⑨ 心の奥のきみに会いに

 ここは、砂でできたお城の中。

 狭い部屋が一つだけ。中にあるものは一つ。木でできたテーブル。椅子もないんだ。

 わたしはその片隅に座ってる。

 身体がすごくだるくて、動く元気が起きないの。

 お父さんに殴られて気を失ったあと、気付いたらここにいたんだ。

 木とガラスの窓でできた扉は、鍵がかかったように重く開かない。

 ここ、わたしの心の中みたいなの。

 わたし以外誰もいない。

 ここにいればもう、苦しいことはなにもないんだって思ったら力が抜けた。

 ずっとこうしているんだって思ったそのとき、どんどんと、勢いよく扉を叩く音がした。

 重い身体を起こして、扉の前に立つと、砂にはめられた今にもとれそうなガラスの窓に懐かしい顏が映ってた。

「ももちゃん、せいらちゃん。どうしてここが」

「モンゴメリさんから方位磁石を借りてきたの。オルコットさんの物語占いで、夢がこのままだと危ないって出たから」

 ももちゃんが、窓の向こうで手を伸ばしてる。

「夢、開けて。いっしょに帰ろう」

 その顏は泣きそうだった。

「こんなとこにいたらだめだよ。夢みたいないい子が」

 ゆっくり目線を隣に動かすと、せいらちゃんも同じ顔をしてた。

「夢っち。心に閉じこもらないで。またあたしたちと一緒に文学乙女会議したりして遊びましょう」

 じわっと、心になにか暖かなものがにじんだ。

 でも、涙は出てこない。

 そのわけが、わたしにはわかってた。

 ここで気がついたときから、心がぱさぱさっていうような気がするの。

 わたしはもう、泣けない。笑えない。涙はもう、枯れちゃったんだ。

「ありがとう、ももちゃん。せいらちゃん。せっかく見つけ出してくれたのに、ごめんね。わたしもう、頑張れないんだ。だから、ずっとここにいる」

 二人は親友だけど、たぶんこの気持ちだけは、伝わらないだろうな、と思った。

 もうなにもできないだろうって気持ち。

 わたしだってはじめてのこの気持ちを二人は味わったことがないと思うし、そう、願いたいから。

「そんな……。夢っち。そんな悲しいこと言わないで」

 せいらちゃんが顔を覆っちゃった。ももちゃんも目の隅を濡らして、いつもみたく、怒ってくれる。

「夢。そんなのだめ! 夢の恋はどうなるの? 好きな彼のことはこのままでいいの?」

 首の重みでそうなったように、わたしはゆっくり頷いた。

「もういいの。ぜんぶ、これでいいの」

 わたしはもう一度、部屋の隅にうずくまった。

 いいんだ。

 もうあんな怖い想いはしたくない。

 彼が傷つくかもしれないって心配を、ここにいればしなくていい。

「そこに、いるんだね、夢ちゃん」

 ……!

