第三話 勝ち抜き戦

「海堂様、そうですか。もう正体が割れてしまいましたか」

「うむ、だがあの連中の口は堅い。あそこから漏れることはないと信じて、これからはさらに慎重に行動したいと思う」

「わかりました。私も気をつけましょう」

 例の神社に近づくと、間違えるはずもない、あの猫面の紫門が音もなく近づいてきた。

「では、私はまた終わったころにお迎えにまいります」

 飴売りの七五郎はさっと姿を消して行った。猫面の紫門は、そっと近づくと海堂にひもの付いた木の札を渡した。札には「松」の文字があった。

「この札は木の形、書かれた文字、ひもの色を毎回変えて、用心棒の偽物が出ないように、目印になっています。裏返しにして帯にぶら下げてください。誰かに用事がある時は、札の文字を見せる決まりになっています。それと用心棒代は…」

 海堂はすかさず紫門に言った。

「ここまで用意してもらって、用心棒代などいらんよ」

「…欲のないお方だ。助かります。では、何かありましたら…」

 紫門は何事もなかったように、そっと離れて言った。ところでこの男は辻相撲とどのような関わりを持っているのだろう? 本業は庭師のはずだが…。まあ、そのうち分かるか…。

 ところが神社に近づくと、例の釣りをしていた水路を覗き込んで、じっとしている幼子がいる。小魚を見ているのだろうか。もしも水路に落ちたら危ない。海堂はそっと近づくと、やさしく声をかけてその四、五才の男の子を抱き上げた。

「どちらかに、この男の子の親御はおるか」

 大きく声をかけると、神社の奥から、力士の一人だろうか、体の大きな男が走ってきた。

「ありがとうございます。ちょっと目を離したすきに…」

 男は体はごついが、目の大きいなんとも哀愁を感じさせるいい顔をしていた。息子をしっかり受け取ると、勝手に離れないように優しく言って聞かせた。

「…それでは、水路に落ちるかも知れなかったのですね、お侍さま、本当にありがとうございました。ほら、三吉、お前もちゃんと礼を言うのだぞ」

 きちんとお礼を言えたので海堂がほめると、幼い三吉はさらに付け加えた。

「うちの父ちゃんは優しくて、とっても強いんだぞ」

 なんとも微笑ましい親子であった。二人は何度も頭を下げて、神社の奥へと去って行った。神社の中に入る。参道の横に長い綱が張られ、そこから向こうには行けなくなっている。その奥では今会場づくりの真っ最中だった。海堂は脇差をしっかり整えると、木の札を帯につけてゆっくりと歩き出した。

 海堂の札を見ると、入り口にいた男が無言で中に入れてくれた。会場はいくつにも綱でしきられ、ぶら下げられた布で色分けされ、最前列のいい席には鮮やかな敷物が敷かれていた。この時代の江戸にはまだ土俵というものがなく、四本のがっしりした柱でしきられた真四角の中で戦うのだ。最近は大人気で興奮した客が四角の中に入るのを防止するために、低い位置に、簡単には切れないような太い綱がピーンと張ってある。海堂は中心になって会場づくりをしているあの恰幅のいい与三郎親方に木の札を見せて挨拶をしに行った。

