第39話

 部室棟はいつになく活気に溢れている。

 運動部に入部を希望する新入生はそれぞれの活動場所に赴くのに対し、文化部は部室に行くことが多い。

 文化部は当然として、化学部や料理部なんかもこの時期は部室で作業しているようだ。


「あっ! 文芸部の」


「どうも」


 声を掛けてきたのはフラスコから謎の煙を出した化学部員だ。

 今こうして部室棟を歩いているということは特にお咎めもなくフラスコも無事に処理できたらしい。


 さっきまで僕の隣を歩いていた未亜みあは馴染みのない人物の登場で後ろに隠れてしまった。

 恥ずかしがりの後輩によるいつもの行動パターンなのに、いざその後輩が彼女になると他の男から守っているみたいな気持ちになって少し誇らしい。


「さっきはありがとうございました。あの手際の良さお見事です。今からでも化学部に入りませんか?」


「もう三年生だし、文芸部で高校生活を全うしたいです」


「そうですか。説明会の有名人が化学部に来たら部員集めも安泰だと思ったのですが」


「ちょっと待って! 有名人って誰のこと!?」


 聞き捨てならない言葉を耳にして思わず大きな声が出てしまった。

 化学部員も驚きの色を見せる。


「もちろんあなたです。我々が言うのも失礼ですが、地味な文芸部があんな三角関係みたいなものを披露したら話題になりますよ」


「有名って言っても一年生の間だけですよね? 運動部はもう体育館の外に出てたし、他の部も……」


「いえいえ。すでに化学部の中で話題沸騰中です。あのフラスコのようにね」


 フフフとうまいことでも言ったかのようなドヤ顔にほんの少し腹が立つ。

 後ろに隠れている未亜みあの表情を確認すると、その有名人の中に自分が入っている自覚をしっかり持っているようですでにオーバーヒートしたように虚無になっていた。


「あの後は一体どうされたんですか? あ、いや。それを聞くのは野暮ってものですね。答えはすでに出ているのですから」


「なんのことか分からんが、化学部なら憶測で物を言わない方がいいんじゃないかな。あはははは」


 冷や汗が止まらない。別に隠すことでもないけど、僕も未亜みあも校内で有名になることを望まない。

 クラスの端で生きてきたような人間が学校の話題の中心になるなんて相当な心理的負担になってしまう。


「行こう。未亜みあ


「は、はい」


 僕が駆けだすと彼女は必死に食らいつく。

 化学部員はさすがに追いかけてくることはしなかった。

 やはり生きる世界が似ていると行動も読みやすい。


「また廊下を走ってるですよ?」


「緊急事態だからOKということで」


「ふふ。後輩に言い訳なんてダメな先輩です」


 僕と二人きりになりやいなや調子を取り戻して軽口を利くようになる。

 その気持ちはよく分かるぞ。

 慣れ親しんだ人だけがいる空間ってすごく居心地が良くてキャラも変わるよな。


 未亜みあにとってそんな存在になれていることが嬉しくて、廊下を駆ける足も自然と軽やかになる。


「ゆうお兄ちゃん!」


 そんな足取りを一気に重くしたのは慣れ親しんだ声だった。

 結構な問題行動だったので生徒会に捕まるかクラスで注目の的になって身動きが取れなくなると踏んでいたので完全に予想外だ。


 部室まであと数メートル、廊下のど真ん中で仁王立ちをする妹ポジ。


 月菜るなに対してまだ苦手意識や申し訳なさがあるのか未亜みあは僕の後ろに隠れてしまった。


「こら月菜るな。そんなところに立ってたら通行の邪魔になるだろう」


「大丈夫。ちゃんと前と後ろに気を配って人が来たらどいてるから。……って、そうじゃなくて!」


 いつものように迷惑行為を注意すれば何となくいつものテンションで流せると思ったけど失敗してしまった。

 

