拍手であった。

「はっけよい、のこった!」

 次は暴れ川の巨漢、梯子の音松と、神田太鼓組の、突撃小僧鉄平だ。最初二人が並んだ時、あまりに体格が違うので、会場から失笑が漏れたほどだったが、何度も何度も倒されても倒されてもぶつかっていく鉄平に、自然に応援の拍手が起こりだした。最後、鉄平を投げ飛ばし、蹴りをつけた音松だったが、相手の検討をたたえ、最後はやさしく起こしてやったのだった。

 最後は大の相撲好き、川越人足の相撲男、鉄五郎の登場だ。

「お父ちゃん、がんばって!」

 小さな息子が掛け声をかける。海堂が朝、水路のところで抱き上げた男の子だ。そう、お父ちゃんは鉄五郎だったのだ。対する神田太鼓組は、まだまだ若いが未来の横綱候補と言われている時次郎だ。

「はっけよい、のこった!」

 ものすごい音がしてぶつかり合う巨体! 鉄五郎がすかさず自分の得意な上手を取り、揺さぶりかける、だが一歩も引かず、体制を入れ替えようと譲らない時次郎、少しの間膠着状態になるが、観客は盛り上がるばかり、そこで時次郎が、さっと体制を入れ替え、得意の右上手からの投げ技だ。それをぎりぎりでこらえ、逆に押し返す鉄五郎。

「いいぞ、父ちゃん!」

 息子の声が響く。このまま長期戦か? だが、相手の軸がぶれたと見るや、鉄五郎の大きな投げが炸裂! だれもが唸る名勝負だった。

「暴れ川!」

 行司の勝ち名乗りを受けた、暴れ川の三人だったが、負けた若い神田太鼓組にも、いい勝負をしたと大きな声援が飛ぶ。最後、神田太鼓組はもう一度太鼓を叩き、暴れ川のために応援を始めたのだった。なんともさわやかな若い三人組は、声援の中帰って行った。

 いい勝負をしたと大満足の暴れ川だったが、はっきり言って、決勝戦は嫌な感じしかなかった。

「神の拳かなんか知らないが、やつらの強さは不気味だ。黒牛の五平どんとは試合前に話をして、お互い勝ち残ることを祈っていたんだが…。あんなに強い黒牛の五平どんまでやられるなんて…。どうするよ、亀吉よう」

 鉄五郎が、亀吉に尋ねる、明るく元気な若い亀吉は、そのぽっちゃり突き出たおなかを叩いてこう答えた。

「なあに、一人目の銀蔵は、きちんと相撲を取ってきますから、心配いりません…。こんな私に素晴らしい相撲の世界を教えてくれた鉄五郎さんのためにも、頑張ります。絶対負けやしませんから」

 さすがの不屈の闘志すっぽんの亀吉だ。だが、あの岩鉄とぶつかりそうな梯子の音松には、けがをすると大変だから、無理はするなと鉄五郎は言った。

 そしていよいよあの暁の拳が派手に入場だ。すぐ目の前の観客席には、最終戦に出る、車組と玄武の力士たちがドカッと座ってみんなを見ている。

「決勝戦、暁の拳対暴れ川!」

 行司の声に会場がわあっと盛り上がる。ぎりぎりまで賭け金が乱れ飛ぶ。なんと森村白堂は、前の試合で大儲けした金を、また全部暁の拳にかけた。興奮の中、ついに試合が始まる。だがなんということ、暁の拳は、対決の順番を変えてきた。

「すっぽんの亀吉、鋼丸!」

 会場がざわめいた。どういう作戦だ…?

