⑤ カノジョの出立とカノジョの来訪 ~星崎さんの語り~

「ただいまです!」

 同居人の彼女が帰ってきた。

 扉を開ける音や歩行音が普段よりやや大きめな気がするが、気のせいだろうか。

「夢ちゃん、おかえり。今日は夢ちゃんの大好きなクリームシチューだよ。我ながらいい出来だ。ほら、見てごらん。にんじんなんか夢ちゃんのほっぺたみたいにピンク色に――」

「星崎さん、しばらく心を落ち着ける旅に行ってきます! 三十分経ったら帰ってきます!」

 再び、わずかながら大き目の音をたてて、ランドセルを置いたその足で彼女が玄関へと向かう。

 ……あれ。

 まさか。

 彼女に甘い言葉をかけて……外した?

 このオレが。

 信じがたい想いだ。

「夢ちゃん、なにかあったの――」

 ピーっ。

 追いかけようとしたところで、シチューが沸騰してしまった。

 窓の向こうに見える道路を横切っていく編みこみとショートカット姿が早くも目に入り、遅かったかと思う。

 ひとまず鍋をまぜながら分析する。

 あの表情は彼女がもっとも表出する頻度の少ない感情を呈している。

 すなわち、怒りだ。

 負の感情はなにかと抑えがちで、その境遇から表現することがまったくできなかったときもあることを思うと、これは喜ばしい兆候だろう。

 欲を言えば、それを言葉にして心を開ける誰かに伝えられれば満点だ。

 さらに、しがみついて甘えたり泣いたりできたらもっといい。

 多くの人がそうであるように、あまりに純粋かつ繊細で生きるのが得意でない彼女にはそういうことがとりわけ必要なのだ。

 さて。

 火を止めて次の思考にうつる。

 怒りの原因はなんだろう。

 席替えでとなりの席になった男子があまり芳しい反応ではないと報告を受けたが、察するにその関連かもしれない。

 あまり過保護なのも問題だとか、塾講師をしている大学の後輩に言われて、最近はまずは様子を見ることにしているが、なにかいやなことがあったら、すぐにこちらに言うように徹底すべきだろうか。

 一人、菜箸を手に考えていると。

 インターホンが鳴った。

 なんて間が悪い、と思ったが、玄関で来訪した人物を見ると、そうでもなかった。

「ももちゃんか。こんばんは」

「……こんばんは」

 その様子で、大方のことを悟る。

 いつでも快活な彼女が、さっきの夢ちゃんと同種の表情をしている。

 そして普段より一段低い声で、彼女はなにやら差し出してきた。

「これ。夢から借りてたシャープペンです」

「わざわざ届けに来てくれたの? ありがとう」

 何食わぬ顔で受け取ると、もも叶ちゃんはがさごそとランドセルの中をかきまわしはじめる。

「あとこれは、借りてたCD、こっちは、本と漫画計六冊。最後に、友情連絡ノート~星崎王子の意外なドジ記録~編」

 最後の届け物の詳細をたずねたい衝動がこみあげたが、ぐっとこらえる。

「そんなにたくさんのものを一度に届けてくれるのはきっと、なにかわけがあるんだね」

「……」

 ファッション性の高い薄桃色のランドセルをしめようとする彼女の手から、それをそっと奪い取る。

「入っていかないかい。一緒に夕飯でもどう?」

「でも」

 有無を言わさぬよう、ランドセルの人質を連行し、ダイニングへ歩を進める。

 振り向きざま、決定打を打つ。

「夢ちゃんは三十分心を落ち着ける旅に専念したいそうで、戻ってきてくれないそうなんだ。だからだいじょうぶだよ」

「あ……」

たまねぎとミルクのいい香りに、彼女はぐっと口を結んだ。

「ほら。オレひとりだと寂しいからさ。おいで。おうちには連絡しとくから」

「……」

 もも叶ちゃんはくっとうなずいて、おじゃましますと礼をした。


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