② 新妻もものささやかなる悩み ~side:もも叶~
いい絵が描けたときは、ちょっとあやういくらいハイテンションになる。
たった今描きあがったのは、メーテルリンクの『青い鳥』で主人公兄妹が訪れる国の一つをイメージしたものだ。
そこにはたくさんの子どもたちが待っているんだ。
この世に生まれ出てくることを。
そして、愛されることを。
タッチといい色使いといい、自分ではかなり、よくできたほうだと思う。
そう思って、直後、ため息がでる。
そう思ってるのが自分だけ、じゃだめなんだよね……。
急にあたりの景色がぐるぐる回り始めて、頭を押さえる。
またか。
このところこんなふうなことがたびたびある。
かけもちしているバイトも問題なく行ってるし、たまに起こるこの変調以外は、元気ではあるんだけど。
背中に手のひらの感触がしたので、じっともたれてみる。
「やっぱり、仕事入れすぎじゃないか」
帰ってたんだ。
振り返らずに答える。
「毎晩深夜過ぎに帰ってくる人がなに言ってんの」
やっぱり、ちょっとした体調の変化に気づいてくれる人がいるっていいもんだね。
笑顔をつくってから、振りむいた。
淡い茶色の髪と目。
ラフな感じのセーターにベルト。今日はコートを羽織ってる。
こうしてみると、イケメン若手画家とかいって騒がれるのも納得だ。
世間のイメージが完璧青年すぎて、ちょっと天然なあたしのマーティンじゃないみたいなんだけど。
「いつも遅くなってごめん。このところ個展の打ち合わせとか、自作の依頼とかいろいろ重なって」
とはいえ、売れっ子画家になっちゃったものは、しかたない。
「今日は、思う存分もも叶と話そうと思って、気合入れて帰って来たんだけど、やっぱり、きみはもう寝たほうがいい」
身体は正直で、彼の言葉に甘えたあくびがでそうになる。
あわてて伸びをしてごまかす。
「話があるなら訊くよ? 籍いれたからって油断したけど結局、お互い忙しくて、案外一緒にいる時間ってとれてないままだし」
えっと、そうなんだ。
報告。あたしたち、2カ月前に、そういうことになったんです。
かといって、彼のことを夫とか旦那とか呼ぶのには、未だ違和感なんだよね。
だって、話を訊くと言っただけで、きらっと光る大きな紅茶色の目。まるで子どもころのままなんだもん。
マーティン・ターラー。彼の無邪気と正直は健在だ。
この目を見たら、疲れなんてふっとぶ。
「そうか? それじゃ」
マーティンはかばんからどさっと何冊にも重なったなにかを取りだした。
パンフレットみたいだ。
「これ……」
「式場はやっぱり栞町がいいかな。新婚旅行はどこに行きたい?」
あー。
そういえば、彼が結婚の形式についてあれこれ言ってたことを思い出す。
どうしたもんかな、とあれこれ言葉をさがしたあげく、
「いいじゃん、そんなの別に」
つとめてさっぱりと言うと、マーティンの目が大きく見開かれる。
「え?」
「お金だってかかるし。あたしは、マーティンといっしょにいられれば、それで」
彼はぱたっと雑誌類をとじて立ち上がると、部屋を歩きまわりはじめた。
「……おかしいな」
ぼそりとつぶやく。
「女の子っていうのは、ハネムーン、挙式、ウエディングドレスという言葉に憧憬を抱いているものだとばかり」
「はは。みんながみんなそういうわけじゃないよ」
考え深げな彼が立ち止まる。
「いや。もも叶はたしかに前から、普通の女の子よりやや強くてゴーイングマイウェイで、金銭欲も強い傾向にはあるが」
「悪かったね」
じっと、射抜くような目がこっちを見てくる。
「その種の憧れは強いはずだ。幼少期からとなりにいる僕が言うんだから、間違いない」
背中がぎくりと動いたのは、ごまかせただろうか。
「なにか、わけがあるな」
時々ぬけてるくせにみょうに鋭い――こんななところまで、変わらない。
昔から、けっきょく大事な局面ではあたしは彼に勝てない。
「あのさ、マーティン。あたしと結婚したこと、ファンの人たちとかお仕事関係のみなさんには、ないしょにしておいてくれないかな」
彼は直立して、ぱっとあたしの座る作業机に駆け込んできた。
「どうして!? もも叶は、僕の妻であることが、いやなのか? 僕じゃ、不足なのか……」
ショックを受けて、どんどん落ち込んでいく肩を起こして、あわてて言う。
「ちがう、ちがう。逆なんだよ」
肩をすくめて、ぼそぼそっと本音をこぼす。
「……有名画家のお嫁さんが、なんのとりえもないこのあたしなんて、なんだか」
「とりえがない? なに言ってるんだ」
マーティンの形のいい眉がつりあがえる。
「もも叶は夢に向かってがんばってるすばらしい女性じゃないか。バイトだっていくつもかけもちして」
あたしはちょっとだけ首をかしげた。
彼の言う「すばらしい」や「がんばってる」という言葉と、それらの指す意味はあたしも好きだ。
なのに、同時に、すなおにそれで満足できない自分がいる。
「だけど、手に職があるわけじゃないし、人に自慢できることなんかなにも」
彼の真剣な瞳があたしを射抜く。
「それって、そんなに大切なことなのか」
あたしは、机に顔をうつむけた。
有名になっても、ぶれないこの態度。
多くの人がマーティンの絵をたたえる一方で、彼に嫉妬してよからぬことをする人たちもいる。彼が動じるそぶりは一切ないとは言え、成功にはこういうやっかいごとはつきものだから、あたしが守らなきゃと思う。
でも、一方で、そういう人たちの気持ちも、ちょっとだけわかる。
さっき楽し気な子どもたちで埋め尽くした画用紙の片隅に一人だけ描いた、寂しそうな未来子の姿がよみがえる。
いつからだろう。
大人になってからか、あるいはもう少し前からなのか。
たぶん、彼が画家として成功しはじめて、どんどん前をかけていくのを見てから。
それが嬉しいのと同時に、あせる自分がいる。
彼と自分とのあいだに、どうしようもない距離ができてしまったみたいで。
「とにかく、今はひみつにしてほしいの。ね、お願い」
ぱちりと手を合わせると、彼は考えあぐねるように眉根を寄せて、うなずいた。
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