③ けじめ ~マーティンの語り~

 もも叶が飛び出して行ってすぐ、夢未の部屋の扉が開いた。

 神谷先生がでてくる。

「どうした。バタバタ音したけど」

「いえ、その、少し」

 ごまかし方を考えていると、呆れたように目をすがめられる。

「しょうがねーな。今痴話げんかしてる場合じゃねーだろ」

「こちらのことです。それより、夢未は」

 神谷先生は首を横にふる。

「あの様子じゃ、時間が必要だろうよ。無理もないって。それだけのことがあったんだから」

 ポケットに片手をつっこむと、扉にもたれて宙を睨む。

 やっかいなことしてくれたよなと声に出さないつぶやきを、今ここにいない人に向けて。

 呆れを移すその顔の中には、なにか別の感情がある気がした。

 愛情、それによる諦め――いや、理解?

 この件があってから彼にずっと、訊きたかった。

「神谷先生。なにか知っているんじゃないですか。星崎さんのこと」

 彼から一切の表情が消えた。

 漆黒の目がこちらに向けられる。

「なんでそう思う」

「勘です」

 かすかに、口元が弧を描く。

「ほんとにそれだけか?」

「……」

 こんなときにもからかいたいのかと思ったが、目下の立場上しぶしぶ正直になる。

「星崎さんはブラックブックスにねがえったと。そう認めないと前に進めないと思ってた。でも、そうもも叶に言ったら――」

 声のない笑いが彼からもれる。

「彼女に泣かれて考え直したか」

「――はい」

 可能性は、獄中の光のごとくかすかだが。

「少しでも別の可能性の手がかりがあるなら、知りたくて。どんな小さなことでもいいです。なにか知りませんか」

 それは彼女の笑顔を取り戻す光なら。

 じっと僕を見つめ、神谷先生は、うなずいた。

 伸びをするようにやれやれと両腕を頭の後ろに回す。

「そろいもそろって、あのお嬢さんたちにゃ、すっかり骨抜きでかなわねーな」

 ハンカチでも取り出すように、何気なくシャツの胸ポケットに伸ばされた右手。

「お前といい先輩といい」

 取り出されたのは、通帳だった。

 ちらと視線で確認すると、眼前に突き出される。手に取ってみてもいいということらしい。

めくってみて、唖然とした。あまりに高額だ。

「動物園に行った直後、電話で話があるって言われてな。先輩に渡されたんだ。自分にもしものことがあったら、夢未ちゃんのことをたのむと。当面は養育費にあてて、成人したらそのまま渡してほしいって」

 じっと目の前にある数列を凝視し、思考をめぐらす。

 星崎さんは、夢未との別れを覚悟してその準備もしていた。

 でも、その目的はなんなんだ。

 これが計画的なことだったならやはり。

  信じたくはないが、ブラックブックスに加入することなのか。

 誰にともなくつぶやいた推論は、神谷先生の想わぬ言葉を引き出した。

「オレが言えることは、あの人の目的がなんであれ、受け入れるってことだ」

「神谷先生!」

 抗議の声にも、彼は揺らがない。

「星崎先輩は大学時代、それだけのことをオレにしてくれた。そのとき生まれて初めて、全部を肯定された気になってさ。 だから今回のことは、ただ黙って受け止める」

  神谷先生は呆然とするこの手から、軽やかに通帳を受け取った。

「それがオレのあの人へのけじめなんだよ」

 掲げて見せるその表情は穏やかだったが、その奥に横たわるのは動かしがたい感情だということが、容易にみてとれた。

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