濁り切った水面の底

 ぼぉっと、仰木は天を見上げる。

 本来空が広がっているはずの頭上にあるのは岩天井。偶然できたのか意図的に削り込んだのかは知る由もないが、この街オーグガルドは岩壁で囲まれた洞窟の中に興っていた。


 岩に囲まれた閉鎖的な空間はどんよりと空気が立ち込め、決して居心地のいい場所とは言いがたいが、自分たちを黒辻の天眼から守るのに一役買ってくれているのだから文句は言えまい。


 「この壁の向こうはOLの支配下か……」


 洞窟内を流れる川のほとりで座り込んだ仰木は、向こう岸を眺めた。

 斜面に建てられた石造りの家々が数軒覗える。窓からは光が漏れ、干された洗濯物に生活感が滲み出ていた。


 あの三人が所属するギルド、アルフィスが根城に選んだ街であり、ギルドメンバーの家族や友人が多く暮らしているらしい。良く見れば小路の間を子供達が駆け回って遊んでいるのが見える。


 集会所に宿屋、酒場に畑と狭いスペースに工夫を凝らして必要なものが必要な分だけ揃っている街。


  「東京とはなにもかも大違いだな……良くも悪くも……」


 「元居た世界がそんなに恋しいか?」


 思いを馳せていた仰木は後ろから聞こえた声に振り返った。

 袖に両手を突っ込んだ軍師が歩み寄る。


 「お前にとってそんなにも理想的で美しい世界だったか?」


 「理想……っていうのはよくわからねぇけど、悪くはなかったなってさ。人が多くてうっとおしさもあったが、肌に合ってた」


 仰木の横に腰を下ろしたキサラギは足を放り出す。


 「あんたの世界はどんなとこだったんだよ? 詳しく聞いてなかったよな?」


 キサラギは少しだけ水面に目を落とし、話し出した。


 「卑劣な怪物たちが闊歩かっぽする残酷な世界だった。一見綺麗な世界に思えてその内側は脱落した人間を再起不能になるまで陥れ虐げる、失敗や逸脱を許さない、許してはくれない世界だった。常に人は殻をかぶって本心を隠し、怪物から身を守るために閉じこもりながら恐る恐る生活していたよ。一生を得体のしれない何かからただやり過ごすようにして、な」


 「……おっかねぇ世界だな。ホントにそんな場所があるなんて信じらんねぇ」


 「こちらの台詞だ。この世界に来てまで思い返したくなる世界など、信じられんわ」


 二人はしばらくの間、濁った水面を見つめていた。

ただただそうしているだけで、元の世界のことが頭に浮かんできてしまう。


 日常風景、学校、バイト先から、関わりのある人、友人、そして両親と二人の妹。

 残してきた家族。

 小さく溜息を吐いた仰木は力なく呟いた。


 「俺、大丈夫かなぁ……」


 「なんのことだ?」


 「あのOLだよ。戦うって言ってただろ? 正直なところ上手くやれる自信ねぇし戦う気も起きねぇんだよ」


 キサラギは立膝を着いて仰木に向いた。


 「何を今更言っているんだ。もうお前は存在を知られて、目を付けられたんだぞ? 今この瞬間にもあの魔女は天眼と魔物を使って一帯を探し回っている。他の人間のことなど気にも留めずに。王国などどうなっているか分かったものではない」


 「打倒するには十分な理由だろう」と説く彼。


 そのようなことは当然仰木も分かっている。しかしそれでも戸惑う訳があった。


 「……俺はあのOLを一度助けてるんだぜ? その後どうなったとか、死ぬほど恨まれてるとかは良く分からねぇけど、命懸けで救った人なんだよ。そんな人を今度は自分から殺しに行くなんておかしくねぇか?」


 恨む理由が向こうにはあってもこちらにはない。

 単に手を伸ばして救おうとした、ただそれだけの相手なのだと。

 考えるように俯いたキサラギは、一度仰木の瞳に眼を移し、また直ぐに外した。


 「……これは私の、軍師としての勝手な推測なんだがな」


 「な、なんだよ」


 明らかに変化した声色が仰木を前屈みにする。


 「……魔術師の言っていたこと覚えているだろう? あの魔女は自殺を試みる前にお前について諸種しょしゅ調べていた、と」


 「ああ」と頷いた彼にどこからか悪寒が走る。


 その嫌な予感は最悪なことに的中した。


 「私が思うに……あの魔女はお前の友人や家族を手に掛けたのではないか?」





 瞳孔を開いて固まった仰木に、キサラギは続ける。


 「頭が狂うほど恨めしい相手が消え、行き場のない怒り、憎しみを持て余した女が何もせずに自らの命を絶つと思うか? 自分を陥れた人間の身内を前にして、ただいくつか尋ね事をしただけで大人しく帰るとでも? 私は思えない。とてもではないが、思えないな」


 指先まで凍り付いた彼は、出来得る限りの速さで考えを巡らせた。


 なぜ学校を訪ねた?

 行方不明者の詳細を聞きたいなら警察に行けばよかった筈だ。


 なぜ家まで赴いた?

 話を聞くだけなら電話でもなんでも良かったはずだ。


 あの時、OLはこう言っていなかったか?


 ――あなたのことは何でも知ってるのよ――


 「そんな台詞はただ情報を集めただけでは口からこぼれない。もっと人間的な、本能の部分を垣間見てどっぷりと腕を突っ込まなければ掴めない言葉だ。戯言で無ければ、家を訪れただけの人間が言えたことではないだろう」


 人間の本能。それは日常的な格好や立ち振る舞いをやめた際に見える本質。


 そう例えば――


 「人間が死を迎える瞬間。恐怖に脅え心の奥底から絶望した時にこそ、その本能は水面から顔を上げる」


 キサラギは濁流を睨み付ける。


 「その瞬間を知っているからあの魔女は――」


 「ざっけんじゃねぇ!!」


 立ち上がった仰木は、顔面を冷や汗で濡らし呼吸を荒くする。


 「そんなことあるかよ! あいつに恨まれてるのは俺だ! 俺だけだ! 家族は何も関係ないだろ!? それにエリーだってんなこと言ってなか――!」


 「わざわざ伝える必要がどこにある? どうせ戻れはしないんだ。辛い現実など知らせない方が【友人】のためだろう?」  


 理を前に立ち尽くす仰木。

 少し聞いただけなのに確信めいたものが芽生えている。

 吐く息の震えが、彼の心情を濃く表しているようだ。


 「。気を晴らすため、恨みを果たすためなら無差別に行動を起こす生粋の魔女だぞ。その業火の様な憎しみはお前の友人や知り合いにも飛び火しただろう。血の繋がった家族など以ての外だ」


 何年もかの女と関わってきた軍師の言葉が心臓に響く。

 震えた脚は現実から後退りする。


 「どうだ? 少しは戦う気になったか? 仰木」


 彼の言葉を聞き終えずして、仰木はその場から走り去った。

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