② 捨てられない理想論 ~もも叶の語り~
マンションの小さな夢の部屋は、ライトブラウンの木の壁と、ピンクの椅子や小物、そして机や棚を埋め尽くすたくさんの本からできている。
ベッドでは神谷先生が夢をなだめて、そして、ピンクの椅子になにもいわずにいるせいらがいる。
両手の隙間からかすかにのぞく歯をくいしばっている。
隠しきれていない気持ちがいたいほどわかる。
悔しいんだ。
せいらにとって夢は小学校のとき転校してきて、はじめてできた友達なんじゃないだろうか。
その子のピンチになにもできずにいることが、姉御肌なせいらにはたまらなくきついんだろう。
あたしだって同じだ。
そしてきっと今、この場にいるだれもが、どうしたらいいのかわからずにいる。
優しいあの子をとりかこんで、真っ暗闇の中、立ち往生だ。
「もも叶」
目の前の闇が、気を緩めたようにふと、晴れる。
「ちょっといいか」
窓から射しこむ日差しの中にいたのはマーティンだった。
いつもよりいくらか深いストレートティー色の目が、黙って扉を指ししめす。
「うん」
あたしはうなずいて、そっと、彼に続いて部屋を出た。
♡
部屋の外に出ても、彼はなかなか切り出さない。
また、沈黙が訪れて間もなく、言うべきことが浮かんだ。
「お礼、まだだったね。こんなときにあれだけど、ほんと、ありがとう。マーティンと神谷先生がきてくれなかったら、あたしたち」
ブラックブックスにとらわれて、気を失っていたあたしとせいら。
気がついたときには、ブラックブックスのアジトの外にいたのだ。
地面にふせてむせび泣きつかれて眠る夢を残して。
どこもけがしてなかったけど。
すでに、夢はぼろぼろだった。
かけつけてくれた彼たちといっしょに必死になだめて、こうして連れ帰って来たというわけだった。
「気にしなくていい。当然のことだ。……話したいのはそのことじゃなく」
マーティンは扉に目をやった。
『夢ちゃんの部屋』と、かわいらしい字で書いてあるハート型のプレート。
その向こうに、ぼうっと暗がりを見つめている夢が見えるようだ。
あれから丸二日、眠っていた夢。
「あんな夢見てるの、正直つらい」
つい、言葉が漏れる。
目の前にいるのが彼一人になるとつい、気が緩んでいけないな。
マーティンはまだ扉を見つめて、しばらくじっと黙っていた。
たっぷり五秒くらい空いて、ふいに視線を落とすと、その口元から、なにかをかみ殺すように声が漏れる。
「僕は正直、星崎さんを許せない」
どきり、と心臓の柔らかいあたりがうずいた。
「夢未は、彼のことは忘れたほうがいい」
一度聞こえた音はその後、何度も連続してあたしの中で早鐘のように刻まれる。
「あの人が言ったっていう叶えたいことは、ブラックブックスと同じ目的だってことは自明だ。本をほかの時代に売ることで、莫大な利益をえようとしている」
あたしの中のどこかにもあった疑惑。
それを彼はなぞるように明るみに出す。
正論ってやつだ。
だからこそ。
「なんでそうやって決めつけるの?」
だからこそ、腹が立った。
「ほかになにかわけがあるのかもしれないじゃん!」
マーティンがゆっくりと顔をあげる。
「じゃぁきくけど、そのわけってなんなんだ?」
西日を受けたアールグレイが、痛いほどまっすぐにこっちを照らしてくる。
わかってる。
「それは」
あたしが言ってるのは、たんなる空想、妄想――いや、もっとひどい。理想論だ。
「もも叶もほんとはわかってるんだろ。ほかに考えられないって」
正論を前にした理想論なんて、粘土をひねるみたいにかんたんにねじふせられちゃうんだ。
いつだってそう、それが世の中ってやつだ。
「でも、でも……」
内側のクールな自分の声を必死で押し返すように、声が漏れる。
でも、今のあたしは。
「現実を見るんだ。もも叶」
抵抗するようになってしまっている。
大切なあの子のことでは。
「好きな、人のことだもん、そんなにかんたんに切り捨てられないよ。たとえ自分を傷つけたとしたって、好きなものは好きなんだよ。夢の気持ちにもなってあげてよ! それでも仲間なの」
そしてそれを彼にもわかってほしいと。
どこかで思っていたんだ。
「マーティンがそんな薄情者だとは思わなかった」
吐き捨てて走り去っていた。
行先なんか考えてない。
玄関先で靴をひっかけて。
この状況をどうにもしてくれない理想論に向かって、全力で走っていた。
「――つらいのは、わかる。僕だって。でも、はやく切り替えないと、夢未はずっと、前に進めない――」
背中で聞いた彼のつぶやきに、耳をふさいで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます