第27話

 最初も最初も。一単語目いちたんごめから噛んでしまうとは思わなかった。

 さすがにこれは仕切り直しかと思ったけど、美桜みさくらさんからのストップはない。

 それどころか未亜みあ自身が噛んだことを意に介さず、まるで何事もなかったかのように朗読を進める。


「“同じはずのに全然違って見える教室。ここは先輩が普段授業を受けている教室だ。今、この場には私と先輩しかいないのに妙な緊張感に襲われていた”」


 月菜るなに比べて声量はない。それでも彼女なりに出している精いっぱいの大きな声はとても澄んでいて聞き取りやすい。

 本番形式の朗読は二度目ということもあり僕も客観的に本の内容を追えている。


「『夕陽が差し込む教室ってなんだかドキドキしませんか?』」


 本人は積極的に肯定はしないけど未亜みあがモデルになっているだけあってセリフの臨場感は断然未亜みあの方が出ている。

 決して距離は近くないのにすぐ隣で上目遣いで語り掛けられたと錯覚するくらいだ。

 

「『わかる。それも二人きりだしな』」


 自分のセリフを読み終えた時、ふと視線を上げると未亜みあと目が合った。

 打ち合わせをしたわけでもなく、まるで会話しているかのような自然な流れに心が高揚する。

 だけど照れ隠しのように未亜みあは目を逸らしてしまった。

 そこから数秒のを置いて続きを読む。

 

「“ここで会話は終わってしまう。でも、不思議と居心地は悪くない。無言だけど気持ちが通じ合っているような。私の勝手な思い込みかもしれないけど、この瞬間の積み重ねがとにかく愛おしい”」


 まさにこの通りの気持ちを僕自身も抱いている。

 月菜るなの時は緊張で周りが見えなくなっていた僕も、今はみんなの反応を伺う余裕があった。


 美桜みさくらさんはにこにこしながら見守っているし、三枝さえぐさ班目まだらめさんは口元がにやけている。

 恋愛小説を朗読してる身からすればこの反応がとても嬉しい。


 だけど一人だけ、月菜るなだけは不満げな表情を浮かべていた。

 

「『ねえ先輩。私が後輩の中で特別になるには、どうすればいいですか』」

 

 ふいに未亜みあから頭を撫でられたことを思い出す。

 後輩との接点は文芸部の中くらいで、あとはあまり後輩っぽくはない月菜るなだけだ。

 僕自身の中では未亜みあは十分に特別な存在で、急に幸せな現実に戻ってしまって集中が切れてしまう。


「“先輩は腕を組んで天井を仰いだ。遠回しな告白みたいになってしまったことに言ってから気付いて体が熱くなる。私の顔は今どんな色になっているんだろう。もし赤く染まっていても、今なら夕陽のせいにできる。今まで読んできた恋愛小説の登場人物が夕方に告白してきた理由が少しわかった気がした”」


 本当はここで地の文通りの動きはできればよかったのに、未亜みあと恋人になった時の妄想が膨らんでボーっとしてしまった。

 未亜みあ月菜るなと違って自分はオーディションの対象ではないけどこの点はしっかり改めないといけない。


「えー……『俺が留年でもすれば同級生になって、もう一回留年したら先輩になるな』」


 朗読中に反省をしていたせいで次のセリフのテンポが悪くなった。


「『そうじゃなくて』」


 まるで自分の朗読に指導が入ったみたいでビクッと体が反応してしまう。

 これは元々のセリフだ。何も慌てるようなことじゃない。

 でも未亜みあの言葉で現実世界から小説の中へと引き戻されたような気がした。


「“冗談を言ってはぐらかそうとする先輩に顔をグイっと近付けた。この人にはこれくらい積極的にならないと気持ちが通じない”」


 未亜みあの頬がほんのりと赤く染まる。

 物理的な距離は離れていても、朗読している世界の中で僕らの距離はグッと縮まっている。

 そう感じさせるくらい彼女の表情は恋をしてくれていた。


 でも、今はそれに応えることはできない。

 この小説の中の先輩はまだ気付いていないフリをしてるんだから。


「“先輩の耳が夕陽色に染まる。その反応が嬉しくて私の心が躍り出す”」


 深い呼吸を繰り返して意識的に未亜みあへの想いを抑えた結果、たぶん僕の耳は赤くなっていない。

 むしろ未亜みあの顔が赤くなっていることが気になるくらいだ。

 

 美桜みさくらさんなんて口元を手で押さえてニヤニヤするのを隠している。

 三枝さえぐさ班目まだらめさんも同様な様子で、気まずそうに視線を逸らしていた。


「『後輩の中で特別だろ? じゃあ妹っぽくなれば特別感が出るかな』」


 このセリフを読み上げると月菜るながますます不機嫌になる。

 組んでいた腕をさらにギュッと締め上げて胸を強調しているようだが、僕はそんなものにはなびかない。

 僕は確実に未亜みあに、そして未亜みあが生み出したこの主人公に恋をしている。


「『妹っぽくって……お兄ちゃんって呼んでみたりですか?』」


 自分の顔が赤くなっていることによる羞恥心からか未亜みあの瞳が潤んでいる。

 そのつぶらな瞳と『お兄ちゃん』の組み合わせはやはりとんでもない破壊力を秘めていて、さんざん月菜るなに呼ばれ続けてきた『お兄ちゃん』とは違う心をくすぐる何かがあった。

 主人公が未亜みあに似ているからこそ生まれる小動物のような愛くるしさや守ってあげたくなる雰囲気は演技ではなかなか出せない。


 そんな未亜みあを長年僕の妹ポジを務める幼馴染は悔しそうに睨みつけていた。

 対抗心もあるだろうし、それだけ本気だというのがわかったのは嬉しい。


「『お、おにい……ちゃん』」


「『お、おう』」


 そして追撃の『お兄ちゃん』

 これを自分の武器として未亜みあが振るうようになった僕はもう妹の尻に敷かれる兄になってしまうかもしれない。

 妹ポジが月菜るなみたいな小生意気なやつだったからこそ僕は幼馴染を妹ポジとして突っぱねることができた。


 それに対して未亜みあは天然で庇護欲をそそらせる天才だ。

 押してダメなら引く理論で、僕の心は完全に未亜みあの虜になっていた。


「『えへへ。どうですか? 先輩……いいえ、お兄ちゃんの特別に、なりましたか?』」


「『俺には兄弟がいないし、お兄ちゃんって呼ばれたこともないから特別って言われたら特別かな」』


 昨夜の練習を遥かに超える未亜みあの『お兄ちゃん』に僕は本心からこのセリフを読み上げた。

 演技力は求められていないからこそ、本音としてセリフを読めるこの状況は非常に助かる。

 反面、役柄と自分の境界線があいまいなので恥ずかしさも増してしまうけど。


 だから余計、このあとに待ち受けるあのシーンへの緊張も自然と高まっていた。

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