「はっけよい、のこった」

 掛け声とともに突っ込んでいくすっぽんの亀吉。低い体勢で飛びかかるように突っ込んだので、鋼丸の最初の一撃が空を切った。

「ようし、このまま押し出す!」

 すっぽんの亀吉がその勢いでどんどん押して行く。低い体勢から頭を突っ込んで首の力を中心に投げる「ずぶねり」の体勢だ。だが次の瞬間、あの神の拳が、背中に打ちおろされた。激痛が走った。

「うぐぐ、でも、鉄五郎さん、おいら、こんなやつに負けませんよ、頑張ります!」

 どんどん押して行く亀吉! だが冷酷にも鋼丸は、不屈の闘志亀吉の今度は頭をつかみ、そこに、頭や肩のあたりを狙って拳を打ちおろした。ガツンと嫌な音が聞こえる。

「鉄五郎さん、鉄五郎さん、おいら負けませんから!」

 激痛に耐えて耐えて、ついに綱ぎりぎりまで押し出した。亀吉の勝利か? だが、そこで急に鋼丸が横に離れた。なんとすっぽんの亀吉は押し続けたまま、意識を失っていたのだ。よく見ると側頭部が切れて血がにじんでいる。行司が軍配を鋼丸に上げた後、すぐに亀吉は運ばれていった。

「はっけよい、のこった!」

 次は梯子がいらない背の高さから梯子の音松と呼ばれる大男が飛び出した。対する実力者銀蔵は、一歩さがって、その勢いを交わし、あの琉球の銀竜を想わせる足蹴り攻撃だ。

さらに正拳突きと距離をおいての攻撃に入った。銀蔵は、実は拳法の達人であったのだ。だが、いつもは温和な音松も、亀吉をあんなひどい目にあわせた敵に激怒していたのだろう。

「うおおおお!」

 飛びかかって銀蔵を抑え込み、そのまま押しつぶした。これで一対一だ。

「父ちゃん、負けないよね」

「ああ、父ちゃんは、負けない、作戦を考えてある。約束する」

 亀吉の意識はまだ戻らない。

「亀吉、お前はよく頑張った。お前の闘志、見事だった」

 鉄五郎はその人情に厚い瞳になんとも言えない哀愁の色を浮かべ、静かに亀吉の横を離れた。

「はっけよい、のこった!」

 あの岩鉄が、その大きな拳を振り回し突進してくる。だが、鉄五郎はひるまずその拳をかわしながら、腕の関節を取りに行きそのまま太い腕をねじあげてしまった。苦しむ岩鉄、もう片方の手で殴ろうとしてもねじあげられた腕が痛くてうまくいかない…。鉄五郎の作戦勝ちだ。

「いいぞ、鉄五郎」

 もともと力があるだけで、ある意味素人同然の岩鉄は、どうにも逃れることができない。そしてついにうめき声をもらした。

「うう、ま、まいっ…」

 その言葉を、まいったの言葉だと思い、鉄五郎が力をゆるめたその瞬間だった。

「ま、まいってなんかいねえよ!」

 そして、後ろから体制を入れ替えて、鉄五郎の頭を思い切り神の拳で殴ったのだった。

「父ちゃん!」

 三吉の声が響いた。

「お前たちのは…相撲じゃねえ…」

 鉄五郎はそう呟きながら前につんのめり、倒れた。

「暁の拳!」

 確かにまいったとは言っていなかった。あわてた行司がそう叫んでは見たものの、観客は納得せず。物が飛び交い、あちこちで殴り合いが始まる大騒ぎとなった。

「今のは暴れ川の勝ちだ、まいったといいかけて勝負をひっくり返すなんて全部無効だ!」

「何だと? まいったとは言ってねえし、行司が一度言ったんだから暁の拳の勝ちだ!」

 大金がかかっているのでどちらも譲るつもりはない。どうおさめたらいいのだろうか? だがその騒ぎを利用して、鋼丸が中央に飛び出してきた。そして、最終戦を行う車組と玄武に何かを叫びだした。海堂は一刀斎に、どういうことか問うてみた。

「実はのう、本戦には天と地の二つの組み合わせがあってな。常連で強いところは天、新しく勝ち上がってきたところは地となっている。今日優勝したところはまず地に入るのだが、天と違って余計に試合をしなければならない。ところが鋼丸はそれが不服で、おれたちは強い、見たとおりだ、お前たちと同じように強い天の組に入れさせろと言っておるようじゃ」

 やることもめちゃくちゃだが、言うこともめちゃくちゃだ…

「そして、おれたちの強さが分からないのなら、今すぐここで勝負だと言っておる」

 そのうち、海堂はあちこちで起き始めた、勝敗をめぐっての賭け金の喧嘩をおさめるために、走らなければならなくなった。会場はもうどうにもなりそうにない。だが、その時だった。

