① 本野教授は夢心地 ~side:夢未~

「この英文の訳はこうなります。

『二人は互いに違う言葉を話す異国人同士だった』

 もちろん比喩表現です。

 スカーレットもアシュレもアメリカ人だから、違う言語を話してるはずがないですよね。

 スカーレットはこののちアメリカ南北戦争の時代を力強く生きていく女性。

 対してアシュレは文学や芸術を愛する繊細な人。

 二人の心は決して通わないということなんです」

 思わずぱしっと両手を組み合わせてしまう。

「このへんの表現が、やっぱりミッチェルさんは天才だな~って思うんですよね~。マーガレット・ミッチェル。あまりにも有名すぎるこの『風とともに去りぬ』が、唯一世に出た彼女の作品なのがほんと惜しいです! それには悲しいわけがあって――」

 そこで、一限目終了のチャイムが鳴った。

 あぁ~っ、今日も筋道意外のことしゃべりすぎちゃって予定したぶん終わらなかった。

「では、来週は続きからにします。みなさん、よい週末を過ごしてくださいね」

 そろそろ来学期からはじまるドイツ児童文学概論のレジュメつくっとかなきゃ。

 研究室から大量の本や書類をせっせと運んでいると、後ろから声をかけられた。

「本野先生!」

 みどりのかばんをかかえた3年生の学生さんだ。

「新田くん」

「すごい荷物っすね。手伝いますよ」

 新田君はわたしの腕の上に積み上げられた荷物の半分以上を持ってくれる。

「ありがとう。……そうなの。三日大学を留守にして家で仕事するってなると、どんどん増えちゃって」

「その量ぜんぶこなすんじゃ、大学来て仕事しても変わらないんじゃないですか」

「あはは。そうなんだけどね。さいきん泊まり込みもふつうになってたから、今週末は帰ってきなさいって強く言われてて」

「先生、ご実家暮らしでしたっけ」

「ううん、両親じゃないんだけど。――いっしょに、暮らしてる人に」

 ふと、彼を置いて一メートルくらい進んでしまっていることに気づく。

 ふりかえってあわててあやまる。

「ごめんね。やっぱり重かったでしょ?」

 新田君はじっとこっちを見てる。

 どうしたのかな? 疲れさせちゃった?

 でもやがてはっとして、彼はしゃきしゃきと歩き出してくれる。

「これくらい! へっちゃらです!」

 あっというまにわたしを追い越していく背中を見ながら、続いて歩き出す。

 やっぱり男子学生さん。たのもしいな。

「それじゃお言葉に甘えて、並山通りまでお願いしてもいい?」

 それは大学の前の大通りなんだ。

「了解っす!」

 歩きながら、今日の授業の話になる。

「今日の英米文学講義、すげーおもしろかったす」

 学生さんにそう言ってもらえるとほんと嬉しい。

「新田くん、いつもがんばってるもんね。宿題の英語の訳も正確で」

「授業の内容もですけど。なんか好きなんですよね。その、先生の、コメントが。ほんと、本と作者を愛してるって言うか」

「ふふ。そう?」

 よく言われるけど、やっぱり言われるたび嬉しくなる。

「それで、先生、もし聞いてよければ、ですけど。一緒に暮らしてる人って、どんな――」

 わたしは、今日の講義で言おうとしたことを思い返す。

 今日は、『風と共に去りぬ』の一場面を英文から訳して、解説したんだった。

 相容れない者同士を描いたこの場面は切ないです。でもみなさん、逆の経験ってしたことありませんか? この人には言葉がすっと伝わる気がする、そんなとき。

 並木道の一角に停車している車に、わたしは目を止めた。新田君から荷物を受け取る。

「ありがとう。ここまででいいから。それじゃ、週末楽しんでね」

「あっ。本野先生、ちょっと――」

 わたしは急いで車にかけよって、後ろの席のドアを開ける。

 中に大量の書類と本を乗せて、自分も乗り込む。

 異国で母国語を話す人に出会ったっていうのはおおげさかな。自分の言っていることが、ある人にはわかってくれる気がするとき。

「遅くなってごめんなさい。家に持って帰る荷物が多くなっちゃって」

 すごくほっとして幸せな気持ちになるよね。

「おかえり。教授さん」

「教授だなんて……まだまだなれなくて」

 笑顔のまま、運転席のカレは前に向きなおった。

「となりに座ってくれる?」

 あれ。

 優しいけど有無を言わさぬこのかんじ。

 長年のつきあいでわかる。

 なんか、怒ってるのかな?