「海堂と申します。用心棒として雇われたのですが、初めてなのでいろいろ教えてください。なんでも手伝います」

 すると親方は喜んだ。

「ほう、あいさつに来る用心棒とは珍しい。ちょうどよかった、茶屋の組み立てを手伝ってもらえますか」

 海堂が力士に交じり、その鍛えられた大きな体で喜んで汗を流すと、親方はさらにご機嫌だ。海堂はすかさず聞きたいことを言ってみる。

「ええっと、親方たちは浪人なんですか…それとも…」

「ハハハ、われわれも浪人じゃよ。だが、言ってみれば相撲浪人じゃ」

 親方は簡単に説明してくれた。

 もともと平安貴族の前で神事の一つとして広く全国から力士が集められ、大会が行われていた歴史はあるのだが、武士の世になると実践で役立つものとなり、鎌倉時代から全国で、野相撲や辻相撲が熱狂的に行われていたという。戦国時代では、あの織田信長が相撲が好きで、各地の力士を集めて何回も相撲大会を行っていたんのだという。勝負の決まりや土俵、新しい技もそこで確立し、そこで勝った者はどんどん家来に加えてもらえたのだ。本能寺の変があって、それを豊臣が引きついだ。体の大きかった豊臣秀次も相撲好きでたくさんの力士を抱えていた。だが、大阪夏の陣で豊臣も滅び、力士たちはばらばらになってしまった。実績のある力士は侍の身分だったのでそのまま各地の大名や、京都の貴族のところに仕官し、そうでないものは力を持っていても、浪人となってさまよった。

「でも、結局わしらには相撲しかない。京都、大阪では今でも寺社の改修資金通達のための勧進相撲や興業が行われ、太平の世でじわじわと人気が高まってきている。江戸にも多くの相撲関係者がいたので、われわれも十数年前から、街に相撲道場を作り、細々と興業を売ってきた。最初は柱もなく、人の輪で囲んだだけの会場だった。儲けは見世物興業のような投げ銭だけじゃった。そのうち人気が出てくると、あちこちで野相撲や辻相撲が行われるようになり、だんだん規模が大きくなってきた。流行すたりもあったが、我々の興業は生き残り、新しい力士も育ち、今、江戸では人気力士の数や規模で、一番の大会となったのだ。だが、我々とは関係なく賭け事が盛んになってしまい、大金が乱れ飛ぶようになったのだ。大金をめぐってさまざまな団体が参加するようになり、いろいろ大変なことになっている」

「大変なこと?」

「大金を狙っていろいろな輩が入り込み、優勝者もコロコロと変わっている。今はまだ、江戸相撲は戦国時代、一つにまとまることはむずかしいな…。何年間も負けることのない、強い横綱や、大関が出てくれば江戸の相撲界も安泰なのだが」

「なるほど…」

 やがて時間が近づき、ぞろぞろと客がやってくる。席料を払って色分けされた綱の中に進んでいく。誰が勝つか、みんないろいろな予想をしているようだ。なにせ今日は、近々行われる、年に二回の大きな大会の出場者を決める最後の勝負なのだという。

「大変だ、大変だ」

 一人の客が叫びだす。

「どうした?」

「今日の最終戦で車組と戦うはずだった一の槍の一人が怪我して、一の槍は出ないそうだ」

 それを聞いていた大勢の観客からどよめきがおこる。

「えー、ウソだろ、一の槍に賭けようと思っていたのに」

「代わりにあの闇ガラスの異名をとる玄武の三人が急きょ出るそうだぞ」

「ええ、まさかあいつらか?」

 最終戦とは、次回行われる大きな大会を占う重要な一戦で、出場予定の強豪二組が実際に戦うという見逃せない一戦だ。何やら出場する力士に大きな事件があり、対戦予定が大きく変更になるらしい。

 いったい何があったのか。

 やがて今日の対戦の札が正式に張り出され、かけを取り仕切る男たちが、客席をせわしなく動き回る。なんだろうこの異常な盛り上がりは。海堂は、神社の階段を上った上の方にある、いわゆる二階席の見張りを命ぜられ、石段を登って行った。そこの席には同じ胴着をきた同じ道場の門下生が集団で座っていた。

「不届き者が入らないように見張りを仰せつかった、海堂と申す。辻相撲の見張りは初めてなのでよろしくお願い申す」

 海堂は並んでいる門下生に木の札を見せ、丁寧に挨拶をした。するとそこの道場主らしいきりっとした達人が答えてくれた。

「こちらこそ、よろしくお頼み申す。ここにいるのは、みな天外流柔術の門下生、わしは宗家の水村じゃ。なにか分からないことがあれば聞いてくれ」

 この石段の上からは会場全体を見下ろすことができ、人の流れもよくわかる。見れば、やはり町人の男が多いが、なぜか若い女ばかりの一角、あからさまに浪人ばかりの囲いもある。純粋に相撲を見に来ている前列のお客がいるかと思えば、賭けの男と何度もやり取りしている大金狙いの勝負師たちもいる。やがて力士たちが会場に入場、もう、すさまじい熱気が渦巻いている。