「わかった、お前が俺に勝ったら、天の組に入れてやる!」

 聞いたことのない叫びが聞こえた瞬間、会場が静かになった。あの最強軍団の一つ、車組の大将の花車(はなぐるま)が立ち上がって叫んだのだ。

 思わぬ展開に会場は騒然。だが観客の興味は突然のこの取り組みに向かって動き始めたのだった。為三郎親方も、この勝負を行わなければ収集がつかないと判断したようであった。だが、ほかにも親方には確かめたいことがあるようで、車組の力士たちと打ち合わせしてからこう話し出した。

「ええ…、花車は鋼丸の挑戦を受けると言っております。暁の拳の只今の勝利を認めたうえで、この試合を執り行うことといたします。ただし、この戦いでどんな結果が出ても、今日の今までの勝敗や賭け金の支払いは一切変更はしません。それを御理解いただける者は、ぜひ次の大戦に賭け金をかけて結構です」

 みんな新しい対戦に興味津々、神の拳か、正統派の実力者か? ならば仕方ない。勝敗はおいて、この一番に賭け金を賭けなおそう…。

「わかったいいぞ。勝敗は動かない。おれは花車に賭ける!」

「おれは鉄砲兄弟を退けた神の拳に賭ける!」

 最強軍団の一つ車組の花車は、親方が京都から連れてきた、本格的な力士だ。強いし、取り口に品格もあり、日ごろも人格者で知られている。だが、今日の鋼丸の強さは、それこそ神がかりだ。本当に樫の木に一日千回の正拳打ちの特訓をやったかどうだかはともかく、殴れば必ず勝利を呼ぶ、必殺の拳であった。

 この二人の勝負で賭けが新たに行われ、まさかの対戦が実現されてしまった。

 あのさわやかな歌舞伎者、森村白堂はここまでの暁の勝利で莫大な賭け金を儲けたようだが、また暁の拳に賭けるのだろうか? 白堂は、取り巻きの連中と何か急いで打ち合わせしている。

「暁の拳、鋼丸、車組、花車!」

 盛り上がる会場、その裏では、今対戦が終わった暴れ川の鉄五郎が、やっと動き出していた。

「亀吉…亀吉は平気か?」

 目を覚ました鉄五郎は、自分のことより亀吉を心配していた。

「鉄五郎さん、僕はもう平気です。後で医者に行ってきます」

 濡らした手拭いで側頭部を押さえながら亀吉が笑っていた。本当は予想外の大けがで、笑えるはずもなかったのだが鉄五郎を安心させようと亀吉は無理に笑っていた。

「そうか…亀吉…よかった…」

「父ちゃん、父ちゃん、大丈夫?」

 亀吉の後ろから飛び出して、鉄五郎にすがりついたのは三吉だった。

「ああ、父ちゃんは平気だ。生まれつき頑丈な体だからな。ほら…いててて…」

 だが自分も、まだ頭ががんがんする。とんでもない試合であった。

「三吉、すまなかったなあ、父ちゃん、負けちゃったみたいだ。約束したのになあ」

 でも三吉はニコニコして答えた。

「あれはだれが見ても鉄五郎の勝ちだってみんなが言ってたよ。あのでっかい岩鉄の腕をとって、かっこよかったよ」

「…ありがとうよ」

 すると、あの大きな梯子の音松がやってきた。

「鉄五郎さん、今横を通り過ぎる時、花車さんが言ったんだ。やつらのからくりを暴いてやる。見てろってな」

「そうかい、じゃあ花車さんの相撲、じっくり見せてもらおうかい」

 今、中央ではまさに、花車と鋼丸がにらみ合っていた。こんな一戦、だれが予想しただろうか?

