⑧ 幻想と語り手 ~星崎さんの語り~
リビングルームのカウンターで、グラスを前に佇む。
あの子と暮らしたこの部屋は今のオレには毒だから、忘れるために飲むのに、あのあどけない姿の残像が、次々に蘇ってくる。
『わたし、星崎さんが大好き。そのこと覚えててください』
「星崎さん」
ついには本当に呼ばれたような気がして、振り返る。もちろん、部屋には誰もいない。
そうとう飲んだようだ。
息をついて椅子の背にもたれると、後ろに気配がした。
「荒れているね。つきあうよ」
ライトブラウンの帽子を被り、隣の椅子に腰かけて、グラスにワインを注ぐ彼は、さっきの男性だった。オレに、真実を見せた、星降る書店の得意客。
「幻覚と思ってくれてかまわない。今の君には話し相手が必要だ」
どこからやってきたかとか、その正体の追及を思いとどまらせたのは、酒のせいか、もしくは彼の台詞がなぜか説得力があったからか。
テーマパークでは彼女を助ける手助けをしてくれたり、もともとどこか不思議めいた人だ。
いずれにしても次の彼の一言が、完全に思考を止めた。
「夢未ちゃんに、会いたいかい。病を抱え込む前の、彼女に」
感情が溢れて、ブレーキが効かない。
こんなことは初めてだった。
「……会いたい」
叩きつけるように、グラスをテーブルに置く。
夢ちゃん、君に会いたい。
「会って、今度こそ。ただ、この場所にいさせてやりたい。なんの心労もなく、本を読んでゆっくり過ごさせてやりたいんだ。勝手な大人のせいで、天使のようなあの子は苦しみすぎた」
氷のぶつかる、どこかこの場に不釣り合いな、小気味の良い音が響く。
グラスを片手に、隣に座った彼は笑顔だった。
「よろしい。会いに行ってくるといい」
不審に思って彼の顔を見上げ、目を疑った。
リビングにあったはずのカウンターは、駅のプラットホーム上に存在していた。
昔本で見た、カナダの駅のようだ。
線路の向こうから、汽笛の音をさせて、青く透き通った汽車が走ってくる。
「1044番線の最終がやってきた。必ずや君の行きたい場所へ導いてくれるだろう」
深酒のしすぎか。
「気持ちはわかるが、今夜は騙されてみたまえ。昔からのつきあいで君の我慢強さは知っているが、今はそうでもしなければ君の心は今度こそ危うい」
昔からのつきあい?
「あなたは」
彼は、頭の上のつばの広い帽子を上げた。
「エーリヒ・ケストナー。昔から度々、僕の書いた本の中にきてくれてありがとう。星崎くん。今年最後の児童文学会議で決定したんだ。君の願いを叶えると」
嘘のようなその答えを、オレは抵抗なく受け入れていた。
確かに、今の自分に手を貸してくれる存在といえば、この文豪の名前くらいしか浮かばない。
どんなにこちらが絶望の内にいても、本を開けば絶えずユーモアに満ちて笑っている、語り手。
ケストナーはオレを汽車の中に促すと、扉を閉めながら、叫んだ。
「夢未ちゃんの心の最奥へ」
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