⑳ 夢のお父さん

 万を持して、あたしは『名作の部屋』の前に立っていた。

 鉛筆型の部屋を包む薄紫のカーテンとオレンジの扉。

 そのドアノブに手を掛ける。

 マーティンは、どうして別れ話なんか切り出したのか、ちゃんと訊く。

 そのうえであたしの気持ち、伝えるんだ。

 一歩踏み出そうとした、そのとき。

「君。すまないが、少しよろしいかな」

 誰やねん。文学乙女の一大事に。

 顔を向けて、あたしは思わず一歩後ずさりそうになる。

 そこにいたのは、スーツ姿のがっしりしたおじさん。

 夢のお父さんだったんだ。

 夢を何回も殴ったことがあって、今は離れて暮らしてる。

 すぐ怒鳴ることはあたしも経験して知ってる。

 少し前本を焼く炎がこの栞町を襲った時、火のもとはこのおじさんの心だったんだ。

 あのときは火を消すために、あたしも夢も大変だったんだから。

 あたしはできるだけ背筋を伸ばして、答える。

「なにかご用ですか」

「いや。用というか、その」

 おじさんは少しためらうと、あたしの目を見て、言った。

「夢未がどこにいるか、教えてほしいんだ」

 ぴぴぴっと、頭の中に警報発令。

 絶対、だめだ。

 答えは決まってたけど、同時にちょっと同情した。

 おじさん、すごく悲しそうで、断ったら消えちゃいそう。

 前のくそおやじぶりがうそみたいだよ。

 とはいえ、どうしよう。

 困ったすえ、あたしは腹を決めた。

「教えられません」

 目をつぶってぐっと身構える。

 怒鳴られたって、例えグーで殴られたって教えない。

 ところがいつまで経っても大きな声もパンチも襲ってこなかった。

 あたしはそっと目を開ける。

「そうか。そうだろうな。わかった。悪かったよ」

 おじさんは力なく微笑むと、くるりと背中を向けて、この階の自動ドアの方へ去って行った。

 途中振り返って、あぁそれからと、一言言い残した。

「夢未と友達になってくれて、ありがとう」

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