第34話

 あれだけ真剣に未亜みあを見つめていた月菜るなの姿が消えていて少し気になった。

 きっとトイレにでも立ったのだろう。

 今は月菜るなよりも未亜みあとの朗読が最優先だ。


 かなり強引な展開になってしまったけど、まだどうにか台本通りに終わらせることができるはずだ。

 未亜みあの方に視線を戻すと、膝の上に本を置いて両手でマイクを握っている。

 僕が未亜みあにお願いした文は一言のセリフ。


 ふるふると震える女の子に上目遣いで言われたら庇護ひごよくをそそられること間違いなしの必殺の一言。

 このセリフの破壊力と頭ナデナデさえ達成すれば文芸部に興味を持ってくれる人も多少現れるに違いない。


 信じてるぞ未亜みあ

 そんな念を視線で送ると彼女はそれに応えるように息を大きく吸った。


「『お兄ちゃん。妹の頭をナデナデしたくありませんか?』」


 耳の奥をくすぐるような優しい声がマイクを通じて体育館全体に広がっていく。

 緊張で震えているからこそ出せたいじらしい雰囲気がシチュエーションとの相乗効果を生み出した。

 未亜みあが発した一言は男子生徒だけではなく、女子生徒までをも顔をとろけさせている。

 

 その男子生徒の中には舞台に立つ僕も含まれていて、まだまだ段取りは残されているのにあまりに心地の良い声に全てを投げ出してしまいたくなった。

 

 だけどそうはいかない。

 未亜みあが頑張って作り出したこの逆転のチャンスを逃す手はない。


「よくやった」


 思わず未亜みあへの称賛が口からこぼれた。

 マイクは口元に近付けていないので誰にも聞こえていない。


 僕は再び未亜みあの元へと歩み寄っていく。


 本来ならここで僕のセリフが入って、少しやりとりをしたあとに未亜みあの頭を撫でる。

 でも、すでにアドリブで主人公である後輩を特別な存在であると認めてしまっている。


 新入生達に与えられてる小説の情報は少ない。

 未亜みあの演じる主人公は後輩で、僕が演じる先輩に恋をしている。

 二人きりになった教室で良い雰囲気になり、先輩の方から告白みたいなセリフを言った。

 新入生達はおそらくこんな内容だと思っているはずだ。

 

 奇しくも僕自身の気持ちと小説を足して割ったような展開になっていた。

 文芸部の月菜るな以外はこれがアドリブ展開だと知らないし、実は後輩であり妹だったという展開でも押し通せるに違いない。

 それに会場は変な盛り上がり方をしている。細かいことを気にする人は少ないだろう。


 あとは妹に恋をしてしまった兄として頭を撫でて、段取り通り文芸部の説明を改めてすれば無事に終了。


 本とマイクを左手に持ち、フリーになった右手をゆっくりと挙げる。

 未亜みあは不安そうな目で僕を見上げた。


「もう平気だから」


 彼女の目から涙が溢れる。

 ここでマイクを通して気の利いたセリフでも言えれば完璧だったんだけど、残念ながら僕にそこまでのアドリブ能力はない。

 小説の主人公ではなく、僕が恋する後輩に向けた言葉しか出てこなかった。


 前列に座る生徒には涙が見えたらしく、演技力の高さに驚いたような表情を浮かべている。


 トラブルがあったものの結果的にストーリーと噛み合って演劇部のような情緒溢れるお芝居のような朗読になった。


 ゴールが目前に見えた安心感からかさっきまで冷たくなっていた指先に熱が戻る。

 できれば暖かな手で彼女の頭を撫でてあげたかったのでちょうど良いタイミングだ。


「……え?」

 

 未亜みあの潤んだ瞳は僕以外の誰かの姿を捉えている。

 それに気付いて彼女の頭に向かって動いていた右手も止まった。


「ちょっと待った!!!」


 十年以上も毎日聞いていれば姿が見えなくとも誰かわかる。

 会場はざわめき、全ての視線をかっさらっている。


 自分達と同じ赤い色のリボンを付けた生徒。

 本来は舞台に立つはずのない学年の者がそこに居れば注目の的になるのは間違いない。


「ルナにはアドリブするなって言っておいて、ゆうお兄ちゃんはアドリブばっかりじゃん!」


 一人称が子供の頃からルナなので話すだけで自己紹介が完了する便利な妹ポジ。

 それは本人の問題だからまあ良いとして、こんな所でもゆうお兄ちゃん呼びは勘弁してほしい。


 トイレに行ったという希望的観測は見事に外れてしまった。

 正直、後ろを振り返りたくない。

 未亜みあの頭を撫でて何事もなかったかのように部活説明会を終わりにしたい。だけどきっと許されないんだろうな。


 目の前にいる後輩にアイコンタクトを送ると、困ったように視線を逸らされてしまった。

 そうだよね、どうすればいいか分からないよね。

 兄ポジの僕だって月菜るなをどうすればいいか分からないんだから仕方ないよね。


 もしかしたらこの部活説明会の中で一番のピンチを迎えているのかもしれない。

 振り返ったら誰が居るかなんて答えは分かり切っている。


 ただ万が一、僕や未亜みあ、文芸部と一切関係のない不審者だったら完全に被害者面できる。

 そのわずかな可能性に賭けて勢いよく後ろに振り返った。

 、

 そんな勝率の低いギャンブルに勝てるはずもなく、妹ポジで文芸部の新入部員でもある月菜るなが僕を指差して舞台の中央に立っていたのだ。


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