 最初は一人で参加できる勝ち抜き戦だ。三回勝ち抜くと賞金が出て交代となる。観客はだれが三回勝ち抜くかを当てるのだ。勝ち抜き戦は全くの素人から達人までいろいろな人たちが飛び込みで参加してくる。それも楽しいのだ。

「では、抽選を始めます」

 二十人ほどの力士の付き添いが中央に出て、箱の中から札をとる。これで準備完了だという。すると別の箱が柱の近くに運ばれ、行司がそこから二枚の札をとって読み上げる。

「最初の対決、五番と十七番」

 すると会場の隅から、二人の男が立ち上がり付き添いとともに中央に出てくる。会場が大きくどよめく。

「琉球の嵐、銀竜、そして船着き場の怪力男、品川大八」

 大きな歓声が沸き起こる。筋肉質の銀竜は沖縄空手の胴着をつけ、がっしりした品川大八は鉢巻きをきりりと巻いて、祭りのときの派手な半纏を着て登場だ。しかも銀竜は、琉球の華麗なる民族衣装を身に付けた若い娘をひきつれている。柱と綱でしきられた中央に出てくると、銀竜は、空手の型を披露。品川大八はあの派手な半纏を脱ぎ捨て、さらしを巻いたその鍛えられた体をパンパン叩いて気合いを入れる。

「天外流宗家殿、戦う時の服装は、なんでもいいのですか?」

 すると宗家の達人がすぐに教えてくれる。

「相撲といえば体につけるのはまわしだけときまっておる。もちろんそのような力士も多い。だがいろいろな流派が流れ込んでくるこの江戸においては、力士も武器や危険なものを身に付けていなければ、どんな服装でもよいということになっておる。でも、派手で目だったり、強そうな格好をしていれば、人気も上がり、掛け金も増えるというもの。まあでも、高い衣装を着たまま戦うと、すぐに破れてしまうのでやめた方がいいがな」

 そうなのか…。派手な衣装で登場するほど金が乱れ飛ぶわけか。道理で目立つ衣装を着ているわけだ。

 海堂が思っていたこととは違う方向に江戸の相撲は変わってきているようだった。

「はっけよい、残った。」

 掛け声とともに、品川大八が張り手を打ちながら突進していく。その突進力に何もできず、防戦一方の銀竜、だが、一度突き飛ばされて綱の外へ倒れそうになるも、そのまま立ち上がり、今度は斜め後ろから、品川大八の太ももに、強烈な蹴りを二発、三発、と決めたのだった。

「てやんでえ!」

 気合い一閃、品川大八が再び突進してくる、捕まえてしまえばどうにでもなる、両手を振り上げて捕まえに来た。

「とぉ!」

 そこに銀竜の正拳がカウンターで決まった。

「いっててて、ちくしょう!」

 出鼻をくじかれた大八の太ももに、さらに蹴りが続けて決まる。さすがの大八も足を引きずり、最後にはついに勝負がついた。

「銀竜!」

 行司の声が響く。会場も大盛り上がりだ。

「宗家殿、銀竜も一度は綱の外に足が出たように見えたが…。勝ち負けはどうなっておるのかな」

「本場の京都では土俵というものが整備されていると言うが、ここ江戸では場所を借りて、柱と綱でかこってあるだけじゃ。少しぐらいは負けにならないようじゃ。また、金的を攻撃するとか、目玉をえぐるとか以外は禁じてもない。突く、蹴る、殴る、投げ飛ばす、なんでもありじゃ。もちろん、投げ飛ばされて地面に倒れたり、手や膝が地面につけば負け。さらに体がすべて綱の外に出れば負けになる、もしくは『まいった』をするかじゃな。今は膝の痛さに耐えかねた品川大八が、小さな声で参ったと言ったので勝負が決したようじゃ」

