⑩ 賭け
赤と黒のポケットが交互に並ぶルーレットがぐるりとカウンターテーブルを囲んで、その中心にはわたしと、ケストナーおじさん。テーブルの向こう側の椅子には、星崎さんとお父さんが並んで座ってる。
わたしは星崎さんのほうへ走った。
カウンター越しに彼に訴える。
「星崎さん。こんなことしてたら、一時間あっという間に経っちゃいます。その前に、ここから逃げてください」
彼は微笑んだまま、首を傾げた。
「そのお願いだけは、きけないな」
「だって……一時間したらみんな消えちゃうの。ここにいたら星崎さんまで。だからお願い、やめて」
カウンターの向こうから、手を取られた。
「一時間後には、クリスマスにふさわしい場所に連れていくから。一緒にきれいな景色を見ようね」
その言葉を最後に、手が離される。
「さて、ではそろそろ賭けを始めよう」
ケストナーおじさんは、カウンターの上に一冊の大きな本を開いた。
アルファベットがたくさん書かれたその下の空欄の部分に、ペンで絵を描いて行く。
一つ目に描かれたのは、足がたくさんある不気味な虫だった。
そして次は、大きな車の車輪。
そして最後に、砂でできたお城の中にいる、女の子。
「よし、これで準備ができた」
「らくがきなんかして、なんのつもりだ」
お父さんが憮然として言う。
ケストナーおじさんはそれをものともせずに笑った。
「文章を書いているとね、一つの単語のスペルを間違えて消そうとすると、前の行まで消してしまうことがままあって、これがけっこう面倒なんだ。その点イラストはいいな。そんなことがないように、一つずつ離して描けばいいんだから」
へ……?
ケストナーおじさん。なにが言いたいんだろう?
「貴様、ふざけてるのか」
お父さんも、怒ってる。
「まぁ焦らずいこうじゃないか。賭けの問題はこうだ。今から、この三つの絵を消しゴムで消すんだが、これらが消えると同時に、ひとりでに消えるものがあるかどうか。イエスなら、ルーレットにセットした球が赤いポケットに、ノーなら黒いポケットに収まる。よく考えて賭けたまえ」
謎だらけ。
三つの絵を消したら、何かが一緒に消える?
それこそ、文章を消したら隣の行も消えちゃうときみたいに。
そんなことあるはずない。三つの絵は離れた場所に描かれていて、それぞれの近くには線の一本もしみひとつも描かれてないんだ。
お父さんの口元が上がった。
「考えたな、文豪さんよ」
テーブルの上で、ひらりと手を振る。
「単純な話だ。ここに描かれてるのは、三つとも人間だろう」
えっ。
三つ目の、砂の城の中の女の子はわかるけど。
あとの二つはどう見ても、虫と車輪だよ。
びっくりしていると、お父さんがそのわけを語りだす。
「虫は、男性が変身した姿。そして車輪は、『車輪の下』に登場する少年を象徴してる。どちらもドイツの本に出てくる主人公の姿だ。カフカの『変身』に登場する主人公は、懸命に働くビジネスマンだった。ところがどうしてか虫になってしまってからは家族にもひどい扱われようだ。最後はかわいがっていた妹に致命傷をおわされるときてる。そして、ヘッセの『車輪の下』の少年は、懸命に学問に生きるも、力尽きてその命を失う」
そうなんだ。
どっちも、悲しいお話なんだ。
お父さんが続ける。
「彼らはちっぽけな軽い存在だ。虫に変身したビジネスマンがいなくなってくれたおかげで家族は厄介払いができて幸せになる。学問に生きていた少年にも誰も支えてくれる人はいないのだ」
さすがお父さん。出版社のお仕事をがんばってきたからだ。すごく本に詳しい。悲しい本を語るのが真に迫ってるのは、それだけじゃない。お父さんの心も、悲しみでいっぱいだからかな……。
「つまり、答えはノーだ。こいつらがこの世から消えても、なんの影響もありはしなかった。物語はそういう結末だ」
うん。
ドイツだけじゃない、外国の本ぜんぶにすごく詳しいお父さんがそう言うからには、間違いない……。
「オーケー。それが夢未ちゃんパパの答えだ。では、星崎くん、君はどう出る?」
星崎さんは、じっと本に描かれた絵を見つめた。
心の中で、私は星崎さんに語りかける。
星崎さん。はやく。はやく、ノーって答えて。
そうしないと、彼は消えてしまう……。
ようやく、星崎さんは顔を上げて、ケストナーおじさんを見た。
「イエスだ」
わたしは動けなかった。
「別のものがともに消えゆくことに、賭ける」
どうして。
星崎さんだって、外国の本にすごく詳しい。ここに描かれたお話たちは知ってるはずなのに……。
「よろしい」
ケストナーおじさんは、銀の球を手に取った。
「回答が分かれた。これではっきり勝敗がつく」
ケストナーおじさんは、テーブルの上の台に球をセットする。
その先にはイエスの赤とノーの黒いポケットが交互に並んでいるルーレットがあって、ぐるっとわたしたちの周りのカウンターを囲ってる。
銀の球がケストナーおじさんの指を離れて、台からルーレットに滑り降りた瞬間、勢いよく赤と黒のルーレットが回り出した。
何週も回った後で、銀に光りながら球が、ようやくゆっくりになる。
球が黒いポケットの枠の上で、止まった。
そして、落ちた。
隣の、赤いポケットの中に。
力が抜けて、わたしはしゃがみこんだ。
「なぜだ。どうしてだ」
お父さんが悔しそうに言う声が聞こえる。
「お前は砂の城の少女のことを忘れてる」
星崎さんの言葉に、わたしは頭の片隅で想う。
そういえば。
砂のお城の女の子は、どんなお話の主人公なのかな。
「夢未が消えると、消えゆくものがあるというのか」
お父さんの言葉にはっとなる。
最後の絵。あれは、わたし……?
