② 捨てられない理想論 ~もも叶の語り~

 マンションの小さな夢の部屋は、ライトブラウンの木の壁と、ピンクの椅子や小物、そして机や棚を埋め尽くすたくさんの本からできている。

 ベッドでは神谷先生が夢をなだめて、そして、ピンクの椅子になにもいわずにいるせいらがいる。

 両手の隙間からかすかにのぞく歯をくいしばっている。

 隠しきれていない気持ちがいたいほどわかる。

 悔しいんだ。

 せいらにとって夢は小学校のとき転校してきて、はじめてできた友達なんじゃないだろうか。

 その子のピンチになにもできずにいることが、姉御肌なせいらにはたまらなくきついんだろう。

 あたしだって同じだ。

 そしてきっと今、この場にいるだれもが、どうしたらいいのかわからずにいる。

 優しいあの子をとりかこんで、真っ暗闇の中、立ち往生だ。

「もも叶」

 目の前の闇が、気を緩めたようにふと、晴れる。

「ちょっといいか」

 窓から射しこむ日差しの中にいたのはマーティンだった。

 いつもよりいくらか深いストレートティー色の目が、黙って扉を指ししめす。

「うん」

 あたしはうなずいて、そっと、彼に続いて部屋を出た。

 部屋の外に出ても、彼はなかなか切り出さない。

 また、沈黙が訪れて間もなく、言うべきことが浮かんだ。

「お礼、まだだったね。こんなときにあれだけど、ほんと、ありがとう。マーティンと神谷先生がきてくれなかったら、あたしたち」

 ブラックブックスにとらわれて、気を失っていたあたしとせいら。

 気がついたときには、ブラックブックスのアジトの外にいたのだ。

 地面にふせてむせび泣きつかれて眠る夢を残して。

 どこもけがしてなかったけど。

 すでに、夢はぼろぼろだった。

 かけつけてくれた彼たちといっしょに必死になだめて、こうして連れ帰って来たというわけだった。

「気にしなくていい。当然のことだ。……話したいのはそのことじゃなく」

 マーティンは扉に目をやった。

『夢ちゃんの部屋』と、かわいらしい字で書いてあるハート型のプレート。

 その向こうに、ぼうっと暗がりを見つめている夢が見えるようだ。

 あれから丸二日、眠っていた夢。

「あんな夢見てるの、正直つらい」

 つい、言葉が漏れる。

 目の前にいるのが彼一人になるとつい、気が緩んでいけないな。

 マーティンはまだ扉を見つめて、しばらくじっと黙っていた。

 たっぷり五秒くらい空いて、ふいに視線を落とすと、その口元から、なにかをかみ殺すように声が漏れる。

「僕は正直、星崎さんを許せない」

 どきり、と心臓の柔らかいあたりがうずいた。

「夢未は、彼のことは忘れたほうがいい」

 一度聞こえた音はその後、何度も連続してあたしの中で早鐘のように刻まれる。

「あの人が言ったっていう叶えたいことは、ブラックブックスと同じ目的だってことは自明だ。本をほかの時代に売ることで、莫大な利益をえようとしている」

 あたしの中のどこかにもあった疑惑。

 それを彼はなぞるように明るみに出す。

 正論ってやつだ。

 だからこそ。

「なんでそうやって決めつけるの?」

 だからこそ、腹が立った。

「ほかになにかわけがあるのかもしれないじゃん!」

 マーティンがゆっくりと顔をあげる。

「じゃぁきくけど、そのわけってなんなんだ?」

 西日を受けたアールグレイが、痛いほどまっすぐにこっちを照らしてくる。

 わかってる。

「それは」

 あたしが言ってるのは、たんなる空想、妄想――いや、もっとひどい。理想論だ。

「もも叶もほんとはわかってるんだろ。ほかに考えられないって」

 正論を前にした理想論なんて、粘土をひねるみたいにかんたんにねじふせられちゃうんだ。

 いつだってそう、それが世の中ってやつだ。

「でも、でも……」

 内側のクールな自分の声を必死で押し返すように、声が漏れる。

 でも、今のあたしは。

「現実を見るんだ。もも叶」

 抵抗するようになってしまっている。

 大切なあの子のことでは。

「好きな、人のことだもん、そんなにかんたんに切り捨てられないよ。たとえ自分を傷つけたとしたって、好きなものは好きなんだよ。夢の気持ちにもなってあげてよ! それでも仲間なの」

 そしてそれを彼にもわかってほしいと。

 どこかで思っていたんだ。

「マーティンがそんな薄情者だとは思わなかった」

 吐き捨てて走り去っていた。

 行先なんか考えてない。

 玄関先で靴をひっかけて。

 この状況をどうにもしてくれない理想論に向かって、全力で走っていた。

「――つらいのは、わかる。僕だって。でも、はやく切り替えないと、夢未はずっと、前に進めない――」

 背中で聞いた彼のつぶやきに、耳をふさいで。

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