「はっけよい、のこった!」

 すると、な、なんということ、最初から殴りに行った鋼丸の右の拳を花車は、その大きな手で受け止めて、つかんでしまったではないか。

「て、てめえ!」

 鋼丸は今度は左の拳で思いっきり殴りかかった。すると花車は巧みに、その拳ももう片方の手で受け止め、つかんでしまったのだった。

「くそ!」

 そして花車は、その丸太のような太い腕に力を込め、右手と左手を大きく左右に開いて行ったのだ。

「うぐぐ…」

 両手の拳をつかまれている鋼丸もあらがってはみたものの力では勝てず、両手を左右に広げざるをえなかった。その刹那…。

「どすこーい」

 そのままの姿勢で花車は飛び上がると、まるでくい打ちのように、鋼丸に強烈な頭突きを打ちおろしたのだった。一発、そして二発そしてふらふらになった鋼丸に、最後に強烈な張り手をぶちかました。鋼丸は吹き飛ぶように倒れて、もうピクリとも動かなかった。

 穏健な花車が本気で激怒した一撃であった。

「やったー、信じていたぜ、花車!」

 会場は騒然、物が飛び交い興奮のるつぼだ。

 そういえばと、ふと見れば、森村白堂はこの試合にはびた一文出さず、あの莫大な儲けを持って仲間と引き上げた後だった。こうなることを分かっていたかのように…。

 すると花車は、仲間の嵐車と波車を呼んで何かを合図した。さらに本当は対戦予定だった玄武の忍者舞台にもあらかじめ打ち合わせておいたようだった。玄武の三人はさっと動き出し暁の拳の席へと向かっていた。そしてついに前代未聞のネタばらしが始まったのだ。飛び車と水車が鋼丸を押さえつけたまま、あの肘から先にぐるぐる巻きにされた包帯のような布をはがしにかかった。そして岩鉄と銀蔵も、忍者舞台によって中央に連れてこられ、同じように包帯をはがされていったのだ。

「みんな、これを見ろ、鉛だ、鉛の板だ」

 花車の大きな声が響いた。観客は自分の目を疑った。なんと鋼丸の腕には薄い鉛の板が手袋のように幾重にも巻きつけられていたのだ。こんな思い金属の塊で殴られたら、普通の人間なら即死だ。

「何が神の拳だ。こいつらの試合はすべていかさまだ!」

 やがて岩鉄の包帯の下からも分厚い鉛の板が出てきた。なぜか銀蔵は包帯を巻いていただけだった。武術を志していた者の誇りがあったらしい。

 神の拳はインチキだった。

「じゃあ今までのやつらの試合は、掛け金はどうなるのだ?」

 予想通りどよめきがおこった。

「でもさっき為三郎親方が、どんな結果が出ても今までの勝敗は変わらないって…。だれだってこんな結果になるなんて予想できないさ」

 …為三郎親方が事前にくぎを刺していたため、大きな騒動には発展しなかった。

 海堂は、宗家の達人に問うてみた。

「…あんな卑怯な手を使っても、賞金がほしかったんでしょうか?」

 すると一刀斉は観客席を見ながら言った。

「暁の鋼の後ろ盾、金の鯱の差し金だろう。やつらは今、大金を手に入れようと、いろいろな金儲けに手を伸ばしている。ほら、黒幕の森村白堂は、儲けた大金を持ってとっくに姿を消しておる。きっと追求されても自分は知らなかったととぼけるだろう。あれは鋼丸がやったことだと」

 騒然とした騒ぎの中、いろいろな人間模様を巻き込みながら、辻相撲の大会は終わりを告げた。為三郎親方が鉄五郎の暴れ川のところにやってきて、ひと試合分の賞金を渡した。

「え、こんなにいただけるんですか…」

 為三郎親方は目に涙を浮かべて声を詰まらせた。

「今黒牛の五平のところにも、言ってきた。雀の涙ほどのお礼を置いてきたよ。五平や鉄五郎さんのような、本当に相撲好きの人たちをこんなひどい目にあわせて、いったい何のための江戸相撲なのかと考えてね…。鉄五郎さん、あんたらは本当にいい相撲をとってくれた。名勝負だった。それなのに…すまん…本当にすまん…」

「いえいえ、親方が謝る筋合いはないですよ。頭を上げておくんなさい。亀吉がけっこうな大けがですので、暴れ川はしばらくお休みです。でもそのうち、きっと江戸にまい戻ってきます、その時は…」

「ああ、待っている、待っているさ。相撲好きが勝っても負けても楽しく笑いあえるような、そんな相撲を目指すから…」

 だが、これは江戸全体を巻き込んだ大きな事件の始まりに過ぎなかった。

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