「逆に聞くが、ほんとうに、彼女が消えゆくことへの影響がなにもないと、思っているのか」
星崎さんにそう言われたお父さんはただ悲しそうにたたずんでる。
「もうおしまいだ。夢未と、やりなおせなかった」
わたしは、ゆっくりと、そのうなだれた背中に近寄った。
「お父さん。わたしの記憶が、リセットされなくても。また、戻れないかな。もう一度、お父さんに本読んでもらいたい。本のこと、好きな人のことも、いっぱいお話ししたいんだ」
ようやく言えた。
わたしのほんとに言いたかったこと。
それはたぶん、今すごくほっとしてるからだと思う。
お父さんが、ゆっくりと顔を上げる。
魂を抜かれちゃったみたいに、ぼけっとして、そして驚いている顏だった。
星崎さんの、声がする。
「この痛いほど澄んだ想いが、あなたが消そうとしたものの正体だ」
お父さんが席を立った。そのまま、ふらふらとさまよいだす。
「夢未はまだ、オレを想ってくれていた……? 憎まれることしかしなかったオレを」
そしてカウンター越しにケストナーおじさんにその目を向けた。
お父さん。もういいの……!
そう言う前に、お父さんが言った。
「あなたが本物のケストナーなら、あの国への行き方も知っているんだろう。『子どもが大人を教育する国』。出てきたのは、『五月三十五日』だったか」
それは、子どもにひどいことをしてきた大人がその気持ちを学ぶためにいく、厳しい場所。
大人が、殴ったり、ひどいことをした子どもから罰を受ける。
ケストナーおじさんは今度だけは真剣な顔をして言った。
「行くのかい?」
「……夢未が殴られるたび味わってきた想いを、知る必要がある」
ケストナーおじさんがパチンと指を鳴らした。
「ちょうど直通の汽車が来た。行っておいで」
とたんに、辺りからカウンターもルーレットも消えた。わたしたちがいるのは、パレ駅のホームだった。汽笛を鳴らして、黒い汽車がやってくる。
「お父さん。いいの。もう――」
とめようとするけど、ケストナーおじさんに抑えられちゃう。
「夢未」
汽車が閉まる直前、お父さんが言った。
「ごめんな」
❤
ケストナーおじさんがもう一度指を慣らして、わたしの前のカウンターが扉みたいに開く。
彼の手が、右の肩に触れた瞬間、涙があふれてきたんだ。
「夢ちゃん」
「星崎さんっ」
こんなに心に収まってたのかってくらい、あとからあとから涙が追いかけてくる。
「怖かった。星崎さんが、消えちゃうかもって。お父さんと引き離すためにお父さんをここに招き入れたのに、どうしようって」
「ようやくほんとの気持ちを言ったね」
「ごめんなさい。ごめんなさいっ」
「いや、今回は許さないよ」
星崎さんはわたしの左の肩にも触れて、抱え込んでくれるように向かい合った。
「優しさや正義のためでも、小さな子が一人ではやっていけないことがある。オレなんかのために、心も身体もこんなにぼろぼろになって」
目の前が暗くなって。身体中があたたかくて。
ぎゅって抱きしめられてるんだってわかった。
「二度としないって誓えるか」
ぬくもりのなかでわたしは答えた。
「わ……かりました。星崎さん」
「もしもし? 二人ともすっかり忘れてくれているようだが、僕もいるんだよ」
あっ。
わたしはあわてて星崎さんから離れる。
ケストナーおじさんが困ったように笑ってた。
「やれやれ。見せつけてくれるね。君たちにも迎えの汽車が来たようだよ」
その言葉に導かれるように、明るい汽笛の音がした。
線路の向こうから、透き通った青色の汽車がやって来たんだ。
「深夜の特別ダイヤとは気が利いているな」
汽車の前にはプレートがさげてある。
栞町のマンション方面
その下にこう書いてある。
夢未がいなくなると、いっしょになくなってしまう美しい島経由「家路につく前の寄り道もいいだろう。二人でクリスマスデートでもしてお帰り。ケストナーおじさんからのささやかなお祝いだ」
星崎さんが、ケストナーおじさんに向き直る。
「天才作家さんに感謝するには、言葉が追いつかないけれど。まずは、夢ちゃんのこと、ありがとうございました」
「おや、僕は何もしていないよ。ただ本の中からずっと、君たちを見守っていただけだ」
「あなたはいつの時代もずっと、あなたの本に安らいにきた子どもたちを、こうして気にかけているんでしょう」
ケストナーおじさんは答えなかった。ただおどけて笑ってるだけ。
「行こう。夢ちゃん」
差し出された星崎さんの手を取って、わたしは汽車に乗った――。
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