ただの棒切れ
「ブビィブビィ」
と木影の方から鳴き声が聞こえた。
彼を昼寝から起こした不快な鳴き声の主は、茶色の毛に包まれた獣。パチパチと瞬く両目はその獣をイノシシと捉えたのだが良く見れば全く違う生物であった。
「……イノシシに角なんてあったか? しかも赤いし……」
本来イノシシにあるはずの無い特徴が、このよだれを垂らす獣にはあった。
燃え上がる炎のような角が二本、こちらに向いている。
前足で地面を掻いているところを見ると、どうやらこのイノシシの様な何かは数秒後に突進を考えているようだ。
「いやっ、ちょっと待ってくれ、落ち着いてぇ……」
「ブビィィィィ!!」
仰木の言葉がスタートダッシュの合図にでも聞こえたのか、その奇怪な生物はとんでもない速さで草を蹴散らし襲い掛かった。
「うわぁぁああああ!!! マジかよおいぃぃぃ!!!!」
涙を流しながら逃げ出した仰木の背中に迫る大きな足音と赤い角。
彼は雑木林の中を右に左に走り抜けなんとか追撃から逃れるが、得物を捕捉した獣はそう簡単に諦めてくれない。
二本の角を振り回して草木を蹴散らすと、獣は背中を完全に捉えた。
「ひぃぃぃいいいいい!!!!」
猛スピードで迫る足音に感付いた仰木は、接触ギリギリのところで脇に跳んで回避。獣はそのまま捻じれた木に激突したのだが――。
「……え、嘘だろ?」
目の前で自分の身体より太い木が粉砕されたのだ。
堅牢な二本の角の前に木はボロボロの木片と化している。
そんな光景を真の渡りにした仰木の脳に、変化が訪れた。
ここは建物一つ、人っ子一人いない大草原。
どこまでも広がる前人未踏の自然世界、群馬である。
そんな場所で車のようなスピードとパワーを有したこの獣から逃げ果せることは難しい。
逃げる事が困難ならやるべきことは一つだ。
「やるしかねぇか……!」
頬に一筋の汗を垂らした仰木は、転がっていた木片に手を掛けた。
大きめの木片を両手で握りしめた仰木は、赤角の獣と対峙していた。
木片は持ち手が細く、先端に寄るにつれ太く広がっていたため大きめの剣のように見えなくもない。
ただ剣術どころかチャンバラの経験もない彼にとって得物の形などどうでもよかった。
どうせ倒せっこない。
だからせめて、敵意を見せることによってこの獣が退いてさえくれればいいと考えたのだ。
「どうした!? さっきみたいに突っ込んでこないのか!?」
無理矢理口を動かして吼えてみる。
ただそんな得物を向けられても、怒鳴りを受けても、当の獣は退くどころかより一層興奮した様子でにじり寄っている。
「こ……こないならこっちから行くぞ!!」
舌打ちした仰木は木片を大きく振りかぶり、そして襲い掛かった。
同時に獣も突進を繰り出す。
振るった木片が眉間を捕らえたのだが、待っていたのは当然の結果だった。
「がぁああ!!!」
木片の直撃など気にも留めず、獣は彼の身体を突き飛ばした。
地面から生えた木々を粉砕する力を持っているのだ。人が振るった木片など木屑同然である。
二、三回地面を跳ねた仰木の身体は背後の木に叩き付けられてようやく停止。幸運にも角が刺さる事態にはならなかったようだが、あちこちから痛みの波が押し寄せる。
「ぐ……くっそぉ!! 俺は超絶美女を救った男だぞ! こんなイノシシ一匹に……!!」
睨みを利かせ、足元に転がっていた木片に再び手を掛ける。衝撃で一部木が割れて、形が変わっていたがまだ武器として扱えそうだ。
再び構え、咆哮を上げながら振るった。
しかし今度は獣に掠りもせず空を切り、よろけたところを突進が襲う。
脇腹に喰らった一撃。
今度は角からも逃れることができず、その一本がワイシャツを突き破った。
「がぁっ!!」
味わったことのない激痛。皮膚を焼かれたような感覚が襲う。
崖の斜面に叩き付けられた仰木は痛みの爆心地に向け指先を伸ばした。
「血……? 血が……」
掌には赤い鮮血がべっとりと付着していた。
その瞬間、全身を呑む痛みの中、剥いた眼で見つめた自分の血に仰木の心臓は脈打った。
このままでは死ぬ――、と。
「うわああああああああ!!!!!」
断末魔の様な叫びを上げ、
武器もなければ策もない。
地獄の門に飛び込むようなものだと理解していながらも、背中を向けることだけはしたくなかったのだ。
不慣れに振り被った拳は届くことが無く、狙いもなく蹴り上げた脚はなにも捉えない。
そして轟く衝撃。身体の芯を揺るがす突進は彼の身体をボロボロに崩してゆく。
そして何度目か、吹き飛ばされた傷だらけの彼は再びあの木片を捕らえた。
木に寄り添うように引っ掛かっていたそれは、すでに剣のような趣は無く大部分が削りとられた、ただの棒切れ同然の風体へと様変わりしていた。
「……やるしかねぇ。こんなところで……!」
眼の前には戦い、いや狩りを終わらせようと鼻を鳴らす獣が立ちはだかる。
傷だらけの手を棒切れに伸ばしたその瞬間、角を立てた獣は駈け出した。
迫りくる脅威。
いや、死、か。
怖い。
だがこんなところで野垂れ死ぬのはごめんだ。
こんなわけの分からないイノシシ相手に。
「やられてたまるかよぉ!!」
這いながら棒切れを掴んだ仰木は、精一杯の力を込めでただの棒゙を振るった。
その瞬間の感覚はあやふやだった。
眼を瞑っていた間に何が起こっていたのか、良く分からない。
一瞬身体の中を熱が駆け巡り、瞼の裏に光が走ったような気がした。
それ以外は特に思えていない。
ただ訪れた静寂に開いた眼の先には、一瞬前まで獣だったはずのものが無残にもバラバラになって散らばっていた。
そして屈み込んだ仰木の手の中にはあの棒切れ。
獣の攻撃により何度も割れ、削れて長い棒状になった得物が握られていたのだった。
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