 銀竜はその後も村相撲の大関を退け、ついにあと一つ勝てば、勝ち抜けというところまで来た。だが、その時、会場がどよめいた。次の参加者が予想外のその姿を現したのだ。

「げえ、あれが南海の海坊主、八郎だと! 初顔だが、なんてでかいんだ!」

 浜辺で毎日地曳網を引いているというその大男は小さな網をかついで入場。背の高さは実に七尺(約2m10cm)ほどある。しかも黒く日焼けし、足腰もしっかりしている。まさに海坊主だ。

「はっけよい、のこった」

 行司の掛け声とともに、今度は銀竜が突っ込んでいく。だが八郎がその長い手を伸ばし、突き飛ばす。まるで大人と子供だ。会場からざわめきが起こる。あの銀竜がうまく間合いが取れない、少しひいては近づき、ひいては近づきを繰り返していたが、長い手に邪魔されて、思うどおりに近づけず、蹴りも正拳突きもうまく届かない。でも近づきすぎてつかまったら終わりかもしれない。

「えええーい!」

 しびれを切らした銀竜が飛び込んで正拳突きを浴びせようとした。だが、待ってましたと上から大きな掌ががっちり銀竜の肩をつかみ、正拳突きを効かなくして、次の瞬間。

「どすこーい!」

 ぶっとい膝が銀竜の腹から胸にかけて突き上げられた。強烈なひざ蹴りだ。

「うぐうう」

 一瞬動きの止まった銀竜、八郎は、そこをすかさず投げ飛ばした。背中から落下する銀竜。

「八郎―!」

 その巨大な海坊主は、ゆっくりと勝ち名乗りを上げた。

 まさか、あの銀竜が負けるとは…。会場はすこしの間静まり返った。八郎は次の浪人の力自慢も怪力であっという間に放り投げ、いよいよ、三人目だ。だが、三人目は、八郎を恐れて逃げ出したらしい。出てこないのだ。八郎の不戦勝が決まり、勝ち名乗りを上げた時だった。後ろの方から突然、大きな声が響いた。

「まて、八郎。三回勝ち抜けはお前にやる。でも、初顔でこのまま帰られちゃ、こちらの面目が立たねえ。代わりにおれと戦え!」

 いったいだれだ? 見ると今日、何かの事故で団体戦に出られなくなった、人気力士、一の槍の辰之進ではないか。辰之進は、大きな浪人集団のまとめ役であり、自らも、派手な歌舞伎者の姿でやってくる、人気力士なのだ。

「やれー、やらせろ!」

 観客が騒ぎ、ここで代表者で話し合った結果、特別試合が組み込まれることとなった。一の槍の辰之進は、八郎を一人目として勝ち抜き戦に出ることになったのだ。賭けの取り直しが急きょ行われ、会場は一時騒然となった。本当ならば出なくなった人気力士の入場だ。

「辰之進!」

 辰之進は色鮮やかな羽織に、金箔を使った大きな扇子、そして右手には、巨大な煙草のキセルを持って、能役者のように姿勢を整え、中央へとすたすた進んでくる。筋骨隆々の体で、しかも豪快な美男子、これでは人気が出ないわけはない。

「辰之進、いつもの頼む!」

「おうよ!」

 辰之進は中央に進み、綱の中に入ると、刀のような巨大なキセルをいっぱいに吸い込み、敵の頭上に向けて大きく息を吐いた。すると煙草の煙はそれは見事に大きな輪になり、空高く飛んで行った。大歓声が沸き起こる。辰之進は付き添いの美少年の小姓に金の扇子とキセルを渡し、そして上着を脱いで、戦闘態勢に入る。この男がやると派手なしぐさも嫌味がなく、豪快そのものである。

