② 美人組合
敬愛するシャーロック・ホームズと、このももロックとのあいだには唯一一つだけ、大きな隔たりがある。
あ、そこ、一つだけのわきゃないだろとか言うな。あたしが一つといったら一つなんだ。
それは、シャーロックは独身主義者であり、このももロックは恋愛を謳歌する花の少女というところなんだ。
なんでこんな前置きをしたのかって?
それはだね、これからはじまる、事件、そう、『美人組合』事件とでも名付けようか――の始まりは、あたし、ももロックが、カレのマーティンとのデート中に戸をたたいてやってきたからなんだ。
デートとは言っても、それは芸術の勉学を兼ねたまじめなものだった。
場所はマーティンの通っているギムナジウムの一室で。
キャンパスを前に鉛筆をもつ彼と、少し離れたところに腰かけているあたし。
そう。
あたし、ももロックは、マーティンの絵のモデルをつとめていたのだった。
それも、今月末に行われる、ギムナジウム校内絵画コンクールの最終候補のひとりに、マーティンが残っていて。
決勝に提出する作品のモデルをぜひにと頼まれたので、すでに三週間前から、週に二度、土曜日の午後と日曜日はこうしてここで、彼のモデルとなっていたんだ。
五月の日差しはたぶん、あたしのかすかに赤らんだ頬を照らし出していたと思う。
椅子に座りながら、あたしは心もち、視線を斜め下に落とす。
髪をわざとちょっと乱れた感じにアップして、肩までと胸が少し出るワンピースドレスを着ている。
ちょっとどきどきするこのかっこうは、絵をかきはじめるさいしょのころ、彼がおずおずと申し出たものだった。
すっきりした上半身のラインを出したいから、できたら着てほしいって。
『け、決して他意はないんだ! 誓う。ただ、もも叶がいやなら無理にとは……』
照れ隠しに、あたしはこう返した。
『か、絵画のためならこんなのなんのその! 芸術のためならわたくし、脱ぎますわ! おーっほっほ! あれ?』
……ひょっとして外した?
真っ赤になって、でもカレは笑顔で。
『……その。ありがとう』
かくして、ちょっとどきどきの絵画制作がはじまったというわけ。
くだんの事件が戸をたたいたのは、スケッチがもう少しで完成するかという頃。
「どうぞ」
ノックのあとで入ってきた人物を見て、マーティンは紅茶色の瞳をすがめた。
金髪撒き毛を肩までたらした高校生くらいのお兄さんだ。
制服からして、同じギムナジウムの生徒だろう。
「よう、ターラー。やってるね。休み時間も惜しんで絵画制作か」
あたしたちを眺めるように見ると、彼は言った。
「同じ最終候補者として、当日は正々堂々戦おうじゃないか」
マーティンは笑顔をつくってうなずく。
「もちろんです」
にっこりと笑顔を返し、その彼は言う。
「それにしても、さすが優勝候補は違うねぇ。こういう狭くて貧乏くさいアトリエでないと集中できないんだ。まさにプロ意識ってやつだな」
あたしは人知れず唇をかんだ。
なにそれ。
ほめるふりしてけなしてる?
マーティンも多少むっとした顔で。
「なんの用ですか、クラウス先輩」
クラウスと呼ばれたその人は一歩、一歩とあたしに近づいてきて。
「いや、風のうわさで耳にしたんだ。きみの美人のモデルを一目見たくてね」
そして、あたしのあごに指をあてて、
「ふむ、噂通りの東洋風美女だ」
び、美女!
そんなこと言われたことなくて、びっくりしてしまう。
マーティンが、その指を振り払った。
「やめてください。彼女はただモデルというだけではありません」
いじわるく、クラウスの口がつりあがる。
「ほう、じゃあの噂はほんとうだったのか」
「別に、否定する気はありません」
「ふーん」
また眺めまわすように、部屋のあっちがわからこっちがわから、立ち位置をかえてあたしを見てくるクラウスに、いやな感じはしたけど、マーティンがしずかに頷いてくれて。それはまるで、堂々としていればいいって言ってくれているようで。あたしはぴんと姿勢を正した。
すると急に表情をほぐしたクラウスが言った。
「いや、ごめんね、美人さん。ついうらやましくて、やっかみなんか言ってしまったよ」
「は、はぁ」
「それもこれも実は、ちゃんとしたわけがあってね」
「?」
彼は制服のブレザーをさぐると、一枚のビラを差し出してくる。
そこにはなにかが書かれていたけど、ドイツ語で読めない。
代わりに、マーティンが、見出しを読み上げてくれる。
「“美人組合”……?」
それを待っていたかのようにおうように微笑んで、クラウスはうなずいた。
「なにをかくそう、この僕も、美しいものを愛する一人だ。これは、美人をこの世に繁栄させ、助けて行こうと、学校内に立ち上げた組合でね」
「……」
なに言ってんだこの人。
マーティンも同じことを思っているらしく、すわった目で先輩を見ている。
そんなことちっともかまわないというふうに、しなやかな手をさっと胸にあてると、クラウスはあたしの前にひざまづいた。
「きみみたいな美しい人なら大歓迎さ。どうだい? 組合に入らないかい?」
「……ええと」
組合の名前はいいけど。そんな紳士風に言われても。
「美人組合って、いったいなにするんですか?」
クラウスはふふんと口の端を斜めにあげて微笑んで、
「土曜日と日曜日のこの時間、僕の部屋にきて、簡単な仕事をしてもらうんだ。とっても簡単な仕事だから、そこは安心してくれていい。報酬として、百マルク進呈する」
あたしは、マーティンに顔を向けて、
「それって日本円でいくら?」
「約五千円だ」
そして再び、クラウスに顔を向けて。
「やります」
「おいっ! もも叶!」
漫才風のつっこみを彼はしてくるけど。
「心配しないでマーティン。今月お小遣い厳しいんだ。ママに前借交渉したけど失敗したばっかだし、こりゃいいや!」
気分はうきうき、ウハウハである。
「決まったな。では行こうか。美人殿」
「はいはい、美人、行っきま~す!」
「もも叶……」
がっくりきているマーティンに心の中でそっと、ごめんねと呟いて。
あたしは勇んで、クラウドの部屋とやらに向かったのだった。
モデルさんというのは、要求されるのは美しさだけではない、実際は大変な仕事だ。
要望にあった表情、苦しい姿勢まで、完璧にこなさなくてはいけない。
クラウスの言う「仕事」もどうやら絵画のモデルらしかったんだけど……。
あらかじめ彼が予告していたように、これはとほうもなく、楽な仕事だった。
だらんとソファにねころがってお菓子を食べていていいという。
自然体を模写したいといって、クラウドはしゃしゃっとキャンパスにペンを走らせていく。
その様子を観察しつつ、あたしはソファの前のお盆いっぱいに用意されたレープクーヘンやバウムクーヘンを、ひたすらほおばり続けた。
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