「ゆうお兄ちゃんと未亜みあ先輩、付き合いだしたでしょ!」


「……っ!」


 名探偵のようにビシっと僕ら二人を指差し高らかに宣言する月菜るな

 当てずっぽうではなく確信を持ったかのような自信満々な表情に反論できず言葉を詰まらせる。

 

「まああれだ。月菜るなのおかげみたいなところはなくもないし、ウソを吐きたくない」


 チラリと未亜みあに視線を送ると彼女は小さく首を縦に振った。

 どのみち文化部のみんなには報告するつもりだったし、月菜るなにだけ一足先に知らせるというだけだ。


「僕から告白して、未亜みあは僕の彼女になってくれた」


「……あれだけ後押しして何もなかったらゆうお兄ちゃんも未亜みあ先輩も相当なヘタレだもんね」


 ツンと口をとがらして嫌味っぽく強がる妹ポジ。

 

月菜るなが文芸部に来てからいろいろあったし、今日の朗読も途中で乱入されてチョップじゃ足りないくらいだけどさ。まあ結果的に丸く収まったから良しとする」


「ふ、ふーん? 彼女ができた男は心に余裕があるわね」


「そういう訳じゃないよ。ただ、僕にも彼女ができたわけだし今までみたいのは控えた方がいいかなって思ったんだ」


「今までみたいのって?」


「一緒に登校したり、妙にくっついたりとかさ」


 僕はいい機会だと考えていた。

 彼女でもない女の子とカップルのように接するのは良くない。

 どこかで線引きが必要だったのに月菜るなが高校に入学してもそれをしてこなかった僕の責任だ。

 

 だから、ここでハッキリと月菜るなとの距離感を見つめ直す。


月菜るなのことを妹みたいに思ってるのは変わらない。むしろ今日からは一般的な兄と妹のような距離感をだな……」


未亜みあ先輩は!」


「え?」


 僕が妹ポジにこれからの距離感について説いている途中、月菜るなが突然大声を上げた。

 他の部室から誰かが様子を見に来ないかとヒヤヒヤしたがそれは杞憂に終わる。


未亜みあ先輩が、ルナとゆうお兄ちゃんがくっつくのがイヤって言わない限り、ルナは変わらないから」


「はあ? それはどういう」


未亜みあ先輩はゆうお兄ちゃんの彼女なんですよね? だったら他の女が近くにいたらイヤだってハッキリ言ってください」


 小柄な後輩のくせに先輩への圧力がすごい。

 別にこんなやつに怯えることもないのに僕の彼女はすっかり委縮してしまっていた。


「おい月菜るな。先輩への態度っていうものを……」


「ゆうお兄ちゃんは黙ってて!」


「は、はい!」


 月菜るなにギロリと睨み付けられて僕は思わず姿勢を正した。

 長い付き合いだけど、こんな風に威圧されたのは初めてに近い経験だ。

 顔は全然恐くないのに妙に迫力がある。


 愛しの彼女の前でカッコ悪い姿をさらしてしまったことに後悔していると、未亜みあがゆっくりと僕の前に移動する。


「穂波さん」


 意を決したように口を開く。

 その声はやはり小さく、誰も居ない廊下じゃなければ他の音でかき消されてしまいそうだ。


優兎ゆうと……は」


 名前のあとに先輩が付いてないことで月菜るなの眉毛が一瞬ひそめる。


優兎ゆうとはわたしの彼氏です。だから、穂波さんは後輩らしい距離感で接してほしいです」


 手をギュッと握り、体から振り絞るように声を飛ばす。

 その言葉を受け取った月菜るなは真っすぐに未亜みあの姿を捉えていた。


「ふふふ。それでこそゆうお兄ちゃんの恋愛の練習相手に相応しいわ」


 腕を組み、無駄に育った胸を強調させながら高らかに言い放つ。

 