 わたしは後部座席から出て、助手席に座りなおしてシートベルトを締めた。

 車は発進して、栞町の大通りを走っていく。

 栞町大学がバックミラーに移って遠ざかっていく。

 沈黙がこわくて、わたしはカレを呼ぶ。

「あの……星崎さん?」

「さて、訊かせてもらおうかな」

 赤信号で車が止まって、カレがこっちを見る。

「さっきのは誰」

 さっきの?

 わたしは、新田くんに大通りまで荷物を運んでもらったことを思い出した。

「ああ。よく事務を手伝ってくれる学生さんです」

 再び前を向いたカレの目がすっと細まる。

「そういうことを訊いてるんじゃないよ。どういう関係なのかってこと」

 どういうって……。

「真面目な学生さんで、いつもお仕事助けてくれるから頼りにしていて」

「頼りにね」

もう少し、警戒心を持ってもらいたいな。

 彼がなにかつぶやいたけど、よく聞こえない。

 なんか……よくない雰囲気だよね。

 こんなのやだな。

 働くようになってからはいっしょに暮らしてるとはいえ、星崎さんとなかなか時間が合わなくて、ゆっくり話せなかった。

 せっかくの久しぶりの週末デートなのに。

 どうしようかと考えていると、運転席から声がした。

「……ごめん」

 へ?

「あまりにも早く、夢ちゃんが大人になってしまって。こっちも戸惑ってるんだ」

 わたしが大人にって? なんの話だろう。

「仕事も、夢も、正直ここまでやるとは思ってなくて。毎日ほんとうに輝いてるし。それに」

 彼は少しだけ小さな声で、

「きれいになったから、驚いてる」

 今度は、聞こえちゃった。

 一気に顔が熱くなる。

 学生でいた頃よりは、自分でお金を稼げて、多少おしゃれにも回せるようになったから。

 まえより少しは見られるかな? ってほんのとちょっぴり期待はしてたけど。

「そそ、そんなきれいだなんて」

 こんなふうに言われたら舞い上がっちゃう。

「星崎さん、あの!」

 あせって話題を変えようとしてしまう。

「今夜はどこに連れてってくれるんですか?」

 行先は任せてって言われてるんだよね。

「ついてからのお楽しみ」

 栞町の大通りを抜けて、車は都心へと走っていく。

 カウンターはブルーライトに照らされていて、奥には色とりどりのお酒が光ってる。

 おしゃれだな。

 それに、高いんじゃないのかな?

「星崎さん、ここが……」

星崎さんが予約しといてくれたお店なのかな?

「そうだよ」

 ほら、座ってと席を引かれて、腰かける。

「でもわたし、あんまりお酒はいけないって。お医者さんから」 

言われてるから、成人してからもあんまり飲んだことないんだよね。

「今日ぐらいはいいよ。特別に、一杯だけ」

 はぁ。

 色のきれいなカクテルを注文すると、彼が話しかけてきた。

「でも、やっぱりちょっと堪えたな。夢ちゃんもやっぱり、年の近い子のほうが話があったりするのかなって」

 なんの話だろう。

「はい。同年代の人と話すのは楽しいです」

 ももちゃんやせいらちゃんも忙しいらしくて、最近なかなか連絡とれないけど。

「そうか」

 ふと、カレの視線が落ちる。

「やっぱりね……」

 ん?

 どうしたんだろう?

 そこで注文したお酒が来て、なんとなく沈黙になる。

 店員さんが言ってしまうと、二人で乾杯した。

「夢ちゃんと飲める日がくるなんてね」

 彼はしみじみ言って。

「星崎さん、お父さんみたい」

「うん。今の流れでそれは言ってはいけない言葉だから、聞き流すね」

 え? そうなの?