 背中の後ろから聞こえてくる声に、わたしは耳を塞いだ。

「来ないで、星崎さん」

 きっぱりした口調が返ってきた。

「いや。君が泣いてもわめいても、無理やりにでもそっちに行く」

「だめ。せっかく、星崎さんがお父さんに見つからずに済んだのに」

「君が、心を壊してまで守ってくれたおかげでね」

 どうしよう。

 また心が落ち着かなくなってくる。

 どきどきいやな音が、聞こえる。

「怒らないでください。ほかにできなかったんです」

「オレを怒らせたくなければ正直に言ってごらん。そこに、お父さんもいるんだろう」

 わたしは、テーブルを挟んで反対側に立っていた人と目を合わせた。

 そこで、今まで黙ってたお父さんが、驚いてる。

「どうして……」

 どうしてわかっちゃったんだろう。

「やっぱりか。悪いけど夢ちゃん。もう待てない。入るよ」

 力強く、砂の扉を開け放つ音がした――。

 星崎さんは、部屋に入るとすぐにわたしにかけよって、肩をつかんだ。

「お父さんがもう誰も傷つけないように、ここに招き入れた。オレの身が危うくなることも恐れて。そうだね、夢ちゃん」

 どうしよう。

 違いますって言わなくちゃ。

 それなのに、口が動かない。

 代わりに、お父さんが答えた。

「ふん。めでたいやつだ。言わせておけば好き放題でっちあげおって。真実を教えてやる。  夢未はわたしと生きることを望んでいるんだ」

 星崎さんがお父さんを見た。溜息と一緒に、冷たい声が響く。

「聞いてあきれる。めでたいのはどっちだ」

お父さんがばかにするように笑った。

「さぁて、どちらかな」

うかれるようにお父さんが星崎さんに近寄ってくる。

おかしな笑顔を星崎さんに近づけて、お父さんは言った。

「夢未をたぶらかして奪ったお前に親切にしてやる気はないが、教えてやろう。この部屋は一時間後に消える。ここにいる夢未と一緒にだ」

「なんだと」

 お父さんが高い声で笑う。

「悪いことは言わん。早く出て行くんだな。でないと一緒に消えることになるぞ? 縁もゆかりもない娘とそこまでの運命をともにする義理はあるまい、王子様?」

 星崎さんの目がすっと冷たくなる。

 じわっといやな汗が流れるのを感じる。これ以上お父さんが星崎さんになにか言わないうちに。わたしは叫んだ。

「そうなの。お父さんの言うのはほんとうです。星崎さん、逃げてください!」

 すっと私の前に星崎さんの腕が伸びる。

 一瞬優しくわたしを見てくれた彼を見たら、すぐにわかった。

 なにも言うな、ここは任せろってことなんだ。

 でも、不安……。

 仕方なく、わたしは黙ってお父さんと星崎さんを見た。

 星崎さんが口を開く。

「それで。……お前はどうする。道連れになるのか。最後の最後で父親らしいところを見せようってわけか」

 お父さんは、口元におかしな形の笑いを浮かべた。

「馬鹿な。この夢未が消えて行くのを見届けて、一時間が経つ直前に出て行くさ。この子の持つ過去の記憶が、想いが消えれば、オレがしてきたことも一緒に消える」

 お父さんは、わたしを消そうとしてる。

 少し前のわたしだったら傷ついてたかもしれない。

 でも今はその言葉はただ、身体をなぞるだけだった。痛くはないの。

 心が、身体中が、痛いってことを感じない鉄になったみたいなんだ――。

「そしてオレは、なにもかも忘れた夢未と、新しい生活を――」

 なのに、どうしてだろう。

 次の瞬間、鋭い殴る音を聴いた瞬間、すごく、自分が悲しんでるって気がして。

 涙がでてきた。

 星崎さんが、お父さんを殴ったんだ。

 それまで笑っていたお父さんは、急に爆発したように、悲しみいっぱいの顔になった。

「あぁ、軽蔑するがいい。俺にはもうこんな手でしか未来を手に入れることができない。それ以外に、どうしろっていうんだ!」

 また、大きな打撃の音が響く。

 お父さんが、星崎さんを殴り返した。

 その音で、一気に身体の重みがとれる。

「星崎さん!」

 わたしは彼のもとに走って、ポケットからハンカチを取り出した。

 彼のほっぺたの血を、ぬぐう手が、震えてるのが自分でもわかる。

「いいんだよ、夢ちゃん」

 いいえ、だめです。

 そう言おうとするけど、唇が震えて言葉にならない。わたしは首を横にふって、手当を続けた。

「冷やすものが、あれば、跡にっ、ならないと思うんですけど」

 どうしよう。また、泣きそう。

 もうやだ。

 もうやだよ。星崎さんが傷つくかもって、怖くなるのは。

 頭の後ろに、包むような感触がする。

 彼が、わたしの頭を胸に引き寄せたんだ。

「今は、心配することが違うだろ。このままだと、自分が消えるってときに」

 とうとう、限界だった。

 いったん涙がでてきたら、とまらない。

「もう、いいの……っ。星崎、さん。わたしが消えようとしてるのは、わたしが消えたいからなんです」

 頭を撫でてくれていた手が凍りついたように止まった。

 お父さんがせせらわらう。

「見たことか。夢未、お父さんとうまくいかなかったことは忘れて、また仲良くやり直そう。そうしたいんだよな」

 泣きながら、わたしはお父さんに頷いた。

「……うん」

「いい子だ。ついでに、邪魔者の男のことなんか忘れてやりなさい」

 お父さんは星崎さんに向き直る。

「これでわかったか。夢未はわたしと幸せに暮らすんだ。それを壊す権利が赤の他人の貴様にあるのか」

「お父さん。星崎さんをそんなふうに言わないで」

「夢ちゃん、黙って」

 星崎さんはぎゅっとわたしを抱きしめてくれて。

 低く冷たい声で、続けた。

「反応すると、獣は余計興奮するよ」

 ぎょっとしてわたしはお父さんを見た。

 お父さんはまた口元を歪めて笑ってる。

「なるほど。このわたしが獣か。そうやって貴様は、人の娘に色々と吹き込んだんだな」

「違うよ、お父さん。星崎さんは――」

 わたしの言葉を星崎さんが遮る。

「そうだ。人であることを捨てた獣が常につきまとっているのに、警告しない手はないからな」

「なんだとっ」

 わたしはさっと血がひくような気がした。

 後ろを向いててもわかった。お父さんはまた星崎さんを殴ろうと迫ってきてる。

 かばわなくちゃ。

 身体が動くその前に、星崎さんがお父さんの拳を受け止めた。

 わたしを抱きしめたまま。

「あいにく、そういう手には慣れていてね」

 お父さんの目が不機嫌そうに歪んだ。

「ふん。向かい合って、正面から戦りあったって一向に構わないんだぞ」

「いいだろう」

わたしをそっと隣に置いて、星崎さんは立ち上がった。

「オレもこのままでは収まりがつかない。怒りを持て余してたところだ。夢ちゃんにこんな悲しいことを言わせた、自分自身への」

どうしよう。

これってかなり、危ないような。

「星崎さん、やめて……っ」

そう言おうとしたとき、ふんわり黄色い光が現れて、人の形になったの。

「やれやれ、穏やかじゃないな。この組み合わせではこうなるかもとは思っていたがね」

帽子に、スーツ姿の、のんきな口調。

ケストナーおじさん……!

「二人とも、仮にも僕の本で育った身なら、もう少し穏便に事を運んでほしいな」

 のんびりした笑顔でケストナーおじさんは提案した。

「勝負方法は紳士らしく、上品な賭博というのはどうだろう」

 賭博?

 って、なにかを賭ける、あれのこと……?

 それって、ギャンブル!?

「賭けの商品は、夢未ちゃんだ。勝者は彼女が消えるか残るかを、好きに決めることができる」

 ちょちょっと待ってケストナーおじさん。

 そう言う前に、おじさんはパチンと指をならして。

 辺りは照明を落とした空間の中でわたしは大きなルーレットに囲まれていた――。

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