「はっけよい、残った」

 そして勝負が始まった。辰之進の得意技の一つ、飛びつきの押し倒しが炸裂する。現代で言う強烈なタックルである。真正面から、あの巨大な八郎の下半身へとものすごい勢いで飛びつき、力で押す。あの八郎が、後ろへずずずずーと動いていく。だが、なんということ、巨体の八郎は、綱ぎりぎりまで押されたが、ついに倒れず、辰之進の突撃を、ついに受け止めきったのだ。またもどよめく会場。得意技が通じなくて、どうする辰之進? だが、辰之進はそこで笑いながら歌舞伎者の真骨頂を見せたのだった。

「どおりゃあ!」

 な、なんということ、八郎の腰のあたりににくらいついた辰之進はそのまま掛け声一閃、その八郎の巨体を肩にかつぎあげたのだ。

「うおおおおお!」

 暴れまわる八郎。だが次の瞬間、八郎の体は綱の外側へと出されていた。

「辰之進―!」

 どどーっと歓声が押し寄せる。人気力士、歌舞伎者の辰之進は、見事にやり遂げたのだった。そして辰之進はその後も勝ち抜け、八郎に続く、本日の勝ち抜け第2号となった。

 そして人気者の辰之進が去り、次の力士が出てくる。すると今度は、会場の一角に陣取っていた女たちが歓声を上げるではないか。

「シナの武術王、黒獅子と、火消の龍神雷蔵!」

 黒獅子はすらっと背が高く、中国風の衣装をまとっている。でも顔の上半分に覆面をしていて、本当にシナ人かどうかはわからない。得体のしれないきな臭さがする謎の男だ。しかも付き添いが、背の高い着飾った和服の美人だ。しかも、その二人を送り出しているのはあの河原者の庭師、猫面の紫門ではないか。

「あの、黒獅子と言うのは女たちに偉い人気ですねえ」

 海堂が訊くと、宗家の達人は笑った。

「黒獅子は、確かに強いし、花のある人物じゃ。でも女たちが騒いでいるのは、あの若衆歌舞伎の役者、菊丸の方じゃ」

「え? そういうことか」

 そう、よく見れば、そのすらりと背の高い付き添いの美女は、まだ前髪のある、美少年のようなのだ。対する火消の雷蔵は、しなやかなばねのような体で、派手な半纏姿で入場、中央で半纏を脱げば、全身にいれられた、鮮やかな龍神の刺青が浮かび上がる。するとその刺青に大歓声が上がる。雷蔵は大名屋敷の火事に備えて働く専門の火消だ。火事が起きれば、瓦屋根の上をすいすいと飛び回る。身軽で粋な雷蔵も大人気のようだった。

「はっけよい、のこった」

 行司の掛け声とともに、頭から突っ込んで行く雷蔵。なんという素早さだ。まわしをしていない黒獅子の腰ひもをつかみ、すぐに上手投げ、すくい投げと攻勢をかける。だが黒獅子はその柔軟な体を生かして体制を入れ替え、逆に一本背負いのような形から投げに入る。

「おおっ」

 観客が目を見張る。きれのいい黒獅子の投げを、雷蔵は空中で体をひねって切り返す。そう、この粘り強さと素早さが雷蔵の持ち味なのだ。

だが、これではらちが明かないと黒獅子はここで戦法を切り替えた。

「とおー!」

 手刀の連打から、間合いを取って、上段、中段の蹴り、相手がひるんだところを回し蹴りだ。いつもは大活躍の刺青の雷蔵だが、今日は相手が悪かった。雷蔵は、そのしなやかな身のこなしで、投げられても投げられても投げ切れない粘り腰が身上なのだが、黒獅子は、その流れるような拳や蹴りの連続攻撃で、組み合うことさえさせないのだ。勝負はあっけなく黒獅子の蹴りが決まって、雷蔵は吹っ飛ばされて終わった。