「初恋はうまくいかないからね。せいぜい未亜みあ先輩で失敗を積んで、ルナとの結婚生活に活かすといいわ!」


月菜るな、お前それ本気で言ってたのか」


「超本気なんだから! そうじゃなかったら未亜みあ先輩を蹴散らしてゆうお兄ちゃんに猛アピールしてるんだから」


「ひいっ!」


 月菜るなの発言に未亜みあが再び僕の後ろに隠れてしまう。

 後輩が先輩をシメようという考えがすでに狂ってるし、兄ポジが僕でなければ見捨てているところだ。


「なあ月菜るな


 一人で勝手に盛り上がっているところに水を差すのは申し訳ないと思いつつ、せっかく機会だからこのおバカな妹ポジに伝えておこうと思う。


「もしかして早くも倦怠期? やっぱり十年以上一緒に居ても全然飽きなかったルナを正妻にしちゃう!?」


「僕の初恋は月菜るなだぞ。フラれてるけど」


「へ?」


 さっきまでキラキラと輝いていた月菜るなの目から光が消える。

 テストで悪い点を取った時でもこんな顔にならなかったぞ。


「すごく小さい時にさ、僕は月菜るなにプロポーズしたんだよ。そしたらお前何て言ったと思う?」


「な、なんて言ったの?」


 青ざめた顔の妹ポジは震えながら答えを求める。


「ゆうお兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ? お兄ちゃんとは結婚できないんだって」


「えええええええ!?」


 僕らは本当の兄妹じゃない。

 だけど月菜るなにとって僕はお兄ちゃんだし、当時の僕もそういうものだと理解して泣いた。


「その日以来、僕は月菜るなを妹ポジとしてしか見れなくなったんだよ。僕の初恋は月菜るなによって破られてるんだ」


「バカバカバカ! 当時のルナ、すっごいバカ!」


 今もだろと茶々を入れたいところだけど、ここはそっとしておこう。

 僕がフラれたことを鮮明に覚えていたので月菜るなも同じだと思っていたのが良くなかったんだな。

 もっと早く思い出というか真実を共有しておけばよかった。


「これからも大切な妹ポジなのは変わらないから。ルナも新しい恋を見つけて青春を満喫してくれ」


「うぅ~。でもでも、初恋じゃなくてもうまくとは限らないし。ルナのサポートがなければ告白もできないんだから、うまくいかない可能性はまだまだ高い!」


「そんなことないです!」


 頭を抱えて半パニック状態みたいな月菜るな未亜みあが声を上げた。


「ゆ、優兎ゆうととわたしは絶対に別れないです」


未亜みあ……」


 彼女の力強い言葉に涙が溢れそうになる。

 そうだ。僕らはやる時はやるんだ。


月菜るな、変な作戦を立てるのは大目に見るけど、もし未亜みあに嫌がらせをするようなことがあったら本気で月菜るなを見捨てるからな?」


「へっへーんだ! そんな卑怯はことはしませーん。ルナにはまだまだ作戦があるんだから。せいぜい恋愛経験を積んでルナの素敵な彼氏になってね」


 そう言い残してまるでショボい悪役のように走り去っていった。

 せっかくの綺麗な黒髪ツインテールもあの小物っぽさで魅力半減。

 妹ポジが新しい恋を見つけるのはもう少し先の話になりそうで肩を落とした。


優兎ゆうと……先輩」


「あ。先輩に戻っちゃうんだ」


「さっきのは勢いです。学校の中では先輩です」


「それでも嬉しかったよ。未亜みあは僕の彼女なんだなって」


「まだちょっとだけ勢いがあるです」


 後輩の前で委縮していた彼女がグイっと背伸びをした。

 両手で僕の顔を押さえているので頭を撫でるわけではなさそうだ。


 ほっぺに体感したことのない柔らかなものが触れる。

 一点にほんのりと熱を感じたと思った次の瞬間、その熱は一気に全身へと広がった。


「……ちゃんとしたのは僕からするから」


 先輩なりの強がりに、僕の彼女は小さく頷いた。

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