大きな手、未来のかけら

わたなべめぐみ

前.かくしたお弁当

 君と一緒に歩いた、最初で最後の夏の日。


 雲が足早に過ぎ去る、あの日の空を今もおぼえてる。


 ***


「雨谷、今から昼飯?」


 中学三年、夏期講習中の昼休み。野太い声に私は振り向いた。


「あ……うん、葛上くんは?」

「うっかり弁当忘れてきたんだよねー。コンビニ行くけど、雨谷は?」


 私は肩から下げたトートバックを思わず背中に回した。中にはお母さんが用意してくれたお弁当が入っている。 


 葛上くんは私より三十センチも高い背をぐにゃりと曲げて言った。


「ないなら行く?」

「……行く」

「よーし、何にしよっかなー。雨谷は鮭派? 梅派?」

「え?」

「だからおにぎり。どっちが好き?」

「……ツナマヨ派」

「そうきたかー」


 葛上くんは豪快に笑いながら塾の自動ドアをくぐった。閉じかけたドアを手で押さえてくれたので、数メートル離れて歩いていた私はあわてて駆け抜けた。


 外は真夏の太陽が燦々と降り注いでいる。絵本で「おひさまがさんさんと」なんて書くと平和な感じがするけれど、最高気温四十度越えのこの盆地では、灼熱の日差しは脅威でしかない。


 バスケットボール部主将だった葛上くんが前を歩いている。大きな背中に肩甲骨が盛り上がって、緑のTシャツが汗で張りついている。同じ小中学校だけれど運動部の彼と文芸部の私に接点なんてなくて、一緒に歩くのは初めてだった。


 健康的に焼けた腕と短く刈った栗色の髪の毛。背中、おっきいなあと見上げていると、振り返った。


「なんでそんなに離れて歩くの?」

「え……だって」


 私なんかと歩いてて噂されたら嫌じゃないかな、と思ったけれど言えなくてしどろもどろしてしまう。


「雨谷、ちっさいから見失っちまう」


 言うなり私の肩を押して横断歩道を渡り始めた。交差点を渡る人混みをかき分けながら葛上くんを見上げる。汗ばんだ大きな手のひらから体温が伝わってきて、血液が顔に昇っていく。


 歩幅の大きい葛上くんについていくのが大変でフラフラしていると、急にパッと手を離した。


「悪い! 俺の手すっげー汗まみれ!」


 嫌だったよなーと謝り始めたので、私は拍子抜けした。クラスで一番大きい葛上くんがそんなことを気にするなんて。


 クスクスと笑うと「笑うなよー」と言いながら私のトートバックに手をかけた。


「めっちゃ重そう、もしかして辞書持ち歩いてんの?」

「あっ……それは」


 お母さんのお弁当が入ってる、と言いかけてあわてて口を塞いだ。思わず持ち手を握りしめると「あ、またやっちまった」と葛上くんは言った。


「ごめん、嫌だよな。こんな汗臭い奴に持たれるとさ」

「ううんっ! そうじゃなくて……」

「うちさー口うるさい姉貴が二人もいるからいっつも荷物持ちさせられてんの。ついその癖で」


 頭をかきながら縁石の上を歩いていく。必死についていくと真横にあの大きな手のひらがあった。この手でボールをつかんでシュートを決める姿を何度も見た。校舎の二階にある図書室から体育館が見え、ボールのバウンド音が響いていた。


 レイアップシュートを決める葛上くん、ボールは気持ちよくネットを通過して歓声が上がる。彼はチームメイトとハイタッチを交わして私はこっそり拍手する。


 いろんな条件が重なって、大会がないまま夏は終わってしまった。文芸部に引退なんてないけれど、彼がドリブルする姿は見られなくなった。


「雨谷、県立受けるんだって?」

「うん……葛上くんは?」

「俺、北海道」


 思わぬ言葉に足を止めた。北海道、何百キロ離れているんだろう。


「え……引っ越すの?」

「うん、じっちゃんの調子が悪いらしくてさー。親父が牛舎を継ぐことになったんだ」

「そうなんだ……」


 こんなとき何て言えばいいんだろう。物語ならゆっくり言葉を選べる、でも葛上くんは私をじっと見ている。心臓が変な音を立てて考えを遮ってしまう。


 そのときコンクリートにぽたりと黒い染みができた。落ちた水滴は瞬く間に蒸発してむせるような熱気を放つ。


「うわっ降ってきた!」


 言うなり彼は縁石から飛び降りて私の手をつかんだ。雷の轟く音が街に響き、滝のように雨が落ち始める。買ったばかりのサンダルに泥がはね、汗なのか雨なのか濡れた葛上くんの手に力が入る。


 近くにあったコンビニに駆けこむと震えるような冷気に包まれた。


「まいったなー、俺サイフしか持ってねー」


 私はトートバックをあさってタオルを差し出した。赤いチェックの弁当包みが見えそうになって、あわてて単語帳をかぶせる。


「俺はいいから雨谷拭けよ」

「もう一枚あるから」


 そう言ってハンドタオルを出すと、葛上くんは豪快に笑った。


「んじゃ遠慮なく」


 節だった手がピンクのタオルを受け取る。体も声も大きくて、なんならちょっと怖いイメージもあったけどピンクも似合うなあ。


 エアコンの寒さに震えながらおにぎりを選ぶと、外はまだ雨が降っていた。


 私たちはコンビニの軒下に立って雨に濡れる街を見つめる。


「食うか、ここで」


 葛上くんはコンビニの袋をあさるとおにぎりを三つ取り出した。こんな雨の中でほんとに食べるのかな、と呆気に取られていると「鮭」と印字されたパッケージを開けて言った。

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