 しかし雷蔵は何事もなかったように立ち上がると、さわやかに黒獅子に挨拶をして、声援を背に帰って行った。負けて強さを感じさせる男であった。

 黒獅子はシナの武術王を名乗るだけあって、見たこともないような突きと蹴りの連続技を持っていて、見ているだけでも楽しい。

「地獄の曲芸師、弁天丸!」

 客席がわっと沸いた。見世物小屋の曲芸師のそのままの姿で、付き添いの少年とともに入場してきたのは、大人気の男であった。勝率はあまり高くないが、いつも必ず何か見せ場を作ってくれる男なのだ。

「おお、今日も何かやるぞ!」

 前回は、皿回しを、その前は大コマを回した。今日はなんだ?

「おお!」

 今日は黒獅子をにらむと、とんとんと飛び跳ね、なんと後方宙返りだ。黒獅子への挑戦にも取れる。お客は大喜びだ。

「はっけよい、のこった!」

 それはおよそ相撲とは思えない不思議な、しかし見応えのある熱戦であった。もともと中国拳法で、相手と離れて戦うのが得意な黒獅子、体重が軽いので相手につかまらないようにうまく逃げながら反撃する弁天丸。その攻防が見事にかみ合った。試合開始とともに、横に逃げる弁天丸、追いかける黒獅子。だがつかまりそうになると弁天丸はさっそくふいに技を出す。

「千手観音!」

 いっぺんに十個の物を空中に投げてお手玉する様子が似てるからと名付けられた曲芸の技を応用した技だ。弁天丸の手が高速で空中で動き、思わぬ角度から鋭い突きが連発で襲いかかる。しかし、なんということ、黒獅子はその動きにまけぬ素早さで、すべての突きを受け止める。弁天丸は後ろにトンボを切り、追いかける黒獅子に次の技だ。

「涅槃ばらい!」

 突然地に這うように体制を低くした弁天丸が、足を高速で繰り出し、相手の足を払って相手を地面に倒すのである。

「おお!」

 この足払いは見事に命中、だが黒獅子はそのまま涅槃にはならず、体をひねり、空中で回転するようにしてそのままぴたりと着地して構えたのだった。黒獅子も負けてはいない。だが、ついに弁天丸の必殺技が冴える。

「輪廻転生!」

 なんと今度は弁天丸が黒獅子に追いかけられると、そのまま、周りを取り囲む4本の四神柱の一つに向かって勢いよく助走したではないか? そして、黒獅子のすぐ目の前で、柱に駆け上ったのである。

「おお!」

 柱に、二歩、三歩との駆け上るだけでもすごいのだが、そこから後ろに向かって大きく飛び、後方宙返りで、黒獅子に蹴りを放ったではないか? まさしく逃げから攻めと一回転めぐって生まれ変わるのである。また、その蹴りがちょうどうまく黒獅子の胸に直撃したのだ!

「いいぞ、弁天丸!」

 もう、会場は熱狂の渦、もうそれは相撲の枠を超えていた。直撃をくって、ふらふらと後ろに下がった黒獅子に向かって大きく飛び上がり、蹴りをいれる弁天丸。しかしその蹴りを大きく回し蹴りで返す黒獅子。なんと空中で蹴りと蹴りとの激突だ。だが、さすがに体重で優る黒獅子が有利で、衝撃で後ろに飛ばされながらも、弁天丸を撃墜したのであった。

「黒獅子―!」

 見事な試合だった。弁天丸は今日も負けたが、今日もやってくれた。大声援のうちに去っていく弁天丸の顔は敗者のそれではなかった。

 黒獅子も相手に反撃の隙をあたえず、あっという間に次の相手を撃破、三回勝ち抜いて、大声援の中、若衆歌舞伎の菊丸とともに去って行った。

 これで勝ち抜き戦ではもうめぼしい力士は、江戸弁慶と呼ばれる僧兵崩れの源五郎丸だけらしい。

 だがその前に、だれも予想していなかった伏兵が現れたのだ。

「次は東海道の剛力駕籠かき九太朗、天外流柔術、水村一刀斉!」

「え、天外流柔術?」

 まさかと思ったが、海堂のそばにいたあの小柄な老人が呼ばれると同時に立ち上がった。そして、たくさんの門弟に静かに見送られて、中央に歩きだしたのだ。中央では巨漢の駕籠かきが、その丸太ん棒のような太い腕をぐるぐるまわして待ち構えていた。

