第32話
どうにか舞台袖に帰ってくると僕はバケツを置いて呼吸を整える。
「これはもうお任せしていいですよね?」
生徒会ではなく化学部の人に向かって語気を強めた。
「はい。危ないものではないので煙を出しきれば何も残らないはずです」
「だ、そうです。もう舞台に出ても大丈夫そうですか?」
次は生徒会の人に尋ねた。
会場はざわざわとどよめいている。
何やら実験が失敗したっぽくて、人がぞろぞろと現れたら憶測も飛び交う。
あまり真剣に朗読を聞き入られても緊張するし、反対に興味がなくても悲しくなる。
今は後者になりそうな雰囲気なのでもう少し会場の空気が落ち着いてくれるとありがたい。
「はい。大丈夫だと……思います。なんとなく進行が止まっているので僕がお二人を紹介したらスタートという感じです」
僕にバケツを押し付けた生徒会役員はあまり頼りになりそうもない。
部費をアップするとか言ってたけど本当にこの人で大丈夫なのかという新たな不安が生まれてしまった。
「
「……
萌え袖をギュッと握りって力強く答えてくれた。
いつもなら僕の裾を握るところだけど、僕と
隣に居られない僕の代わりに自分自身で奮い立たせようとする勇気が垣間見えた。
「なあ
「人がいっぱいで……恐くなりました」
「だよね。僕もそう。その上、なんか危なそうな物まで持たされてさ」
正直命の危険も感じたけどそれをできるだけ抑えてケラケラと笑い話にする。
これで少しでも
「化学部だって失敗したんだし、僕らも失敗したって平気だよ。途中で噛んでも誰にも迷惑が掛からない。オーディションの時だってそうでしょ?」
オーディションの時、
誰にも迷惑を掛けなかったどころかその精神力の強さに評価が上がったくらいだ。
「なんなら
自分の不安を紛らわすようにあれこれ言い訳じみた言葉を並べていると、ふいに
裾を掴んだり頭を撫でたりしたことはあってもしっかりと手を繋いだのは初めてだ。
僕の手も緊張でだいぶ冷えているけど、
それなのに彼女の柔らかさは伝わってきて、それだけで僕の心拍数はみるみるうちに上がっていく。
「
彼女の目元には小さな水玉ができていた。
だけどその瞳はとても力強く、この水滴が全ての不安を体外に洗い流したように見える。
「……うん。僕もだよ。練習の成果をしっかりと出したい」
「穂波さんのためにもわたしは頑張るです」
「
「わたしは穂波さんの分も背負ってるですよ」
「そっか」
そもそも
いや、むしろオーディションがあったおかげで
僕だって同じだ。めちゃくちゃしてくれたけど、それが結果的に僕と
「ごほん。あの、そろそろよろしいですか?」
「あ、ああ。すまんすまん。
生徒会役員が咳払いをして僕らの空間に割って入ってきた。
あまりに良い雰囲気だったのでこの人の存在を忘れかけていた。
一部始終を見られていたのかと思うとかなり恥ずかしい。
「……お二人は付き合ってるんですか?」
「え? あ、えーっと」
「……まだです」
僕が返答に困っていると
オーディションが終わった後にも『まだ』と言っていたので、これから付き合う可能性については消えていないようだ。
実は心変わりしていたら僕の方が朗読どころじゃなくなってしまう。
「そうでしたか。あまりにも良い雰囲気だったのでどう声を掛けようか悩んでしまいましたよ」
「ああ、ほら。文芸部ってあんまり人前に出ないからさ。こういう機会があると変なテンションになっちゃうんすよ」
「なんとなくわかります。吊り橋効果みたいなものですかね」
「そうなんすかね。ははは」
当たり障りのない理由を付けてなんとなくこの場を切り抜けた。
チャラ男だったらこういう時『この朗読が終わったら僕たち付き合うんだ』とか死亡フラグみたいな告白じみたことを言えたりするのかな。
言い回しがオタクっぽいからキャラがめちゃくちゃだけど。
舞台袖でこんなやり取りをしている間に少しずつ会場のどよめきも収まってきた。
残すところは僕ら文芸部だけ。
運動部やさっきの化学部に比べれば確実に地味だろうという雰囲気が漂っている。
「今なら良さそうですね。それでは僕が文芸部を紹介しますから合図をしたらお二人は舞台に出てきてください」
「はい」
なんとなくやり辛さを肌で感じつつ返事をした。
すでに僕と
まさか仲良く手を繋いで登場するわけにもいかない。
「では、僕はお先に」
「あ、待っ」
言い終わるよりも先に生徒会の人は舞台に出て行ってしまう。
それはすなわち、心の準備が完了していないということ。
あと数回だけ深呼吸でもすれば落ち着くはずなのに、それを終えることができずに部活説明会が再開してしまった。
「みなさんお待たせしました。少々トラブルもありましたが部活説明会を続けます。最後は文芸部です」
生徒会の人が舞台袖から少し飛び出たところで進行の決まり文句を読み上げる。
こうなればもう逃げることはできない。
「
弱音を吐きだしやすいよう、少し誘導気味に語り掛けたところで彼女は首を横に振り一歩を踏み出した。
先輩ならこんな状態の後輩を止めるべきなのかもしれない。
でも、僕は対等な恋人関係を目指している。
本人がやる気なら、僕はそれを信じて一緒にやり遂げるしかない。
「忘れ物だぞ」
声を出せないのか無言で小さく頷くと、
カクカクしている上に緩慢で、見ているだけで緊張が伝わってくる。
会場からもかすかに笑い声が聞こえる。
本当なら怒鳴りつけてやりたいところだけど僕にそんな勇気はない。
結局、日陰者が表舞台に立つと笑い者になるのがオチなんだ。
「僕が……付いてる」
今の僕には
今から座り位置を逆にしてもますます
足取りはおぼつかないけど何とか椅子まで辿り着いたのを確認して、僕はマイクのスイッチを入れる。
「みなさんはじめまして。文芸部です。現在は3年生が三人、2年生が三人。あと、なぜかすでに1年生が一人います」
1年生のくだりで会場の空気が少し変わった。
興味0だったのが3くらいになった程度だけど、ほんの少しだけ注意が僕に逸れた気がする。
この間に
そうでなくても視線が移ったことでプレッシャーが減ってくれれば良い。
震える手でカンペを持ちながら部活の紹介文を読み進める。
「僕たち文芸部は毎年文化祭に向けて小説を書いています。今日はその小説のワンシーンを朗読しようと思います。小説の内容が気になったり、続きが思い浮かんだ人はぜひ文芸部の部室に遊びに来てください」
文芸部が朗読をするなんて誰も思っていなかったようで会場が再びざわつきだす。
意外性というより、
ふと、1年1組の最前列に鎮座する妹ポジに視線を移すと、
嫉妬でも嘲笑でも哀れみでもなく、ただ真剣に。
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