 彼とは、いつもは通じ合えてるって思ってるんだけど。

 今日の話はよくわかんないな~。

「どう。それ」

 一口含んだカクテルは魔法みたいなきらきらした味だった。

「おいし~っ。これが大人の味なんだ」

 それからしばらく淡いブルーライトの中でお話。

「仕事はどう。体力的にも重労働だから、心配したんだけど」

「はい。大変だけど、楽しいから平気です」

 かすかなはずの照明がまぶしくて。

 あれ?

 なんだか身体がふわ~っと浮いてるみたい。

「好きな文学のこと一日中考えていられるって幸せです。うふふふ」

 どうして楽しい気分になるんだろう。

「人間関係はうまくいってる?」

「はい。同僚の先生たちや学生さんたちと、飲むこともあるんです。あ、いつも一口だけにしてます。もちろん」

 でも今日は、カクテルをかかげる手がとまらない。

 これ、やっぱりおいしすぎる。

「……あまり、オレ以外の人の前で酔ったらだめだよ」

「星崎さんっ」

 がたっと音を立てて、椅子から立ち上がる。

「わたしだってもう20代を半分過ぎたんです。もう子供じゃないんですっ。お酒くらい飲みます!」

 びしっと敬礼のポーズ。

 星崎さんはちょっと目をしばたたいたけど、ふっと笑ってワイングラスをかかげた。

「オレからしたら、まだまだ君は小さな女の子だよ。出会った日から少しも変わってない」

 そう言ってワインを飲む姿も前と変わらずスマートで。

 見ているとどうしてかみょうに、悔しくなる。

「それなら」

 椅子に腰を下ろして、すす……と、星崎さんに近寄る。

 袖のすそを引いて、彼の耳に手を当てて。

 ささやく。

「わたしを、はやく大人の女性にしてください」

 激しくむせる彼を見て、意地悪な喜びがこみあげてくる。

「夢ちゃん……。もしかしてものすごく弱い?」

 困っているその様子がいつにない感じで、見ていて楽しくなる。

「ばれちゃった? そうなんです~。お酒だけじゃないの。わたしってば子どもの時から、星崎さんに酔っちゃってる感じ。きゃっ。言っちゃった。ふふふ」

「酔わせようと少しも思ってなかったっていったらうそになるけど。でも、それにしても早すぎない? まだ三口くらいしか、飲んでないのに」

「だからー、こんどはわたしが、星崎さんを酔わせてあげるんです」

 ゆらゆら。

 揺れる身体を、ぐっと彼に近づける。

 耳元で、ナイショの話を告げる。

「マンションに帰って、シャワーを浴びたら、わたしの部屋に来てほしいんです。

任せて。ぜったい満足させてあげられる自信があるの。そこでね、わたし。わたし……星崎さんのためだけに、ベッドにあがって」

「夢ちゃん。わかったから、ちょっとそこまでにしようか」

 動揺している彼がかわいく見えて、よけいに困らせたくなる。

「いや。聞いてくれなきゃいやです」

「でも、今はその。周りの人がこっちを見てるし」

すっとわたしは手を伸ばした――まっすぐ、上に。

そして、決定的な言葉を叫ぶ。

「朗読会を開きます! じゃーん!」

「……え?」

「大学の講義中にわたしが文学を朗読するの、学生さんにけっこう好評なんですっ。重厚な悲恋から、ほんわか児童書まで、なんでもこいです! 本の中の世界に酔いしれちゃうこと間違いなしっ。リクエストはありますか?」

「……」

 がっくりと、彼が右手に顔をうずめた。

「夢ちゃん、とりあえず、声を抑えて」

「『声を抑えて』―? そんな本あったかなー? さっすが星崎さん。わたしですら知らない本をもってくるなんて……ただものじゃないです!」

「ああ、どうしたら君は落ち着いてくれるんだろう」

「あっ、何冊でもオッケーなので、ほかにもあったら言ってくださいねっ! わたし調べておきます。まだまだ勉強不足だなーっ」

 気分が高まって、言葉があとからあとからでてきて、とまらない。

「……それじゃ」

 星崎さんは考えてから、仕方なさそうにわたしの耳元に口を近づけた。

「君がほしい」

 言葉を聞くか聞かないかのうちに、急激に眠くなって。

 それから、視界が真っ暗になった。

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