「はっけよい、のこった!」

 だが自分より小さな達人、一刀斉に突っかかっていた九太朗は、次の瞬間、その勢いを逆に取られて、宙に舞っていた。観客も、投げられた九太朗も何が起きたか分からないようだった。相手の力を逆に利用する合気柔術の技か?

「水村一刀斉!」

 行司の勝ち名乗りが会場に響いた。次はひげぼうぼうの山男、奥飛騨山だが。奥飛騨山は前の試合を見ていて、慎重に近づいていく。達人は中肉中背なので、捕まえてしまえば何とかなると思ったのだ。

「うぐぐぐ…」

 だが、怪力で捕まえようと手を伸ばせば、いつのまにか手の関節を逆に取られてしまった!

「とお!」

 怪力の山男、奥飛騨山は、まさかの関節技からの豪快な投げで、宙に舞い、気がつけば地面に転がっていた。この達人の強さは本物だ。いよいよ三人目だ。だがここでとんでもない事件が起こる。

 次は勝ち抜き戦では一度も負けたことがない、江戸弁慶の異名をとる、僧兵崩れの源五郎丸だ。僧兵そのままの服装で、大きな数珠をじゃらじゃら鳴らしながら、中央に出てくる。そして敵に向かって叫ぶのだ。

「往生せよ。大往生!」

 そして何やら難しい密教の御経を唱えだすのだ。この一風変わった一連の動作も、いつものことで観客に大うけだ。

「…先生―、一刀斉先生!」

 今まで静かに見守っていた門弟たちも、げきを飛ばす。

 大きくて怪力だけではない、百戦錬磨の源五郎丸に先生は通用するのか?

「はっけよい、残った!」

 決戦の火ぶたが切られた。不用意に突っ込まず、じりじりと間合いを詰めていく江戸弁慶、源五郎丸。先生は微動だにせず、自然体で待ち構える。会場は水を打ったように静まり、二人の行方を見守る。なんと今度は先生が動いた、さっと間合いを詰めて、源五郎丸の太い腕を取りに行く。そして源五郎丸の関節を決めながら、投げようとする。だが、源五郎丸はそれを見越して関節を決めさせない。

「馬鹿め、わざと手をとらせたのだ。同じ手にかかるか!」

 源五郎丸は自由に動くもう一つの手で先生の背中を突いて関節技を外すと、そのまま、先生の後ろから襲いかかった。

「はは往生せよ!」

 だがその瞬間先生の姿は視界から消え、その勢いのまま、源五郎丸は宙を舞っていた。先生はそれを読んでとっさに身を低くかがめ、反り投げの体制で巨体を投げたのだった。すべては先生の計算ずくの作戦だったのか?

 源五郎丸は柱に激突し、綱に宙ぶらりんにぶら下がった。勝負は決した? だが、行司の声がしない、いや、姿が見当たらない? 運悪く、源五郎丸の体に当たって、綱の外にはじき出されていたのだ。でも、源五郎丸の動きも止まっていた。勝ったと確信して背を向けた先生だったが、勝ち名乗りのないまま、突然立ち上がった源五郎丸に、後ろのエリをつかまれてそのまま背中から地面に倒されたのだった。

 これは、どっちが勝ったのだ? 会場は騒然となった。誰が見ても一刀斉先生の見事な投げが決まったと思われた。だが、源五郎丸は綱にぶら下がったため、完全に地面に倒れたわけではないし、行司の言葉もかかっていない。だからおれは負けていない、背中が付いたのはそっちだろうと源五郎丸は叫んだ。会場は大騒ぎ、一部で勝ち負けをめぐって、喧嘩も始まっていた。だが、先生が叫んだ。

