⑧ 「理不尽」が残すもの

 こぼれんばかりの光を放つクリスマス市なのに。

 わたしは来て早々、ベンチで休んでいた。

 目の前には当たり前のように大好きな人がつきそっていてくれる。

 かすかに痛む肩や足を抑える。

 とほほ。こんなんで時間さかさま組織と戦えるのかな。

「ごめんなさい。星崎さん。わたしいつもすぐ疲れて――むむっ」

 ぺちっと、右の頬を片手でつかまれる。

 口をふさがれたと思ったら、流れ込んできたのはホットフルーツティーだった。

「そういうことは言いっこなしだよ。疲れやすければ、ゆっくり歩いて時々休めばいい」

 ごくごくっと、甘い柑橘系の香りのするそれを飲み干すと、わたしはきらびやかなクリスマス市の背景がとても似合う星崎さんに目を向けた。

「星崎さんはどうしてそんなに優しいんですか」

 ふわりと溶けちゃうくらい優しく彼は微笑んで。

「夢ちゃんを安心させるためかもね」

 そっか。

 でも。答えになってないような。

「その。わたしが知りたいのは、どうしていつも安心させてくれるのかっていう」

 ちょっとおもしろそうに、星崎さんはクリスマス市のおもちゃ屋さんに目をやる。

 そこには鳩時計や、おとぎ話のお人形がたくさん並んでる。

「いっぱいご飯を食べてよく眠って。きみがすっかり油断したころ、食べてしまうためだよ」

 あ。

 ぷっと噴出す。

「星崎さん、グリム童話のワンシーンじゃないんだから~」

 ぐっと頭の上に手がおかれる。

「それまでせいぜい、すくすく育ちなよ、赤ずきんさん」

 幸せな気持ち。

 こんな気持ちをたぶん、ずっと前にも知っている。

 お父さんもよくお話してくれたな。

 赤ずきんとか、七ひきのコヤギ。おもしろいグリム童話。

 今頃、お父さんはどうしてるんだろう。

 お父さんは――。

「――!」

 わたしは立ち上がった。

 クリスマス市を行き交う人込みの中に、見知った人影。

 わたしは駆け出していた。

「――夢ちゃん!」

 足が痛いなんて言っている場合じゃない。 

 お父さん、お父さん……!

 人込みをぬって、走って走って。

 ようやくその、大きな背中に追いつく。

「お父さん!」

 周りを歩いているのは笑顔の人々。

 でもその楽し気な声すらきこえなかった。

 振り向いた人は、怪訝そうに首をかしげた。

 彫りの深いヨーロッパ独特の顔立ちをした男の人。

 お父さんとは、ぜんぜん、ちがう……。

 その場に、しゃがみこむ。

 冷たい風が頭を心を冷やしていく。

 わたし、なにを考えていたんだろう。

 お父さんがドイツまで追いかけてきてくれる?

 そんなはずない。

 ほんとはわかってる。

 お父さんは今病気で。

 病棟の中、怖い顔をして。

 想像すると、身体が震えてくる。

 誰かの激しく吐く息がすぐそばで聞こえる。

 切らした息のそのままに、その人はわたしを抱きしめる。

「よかった。無事で」

 温度を全身に感じた瞬間、ぷつりと糸がきれたように、涙のつぶがほっぺたを転がって伝っていく。

「ほし、ざきさ、ん」

 頭の片隅でする冷静な声だけが、わたしの口を動かしていた。

 変だ。こんなの。

「わたし、おかしい、です」

 ついさっきまで焦がれるように必死で追っていたお父さんに今度はぶるぶるおびえたり。

「さっきは、うっ、ほんとに。ほんとに会いたかったの。お父さんに。でも」

「うん」

「今は、すごく、こわい……」

 わからない。

 自分の心なのにまるで他人のものみたい。

 行きかう人が時折不思議そうに、二人してうずくまるわたしたちを見る。

 そんなこと。ちっとも気にしていないというような声がする。

「怖いけど、会いたい。おかしな感情に思うかもしれない。でも、きみが置かれた状況を考えればとうぜんのことなんだ」

 ふいに頭にあるフレーズが立ち現れる。

「一見つらいと思われることも、じつは神のしわざ。あとになってよかったと思えるように神さまはしてくださる……」

 ごく小さくつぶやいた言葉だった。

 でも目の前の人には届いてしまったみたい。

「アルプスの少女ハイジのセリフだね」

 本の出展だけじゃなく、その切れ長の目は、なにもかもわかっていそうだった。

 わたしの言葉の奥にあるものも……もしかしたら、わたしよりも。

 星崎さんはふいに笑顔を消すと、もう一度天井を見上げる。

「あれをはじめて読んだとき、そんなわけあるかって思った。今でもそれは変わらない。つらいことっていうのは時として特定の人ばかりを理不尽におそう。けれど」

 星崎さんの瞳が、またわたしをとらえた。

 穏やかな瞳。

 誰より、優しい瞳。

「その人だけになにか特別なものを残していくのも、事実らしい」

 星崎さんにいざなわれて、わたしは教会の席に腰かける。

「どんなことを言われたって、きみがつらいことを経験したことがよかったなんて思わないし、運命や神様に感謝なんてなおさらできないけど」

 背中にあたたかい感触がする。

「そういう特別ななにかを夢ちゃんにはたっぷりつかんでもらいたいんだ」

 今度感じた温かさは、頭の上に。

「夢未。幸せになりなさい」

 わたしは彼へと身体を傾けた。

 そうか。

 じわじわとぬくもりとともに、なにかが伝わってくる。

 この人なんだ。

 ひどい運命がなければ出会えなかった、かけがえのないもの。

「今でも幸せです」

 甘えるように、もたれかかる。

「星崎さんがいるから。わたしは……幸せです」

 どうしてか、星崎さんが少しだけ泣きそうな顔になって。

 遠くに描かれたイエス様が、わたしたちを見つめていた。

 

 数分後。シュネーバル。雪の玉という名前のおかしをもって、わたしはベンチに向かっていた。

 あれからなんだか照れくさくて、甘いものでも買ってきますって言って、星崎さんのところからおつかいにきているの。

 光の中をとぼとぼ歩いていると、息を切らしながら、深緑のブレザーがひるがえる。

「マーティン」

「夢未」

 立ち止まった彼は、切羽詰まった顔で言う。

「もも叶を知らないか? ちょっと目を離したすきにいなくなって」

「えっ!」

 まさか……時間さかさま組織?

「マーティン、わたしもいっしょにさがす」

「あぁ。ありがとう」

 わたしたちは、クリスマス市の中に駆け出した。

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