「私の負けだ。迂闊だった。勝ったのはそちらだ」

 そして素直に賞金も受け取らず、帰りだしたのだ。会場ではいつの間にか拍手がわき上がり、その潔さをたたえる掛け声まで起こっていた。

「宗家殿、いやはや見事でございました」

 帰ってきた達人に海堂が声をかける。すると達人は、一瞬だけ、子供のような素直な笑顔をみせて海堂にほほ笑んだ。そして、宗家の勝利を確信している門弟たちのところに戻って行ったのだ。

 こうなると後は源五郎丸の消化試合となる。残りの二人はもう勝ち抜ける人数がいないので、いつも控えの力士が務めることになっている。ここではまず波乱は起きない。

 源五郎丸は、次の一人、街の相撲道場の若手を軽く料理して、最後の一人を迎えた。

「では最後の一人、獣人天の助。」

 獣人? 天の助、どういう奴だ? だが、その時立ち上がって歩きだした男を見て、場内からひそひそ声が聞こえてくる。

「おい、もしかするとあいつが一の槍の一人に大けがさせて出場停止にさせた張本人だぜ」

「ええ! 本当かよ。でもあの目つきは獲物を狙う獣みたいな鋭さだ」

 その若い男は背も高く、体も大きいが、今までの出場者と何かが完全に違っていた。何を食べているのか、がっしりした骨格と発達した筋肉、しかししなやかで柔軟な体は、肉食獣のそれを思わせた。足と腕は獣の革が巻かれ、腰に下げられた毛皮は、狼のものだという。髪の毛は長く、顔立ちは彫りが深く眉も濃く、印象的な鋭い瞳が光っていた。その男は、あの歌舞伎者の辰之進が連れていた美少年の小姓をつれて中央に出てきた。と、言うことはやはり一の槍の関係らしい。

「往生せよ! 大往生!」

大きな数珠をじゃらじゃら鳴らしながらの源五郎丸のいつもの台詞が響き渡る。もう消化試合だと静まっていた観客席が再び盛り上がる。さすがに源五郎丸も、この男が只者ではないことを感じ取り、本気で向き合った。

「はっけよい、のこった!」

掛け声とともに二つの巨体が激突、だが、組み合うか組み合わないかのほんの数秒のうちに勝負は着いていた。海堂には、天の助の張り手が、源五郎丸の喉のあたりをとらえたのは分かったのだが、その後はどうなったのか分からなかった。気がつけば、源五郎丸はそのまま前につんのめるように崩れ、苦しそうにうめき声を漏らしていた。

「宗家殿、今のはいったい?」

「見たことのない、しかし、理にかなった恐ろしい技じゃ。最初に喉元に張り手をいれたが、あれは呼吸を乱す技。源五郎丸は一瞬喉が詰まり、呼吸を整えようと大きく息をしたその時に、みぞおちに当て身を討ち、呼吸をできなくしたのだ。」

「当て身?」

「うむ、あやつは、敵に密着した状態で、肩や拳、そして肘を押し当てるようにして打撃を与えるのだ。手を大きく動かしたりせず、圧迫するように爆発的に力を集中させる重い技じゃ。至近距離で打つのでかわすことは極めて困難」

 そう言われると、ひじが押し付けられていたようにも見えた。

「そして、急所を確実に貫く突きじゃ。最後、あの太い指が源五郎丸の腹の急所にずぶりと刺さっておった。偶然で決まることはない。的確に急所を狙ったに違いない」

 海堂にはほとんど見えなかったが、この若者が只者ではないことはしっかりと伝わった。

「見たこともない、計り知れない男だ…!」

 そして、これが海堂の人生を大きく変えていく、天の助との出会いであった。天の助は勝ち名乗りもそこそこに、美少年の小姓とともに引き揚げて言った。

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